西本 |
単行本の『東京タワー』が発売されて、
どんどん売れていったじゃないですか。
真横で見ていて、どうでした?
あれあれあれ〜って感じ? |
BJ |
そうですね。 |
西本 |
だって、いま210万部でしょ?
ここまで売れるってことは
正直な話、誰も思ってなかったというか‥‥。 |
BJ |
まあ、そうですね。 |
西本 |
本が完成するまでを遠くで見てましたが、
もともと、仕事としてではなく、
自然と書きはじめてたんですよね。 |
BJ |
原作本の『東京タワー』には、
一枚だけ挿し絵が入っているんですけど、
あの絵は、
お母さんが入院されてるときに描いていました。 |
西本 |
誰に頼まれたわけでもなく‥‥。
それって、文章もですか? |
BJ |
はい。おそらく、
なにか残しておきたいというか、
なにかできることはないかと
書かずにいられなくなって、
「オカン」のことを書きはじめたんだと思います。 |
西本 |
もう、走り書きみたいな感じで‥‥。 |
BJ |
入院しているとき、
すでに冒頭の部分は書いていますから。
でも、やはり、
なかなか書き進められるものではないと
思いますからね。
当時、本人もこのことを
まとめて出版するとも思ってなかったでしょうし。
少しづつ、時間をかけて
書いていこうと思っていたはずですけど。 |
西本 |
発表する場があったわけでもない。 |
BJ |
自然と綴りたくなったんだと思います。 |
西本 |
それと、じつは『en-taxi』より前に
『文藝』という雑誌で
『東京タワー』の冒頭の文章が
掲載されていましたよね? |
BJ |
はい、その後、
福田和也さん、坪内祐三さん、
柳美里さんとの同人編集で
文芸雑誌『en-taxi』を創刊することになりまして。
連載で長いものを
何か書きましょうということになり。 |
西本 |
『en-taxi』って季刊誌だから、
年4回の刊行ペースでしたよね。 |
BJ |
結果、9回で1冊の本にまとまったんですけど、
本人のなかでは
小説という意識はあまりないと思うんですよね。
実際に、連載第1回目のタイトルには
「連載長編エッセイ」と記されてるくらいですから。 |
西本 |
「長編エッセイ」ですか。 |
BJ |
確か、連載2回目のときに、
「長編エッセイ」と表記されているものを、
福田和也さんはじめ、編集の方々が、
この作品は、たぶんスゴいことになると思うから、
「エッセイ」という冠は外したほうがいいのではと。
もちろん、「エッセイ」が違うということではなく、
なにかのワクに絞り込まれてしまうのが
もったいないということを、おっしゃっていただいて。
ですから、「小説」とも表記していていないんです。 |
西本 |
なんと? |
BJ |
長編「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」と。
連載3回目からそうなっています。 |
西本 |
そうですか、
リリー・フランキーが自伝的小説に挑戦!
みたいなこととは、
少しちがうってことですよね。 |
BJ |
究極のエッセイですよ。
よく自伝的小説と言われますが、
本人はそう思ってないです。
「長編」という表記に変更されたので、
小説であることには違いないのですが、
自伝的小説ではないと思います。
自分のことではなく、人(息子)のために生きてくれた、
ひとりの母親のおはなし(人生)を綴ったという
意識でいると思います。 |
西本 |
自分のことは殆ど書いてないですもんね。
自分からの視線で母親のことを丁寧に綴っている。
『en-taxi』での連載では
何回で終わるとか予定はあったんですか? |
BJ |
本人のなかでは、だいたい
どれぐらいの分量になるかなというイメージは
あったんでしょうけど。 |
西本 |
取材メモとかも、もちろんない。 |
BJ |
ないですね。
ただ、時間の流れを把握する意味で、
原稿用紙に自分と家族との年表のようなものは
書いていましたね。 |
西本 |
編集者泣かせで有名なリリーさんですが(笑)、
『en-taxi』では、
原稿を落としたりとかはなかったんですか? |
BJ |
これはもう、編集長はじめ、
みなさまに大変ご迷惑をおかけしたと思ってます。
発売日が遅れてしまったということが
何度かありましたし、
落とすということがないように
無理していただいてたというか、
締切になると『en-taxi』編集長の壹岐さんが
事務所に一週間くらいは泊まってましたね。 |
西本 |
すごい。最終回にこぎつけるまで、
やっぱり大変だったんですねぇ。
<つづきます> |