東京という名の、広い森。

江戸東京博物館 藤森照信

糸井重里

HOBONICHI no TOKYOHOBONICHI no TOKYO

僕らが住んでいる東京って、
改めて、どんな街なんだろう。

「ほぼ日の東京特集」は、
江戸東京博物館の館長を務める藤森照信さんと、
糸井重里の対談からスタートします。

東京の街並みを長年に渡って
観察してこられた藤森さんが、
建築や歴史について語ってくださいました。

東京の街が世界でも際立っていることが、
「木でつくられていること」でした。

第2回東京を研究する

糸井
江戸博には何度か来たことがありますけど、
あらゆるテーマが暮らしと関わっていますよね。
藤森
創立の頃から変わりませんね。

江戸東京博物館をつくった先生方の方針で、
政治とかではなく、暮らしをテーマにしようと。

国の政治に関することは、都がやることじゃなくて、
国の博物館がやればいいんです。

東京都はあくまで、江戸時代でいう町奉行ですから。
糸井
あえて名前で「暮らしの」とか
言っているわけじゃないのに、
「江戸東京」ということばを使うと、
暮らしがテーマのようになってくる。
藤森
江戸と東京は政治的には断絶していますけど、
暮らしとか地形はべつに、
そう変わるものじゃありません。

ずっと続いているというところに、
力点を置きたかったんじゃないでしょうか。

糸井
創立の頃には、
藤森さんは、どういった立場で
江戸博と関わっていたんでしょう。
藤森
ひとつは、建物の模型を展示するためです。

近代の銀座とかの展示をするために、
復元しなくちゃいけなかったんです。

私は近代建築をしていましたから、
それが縁でお手伝いをすることに。
糸井
ライブラリーがわりに、頭を貸してくれと。
藤森
そうそう、そういうことです。

どこに何があるか、
誰にどう聞けばいいかとか、
僕は一応知っていましたから。
糸井
大雑把にいうと、江戸東京というのは、
どういう特徴があるんですか?
藤森
ああ、そうですね‥‥。

簡単に言うとすれば、
「木でつくられていた」ということ。

糸井
ほかは違うんですか?
藤森
たとえば、ヨーロッパや中国だと
石かレンガですね。

もうひとつ、東京には大きな城壁がなかった。

城壁がないから、ずっと広がっていくんです。

その勢いが、いまだに変わらなくて、
ほとんど関東平野一円まで広がっています。
糸井
高さはないけれど、横へ広がる。
藤森
木造の宿命ですね。

木造って、今は3階まで許されていますけど、
2階建てが限界ですから。
糸井
構造的にはつまり、森ですね。
藤森
そうそう、森です。

森の一部が広がっているから、
火をつけると、もう‥‥。
糸井
東京は、根っこのない森だったんだ。

藤森
そうそう。

ヨーロッパの場合、
ローマの時代から4階建てがあって、
城壁に囲まれた場所の中で、
ぎゅうぎゅう詰めにされていました。

これはヨーロッパの特性ですが、
戦争のためなんですね。

江戸の場合、他の藩に攻められても
危ないのは、偉い人だけなんですよ。
糸井
江戸の町人は危なくなかった。
藤森
殿様だって、
敵の町や村の町民や農民を殺したりしたら、
翌日から困りますからね。

富をつくっている人たちだから。
糸井
町人と農民が生産を支えていたから。

藤森
武士も、切腹するのは上の人だけですよね。

下の人は、次の殿様につくか浪人になって、
どこかでまた仕官すればいいわけで。
糸井
アジアでは将棋と同じで、
使い道のある人は、
次の王様が手駒として取るんですよね。

根絶やしにはしない。
藤森
そうそう。

町人なんて、幕末のことですが、
幕府と長州が戦っているのを普通の格好で見ています。

自分たちへの被害がありませんから。
糸井
どっちが勝つかなあ、みたいな(笑)。

自分がいち市民だから言うんですけど、
それっていいですよね。

とても自然だと思います。
藤森
そう、緊張感が乏しいんですけどね。

なんとかなるやと思っていて。
糸井
勝つか負けるかについては、
あまり興味がないですよね。
藤森
そうそうそう。
糸井
藤森さんが東京を研究しなきゃと
思うようなきっかけは、
若い頃におありになったんですか。
藤森
大学で建築の歴史を研究していて、
東京を実際に歩いてみると、
知らない建物がいっぱいあったんですね。

地元の人たちにとっては珍しくもないのですが、
その気で見ると、変な建物がいっぱいあって、
僕は「看板建築」なんて名前をつけて調べました。

糸井
ああ、はい。
藤森
東京の人と話しているとね、
お互いを住んでいる場所によって
低く見ていることがあって、
本当にびっくりしました。

僕は田舎で育ったから、
東京はどこも同じだと思っていたんです。

でも、実際に東京へ来てみると、
下町の人は山の手をバカにして、
山の手の人たちは下町をバカにしている。

僕には場所による意識の違いがないから、
山の手の西洋館も、下町の看板建築や町屋も
同じように興味深かったんです。
糸井
そうでしたか。
藤森
それからね、東京がどうやってできたとか、
近代日本の成り立ちという研究はあるけど、
実際の東京の都市がね、
江戸時代とはまったく違うわけですよ。

江戸と東京の違いの語られ方にも、
すごく歪みがあるように感じていました。

山の手も、下町も、郊外も、
全部をちゃんと見て語る人がいないんです。

それはおかしいなと思っていました。
糸井
ああ、そうですね。
藤森
あと、もう一つはね、
僕が研究しはじめた昭和40年頃は、
マルクス主義の影響で、
政府のやることが、みんな悪だと言われていたんです。

それがおかしいと思って、直さなくちゃいけないと。

たとえば、日本橋から銀座へ、
商業の中心を移した明治時代のことです。

銀座煉瓦街計画といって、
道幅を広げて、歩道と車道を分けたり、
商店街にアーケードをつくって
雨の日も歩けるようにしたり、
ガス灯をつくって、夜でも歩けるようにしたり。

しかし、マルクス主義や庶民派の
歴史学者たちから批判がある。
糸井
何をしても、批判はありそう。
藤森
ありそうでしょう。

批判の内容がですね、
政府が指導してつくったレンガの蔵が湿って、
海苔屋さんの海苔が湿ったとか言うわけね。

本来、煉瓦蔵というのは1年ぐらい置いて、
乾燥させないといけないんです。

そういう知識を知らずに蔵をつくったことで、
政府が批判されていたんです。

「この計画は強引にやったから失敗だった」って。

でも、全然失敗なんかじゃありません。

だって、銀座はやがて、
日本橋を抜いてしまうわけだから。
糸井
うんうん、そうですね。

藤森
いいことをしていたはずなのに、
政府のしたことは、偏りの目で見られるんです。

実際に、銀座で新しい商売をはじめたお店は、
みんな日本橋に勝っているんです。

服部時計店とか資生堂、あんぱんの木村屋とかね。

今でいう老舗も、その時に出てきた人たちですよ。
糸井
新興地だったわけですよね。
藤森
銀座に移ったことが、
今の日本の商業地区の
基本をつくったわけですよね。

都市計画というものはやはり、
行政にしかできないことなんですよ。
糸井
そうですね。
藤森
区画整理をやろうとすると、
個々の土地を持っている人たちは、
自分の土地が少しずつちっちゃくなりますから、
なかなか賛成しないんですよ。
糸井
うん、うん。
藤森
関東大震災の復興の時には、
東京中のあらゆる道と土地が
少しずつ変わったんです。

まず、クルマがちゃんと通れるように
道を広げなきゃいけないでしょう。

四方の道を広げると、全部の敷地が小さくなります。

政府の役人の区画整理の技術者が行って、
全部土地の価値を計算式で出すんです。

その計算式がよくできていて、
面積を基本に、裏通りは安く、角地は高くと、
微妙な数式をつくって。
糸井
公式をつくっていたんだ。
藤森
土地を持っている人たちに
説明しないといけませんから。

計算を見せて、説得していたんです。
糸井
まだコンピュータがない時代に
よくやってましたね。

藤森
関東大震災のときには、
突然焼け野原になったでしょう。

そこに新しい道路や公園、
火除けのための川や堀も
つくらなくちゃいけなくなりました。

その技術者がどこから集まったかと言えば、
全国の耕地整理の技術者300人です。
糸井
どういう人たちなんですか。
藤森
つまり、農民たちを相手に、
農地を整理してきた人たちです。

今は大抵の田んぼが四角ですけど、
以前の農地は、形がめちゃくちゃでしたから。

それはもう、耕地整理のおかげなんです。
江戸時代ならお百姓さんを相手にすると、
一揆だって起こり得ます。

水争いで、殺し合いをしていたわけですから。

そういう環境で揉まれてきた人たちが、
東京にやってきて、焼け野原で区画整理をする。
糸井
手練手管が山ほど。
藤森
手練手管と、絶対に怒らないこと。

偉そうにしない人たちです。

糸井
はあー、東京の整地は、
農家の整地と同じだったんだ。

おもしろいです。

大昔の大昔は、
弘法大師様みたいな偉いお坊さんが
土木事業を動かしていたわけだけど、
綿々とお役所に至ったということですね。
藤森
ずっと続いていったんです。

(つづきます)

2017-04-17-MON