東北の仕事論。気仙沼 藤田商店 篇
第4回 筏に残っていた希望。
──
自宅も工場もすべて流されてしまって、
しばらくは消防団として
活動される中、
事業を再開しようと思ったのには、
どのようなきっかけがあったんですか。
藤田
あの風景を見たとき、
俺、むこう5年は無理だなと思った。



目の前の海を見たって瓦礫だらけで、
家が建ってたりするわけで。
──
家?
藤田
いや、流されてきた2階建ての家が、
目の前の海に建ってるんです。
──
ずっと恵みをもたらしてくれていた、
見慣れた海に。
藤田
見た目のインパクト、ものすごくて。



手元には何も残ってないし、
日々の生活すら、ままならない状況。
──
はい。
藤田
だから、ここにいる山田さんから
ファンドの話をもらったときも、
親父から
「お前、全国の人たちから
 支援をしてもらうって言うけど、
 海のもの、
 いつ採れるようになるか、
 わかんねえぞ」と言われまして。



※セキュリテ被災地応援ファンドのこと
──
ああ‥‥。
藤田
「ウソついて
 お金を集めたみたいになるのは、
 俺は嫌だからな」って。
山田
じつは、藤田さんには、
斉吉商店さんとか八木澤商店さん、
つまり、あのファンドの
最初の6社とおなじタイミングで、
お声がけしていたんです。
──
そうなんですか。



じゃ、やはり震災が起こる前から、
目立っていたんですね。
山田
たしか震災の前の前の年くらいに、
ワカメのことで知り合って、
めっちゃおもしろし、
すごいことをやってる人だなって。



何より、ワカメがおいしかったし、
全国のお客さんと、
通販で直接につながっていて、
ファンがたくさんいるし‥‥って、
セキュリテの仕組みに、
絶対、フィットすると思いました。
──
でも、最初はお断りしたんですね。
あまり前向きになれずに‥‥?
藤田
はじめは、被災した漁業者が、
海の掃除や、漁港の片付けなどを
したことに対して
国がお金を出してくれたんで、
それを給料にしてやってたんです。



でも、地震から3ヶ月くらいかな、
海の上に、津波で流されたものが
ひっかかって溜まっている、
そういう場所を見つけたんですよ。
──
へえ‥‥。
藤田
何艘か、残ってる船があったんで、
行ってみたら、
俺たちのワカメの養殖筏が、
たくさん、引っ掛かってたんです。
──
おお!
藤田
そこに、メカブが残ってたんです。
──
あ、つまり、種が採れる‥‥。
藤田
そう、収穫してなかったメカブが、
養殖筏に残ってたんです。
──
わー‥‥希望のメカブ。
藤田
ワカメというのは、
メカブの胞子から種をつけるんです。



すぐにワカメ業者を全員集めて、
みんなで種採り作業をやったんです。
──
再開への第一歩は、そこですか。
藤田
うん、みんなで集まって協力すると、
養殖筏を組むにしても何にしても、
いろいろ、ぜんぜん速いんですよね。



その共同作業がぐんぐん前に進んで、
それまでの、なんとなくの
「どうすっぺ?」っていう感じが、
「やっぺ」
「もっとやっぺ」って空気になった。
──
一気に、がぜん前向きに。
藤田
うっすらだけど先が見えて来たんで、
山田さんに連絡して、
ファンドのほうにも入れてもらって。



震災後はじめて採れたワカメは、
新聞に載せて無料で配布したんです。
避難所で配ったりとかね。
──
最初の一歩を踏み出すときに、
昔の何かが残っていたっていう話は、
いろんなところでうかがいます。



斉吉商店さんも、瓦礫の中から、
秘伝のたれを見つけてきたそうだし。
山田
陸前高田の八木澤商店さんでも、
震災後、
預けていた微生物が出てきたり。
──
福島の酒蔵の大木大吉本店さんでも、
崩れた蔵の中から、
もろみの発酵する音が聞こえた、と。



震災後の圧倒的な静けさのなかで、
その「音」だけが響いていて、
「ああ、みんな生きている」って、
それで、
もう一度やろうと思ったそうです。
藤田
そうなんですか。
──
今から思うと、よくぞそこから‥‥
という感じがしてしまうほどですが、
ご本人たちにとっては、
本当に大きな希望だったんですよね。
藤田
そういう意味では、
ファンドのお話をもらったときに、
とにかくネットがなかったら、
何にもできないなあと思いまして。
──
もともと「駆使」してたほうだし。
藤田
5月か6月あたりに、
ようやくパソコン買ったんですよ。



で、数カ月ぶりに
メールソフトを立ち上げたら‥‥。
──
ええ。
藤田
知り合いはもちろん、
日本全国のお客さんからのメールが、
ババババッと入ってきたんです。
──
一気に受信したってことですか。
藤田
もちろん山田さんからも来てた。
山田
藤田さんは通販をやってらしたから、
全国のファンやお客さんが、
心配してメールを送ったんですよね。
藤田
みなさんからのメールの一通一通が、
やっぱり、自分のなかの‥‥
つまり、いつまた
ワカメが採れるのかわからないけど、
ずーっと待ってるからねって。
──
わあ。
藤田
とにかく、復活したら連絡くれだとか、
食べないで待ってるって人もいて。



そういう、お客さんからのメールが、
自分のなかの気持ちを、
ぐっと、後押ししてくれたと思います。
──
そうやって、パソコン1台から再出発。
藤田
1年目は船がなかったんで、
ワカメの共同体というようなかたちで、
みんなで動いていました。



みんなで、ひとつの船に乗り合わせて、
みんなでワカメを収穫して、
みんなで箱詰めして、みんなで売って。
──
売上もわけあって。
藤田
給料制ですね。でも国の事業で、
養殖筏などをつくっていただけたので、
2年目からは個人に戻りました。
──
あ、そんなにすぐに。
藤田
そのとき、8割くらいかなあ。
──
8割?
藤田
震災から2年目に、
震災前の8割くらいは復旧したんです。



というのも、ワカメって商品は
秋に種植えたら年明けには出荷できる。
ホタテ、カキ、ホヤなんかは
水揚げまでに2年、3年かかりますが、
ワカメは、すぐ採れるんです。
──
そうか、なるほど。
藤田
それで2年目に8割くらい、
3年目には震災前の規模に戻りました。
──
震災の前と後とで、
取り扱うものは変わったりとか‥‥?
藤田
最近、会社をひとつ立ち上げまして、
市場に水揚げされる海産物全般、
買い付けできるようになったんです。



市場の買受人と、水産加工業の人と、
漁師の俺の、3人で組んで。
──
へえ。
山田
2年くらい前でしたか?
藤田
2017年12月なんで、1年ちょっと。



震災後、気仙沼市が
人材育成の取組みをはじめたんです。
経営未来塾、という。
──
ええ。
藤田
どうしてこの商売をやっているのか、
自分の商売は、この地域と、
どういうふうにつながっているのか、
継続性はあるか、
今後どうしていったらいいのか‥‥
みたいな経営課題を、
みんなで半年かけて練っていく場で。
──
講師の人が来たり?
藤田
うん、監査法人の人たち、
マッキンゼーのコンサルタントさん、
博報堂の人‥‥とか、
いろんな人たちが教えてくれました。



チームを組んで、班で考えるんです。
──
そこで学んでいる人の業種は‥‥。
藤田
バラバラ。



漁師は俺ひとりだけだったんだけど、
建設業も、民宿も、飲食店もいて。
──
やってきたことはそれぞれだけど、
経営という1点で、話せる?
藤田
そうです。おもしろかったですよ。



最初はみんな、
自分の会社のことだけを考えていて、
でも、半年すぎるころには、
どうやったら
地域を盛り上げることができるのか、
どうやったら
お客さんがもっと喜んでくれるのか、
どうやったら
もっと従業員を幸せにできるかって、
そういう視点になっていったんです。
──
すごい。
藤田
アイリスオーヤマの大山健太郎会長が
塾長でらっしゃったんですが、
卒塾するとき、
きみたちの課題や思いは同じなんだし、
ひとりよりみんなだ、
とにかく組みなさいって言われまして。
──
ええ。
藤田
その言葉にあと押しをしていただいて、
会社をつくったんですよ。
──
水産加工の人と、市場の人と。
藤田
漁師で。
<つづきます>
2019-03-14-THU