孫 泰蔵×糸井重里対談「ご近所の社長は、やっぱりすごい人だった。」 孫 泰蔵×糸井重里対談「ご近所の社長は、やっぱりすごい人だった。」
Mistletoe株式会社の孫泰蔵さんと、
糸井重里が対談をしました。
きっかけは孫さんがSNSで、糸井が尊敬する
岩井克人さんについて語っていたこと。
しかも孫さんの会社
「Mistletoe(ミスルトウ)」があるのは、
ほぼ日の事務所と同じビル。
そんな縁もあって、4月のある日、
ふたつの会社のメンバーが観客となった、
とくべつな公開対談がおこなわれました。
対談後、みんなが口々に
「おもしろかった!」と言い合った、
その日のトークをご紹介します。
(9)やめた、もう全部やめた。
糸井
だけど、孫さんがMBA野郎だったときは、
それはそれで前には進んでたわけですよね。
それはもう、それでガシガシ進めてましたよ。
いわゆる生産性の指標とか、
KPI(重要業績評価指標)がなんだとかを
いっぱい見て、360度評価とかしてですね。
「あー、やることいっぱいあって忙しいなぁ!」
みたいな。
会場
(笑)
糸井
そういうこと、いっぱいありますよね。
ありますね。
で、コンプライアンス(法令遵守)とか
J-SOX(内部統制報告制度)を率先して入れて、
「やはりコンプライアンスは大事ですから」
みたいな。
糸井
(笑)だけど笑いながら言うのも失礼だけど、
それほどの人が、どうして変わったんですか? 
いつ頃までそうだったんでしょう。
ほとんどの時期がそうですよ。
いま僕は45なんですけど、
5年前くらいまでそうでした。
当時はとにかく毎日
いろいろなデータやら指標を見てたんです。
糸井
それをいまや害毒だとまで言うのには、
何かあったんですか?
いろいろありますけど、
ひとつには僕の尊敬する事業家の方に、
朝日ソーラーの林武志さんという方が
いらっしゃるんです。
林さんは、うちの兄貴に輪をかけて
本宮ひろ志先生の世界の人で。
「朝日ソーラーじゃけん」みたいな(笑)。
僕はその男気な感じを、
とっても尊敬しているんですけれども。
糸井
ええ、ええ。
で、ご本人はもうお忘れかもしれないですが、
僕が若かった頃に林さんが
「泰蔵、お前40まではね、いろいろ言わんで
『なるほど』と思ったことを全部聞いて、
その通りやってみろ」
とおっしゃったんです。
若い僕にはそれがものすごくガシッと入りまして
「よし、40までは徹底的にやるぞ」
と思ったんです。
そして、
「自分ももっともっと成長したい。
だからとにかく突き進もう。
経営者として苦労を重ねて、
ある意味、あらゆる苦難を乗り越えた先に、
本当に強い人間、強い経営者になれるはずだ」
そんなことを思うようになりまして。
糸井
それはもう、筋力アップの考え方ですね。
そうなんです。
ずっとそういうマッチョ的な考え方をしていて、
それで本当に40まで行ったんです。
糸井
それはすごいですね。
ただ、自分で作った「ガンホー」
(人気ゲーム「パズル&ドラゴンズ」の会社)も、
株価がドカーンと上がったあと
ドカーンって落ちたりとかですね。
ワーっと上がってワーっと落ちたせいで
「金返せこの野郎!」とか「納得いかん!」とか
怒られまくって、株主総会でずっと
「申し訳ありません」と言い続けるとか、
そういう時期を繰り返して。
やっぱり30代後半、明らかに苦しかったんです。
35以降の5年くらい、
苦しくて苦しくてしょうがない。
糸井
あぁー。
だけど
「いや、この先に絶対何かある。絶対ある。
だから俺は全部苦難を引き受けるんだ」
とか思い込んで、
MBA野郎として推進しまくってですね。
なにもかも全部やるって言って。
それを40までやったときに
「ついに40になった‥‥!」と思ったんですよ。
糸井
はい。
で、ある日、ふと自分の予定を見たら
1週間の予定全部が朝から晩まで、
いろんな会社の経営会議と戦略会議と
監査法人と銀行回りで埋まっていたんです。
そのとき本当にはたと
「俺は会議するために生まれてきたんじゃない!」
「もう、こんな人生クソだ」
と思ったんですよね。
マックスまでいきまして「もうやめた!」と。
糸井
あぁー‥‥。
ちょうどその頃に東日本大震災もあり、
それも自分にはすごく大きくて。
それで
「やめた。もう全部やめた」
と思って、いろいろな取締役とか社長とかを
全部下りていったんです。
糸井
なるほど。ああ。
そこから5年くらい経って、
いますごく楽になってみると
「どうしてわかんなかったんだ、アホやん」
ってそういう感じですね。
糸井
枠を作るためにやってきたことが自分に
「もっと強固な枠を作れ」
と要求するようになって。
そうです。そんな感じですね。
糸井
それで「自分が我慢すればいいんだ」と
思ったことが、
他人の我慢も強要せざるを得なくなって。
そうそう。
糸井
それで、その他人の我慢が、
また見ず知らずの人の我慢を
要求するようになって。
そう。なって。
糸井
で、その我慢の先に
ユートピアがあるっていうお題を
こう絶えず唱えなければならなくなって
‥‥という、その循環ですよね
まさにそんな感じでした。
本当にそうです。
糸井
その捕らわれ方ってなんだろう。
僕自身はうまくそこから逃げられてきたので、
ちょっとズルなんですけど。
いやいや、ズルじゃないですよ。
糸井
とりあえず、そういう友達が
あんまりいなかったので、助かったんです。
南伸坊みたいな人とばかり生きてるから、
僕みたいなのがしっかりした人に
見えるんです。
「糸井さんはそういうことちゃんとやるよね」
みたいな。
おかしい(笑)。
糸井
あと僕は昔、
自分が「世界は思うようになる」って
誤解してた時期があるんですけど、
それが30代後半なんですよね。
孫さんの40歳とちょっと似てますよね。
あぁー。
糸井
で、僕も40ちょぼちょぼの頃に
「お前が見てた世界は実は一部で、
向こう側にいる人からすると、
クズにしか見えないよ」と思い知るわけです。
だけど糸井さんの著作や作品には、
そういう「向こう側からの視点」って
常にありますよね。
僕、とってもそれを感じます。
それは『MOTHER』にもすごく感じました。
糸井
たぶん若い時から、
どこかそういう感覚なんですよね。
『MOTHER』の主人公は喘息の少年なんで、
特にヒーローじゃないんです。
片親ですし、お父さんが離婚訴訟中で
‥‥要するに、自分ちなんですよ。
あれはもう、ものすごく画期的でした。
糸井
いや、それを「青年・孫泰蔵」に
やってもらって。
もうやっぱり、ものすごい影響を受けましたよ。
だから今日、お会いできるのが本当に楽しみで、
何を申し上げたいとかは特にないんですが、
ひとつだけお伝えしたかったことがあって。
糸井
はい。
もちろん糸井さん自身のところにも
『MOTHER』に影響を受けたという声は
直接届いていらっしゃるとは思うんですけど、
それ以上に、
「口に出して言っていないけれども、
とてつもなく影響を受けている方々が
たくさんいる」ってことです。
そして、その1人が私でもありますと。
‥‥それを今日はすごくお伝えしたくて。
本当にね、影響が大きいんですよ。
糸井
いや、ありがとうございます。
少なくとも私は、私の一部が
形成されてるって、本当に思うんですよね。
(続きます)
2018-05-25-FRI