吉本 |
40歳代の活発な時期には、
ほんとうになんでもできちゃうじゃないかと
思っていたんですが、
頂点は、後のほうにあったんだと思います。
「なんでも解けちゃう」時期が
終わっていくとともに、
今度は自分のことがわかってきました。
だけど、今はボケてきたってことかも
しれないので(笑)、
これは困ったもんだと思ってます。
だけど、自分の一生というのが、
今、ほぼ、
糸井さんの好きな言葉で言えば、
ほぼ(笑)、
終点じゃないかというふうに考えると、
これは新たな発見というのがあるんです。
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糸井 |
あるんですね。 |
吉本 |
いつも、日々
新たな発見です。 |
糸井 |
ああ、すごいな。 |
吉本 |
意識すると全部、
「あ、これははじめてだよ」
「こういう感じ方ははじめてだよ」
とわかるんです。
今がそういう状態です。
ですから僕は、
生涯というのは、
いちばん活発なところで決めると間違うぞ、
と思うんです。 |
糸井 |
なるほど。 |
吉本 |
それは、生涯についてだけではなく、
いろんなことで、そう言えます。
例えば、チンパンジーのような類人猿を
フィールドワークで
観察したりすることがあります。
類人猿は人間に近いから、
彼らを研究することによって
人間というものがよくわかるんじゃないか、
ということかもしれませんが、
それでは間違うことになるんじゃないかと
ぼくなんかは思うんです。
人間のことをわかろうと思うなら、
生物のことをわかろうと思うなら、
やっぱり、樹木のあたりまでいかないと
誤差が生じると思うんですよ。
それ以上行くと、
岩石とか、そういうことになると思いますが、
岩石だとほとんど誤差はありません。
それは「見たとおり」ですから、
誤差なく観察も体験もできます。
そうじゃなくて、
生物の域に入ることでいえば
まぁ、樹木だったらまちがいないと思うんです。
これは僕も、かなり一生懸命、
おおもとに考えていることです。
芸術言語論を樹木に喩えたのも
そういう理由があるためです。
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糸井 |
もしかしたら、僕らは
誤差の部分ばかり
気にして見ているのかもしれませんね。 |
吉本 |
そうかもしれません。
ですから、やっぱり
活発なところで決めると
誤差の部分ばかり気になって
間違うということがあります。
それは注意しなくてはいけません。
誤差の部分は思い込みが入りやすいし、
環境が変わったらすぐに変化します。
「ああ思っていたけれども
それは錯覚だった」
なんてことがしょっちゅうありますから。 |
糸井 |
いちばん変わらない、
普遍的なものが
樹木まで戻るとわかる。
年を取るのもおなじことなんですね。 |
吉本 |
そうです。
年を取ると、なるべく誤差なくいけるように
なりますから。
それが、今、わかってきたところです。 |
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*これで、吉本隆明さんの
「ふたつの目」のお話はおしまいです。
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ご愛読、ありがとうございました。
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