第7回
精一杯やったことはわかる
精一杯やったことはわかる
糸井 |
法隆寺のころというのは、 木を規格化することができなかったわけで、 材料になる木をよく見ることで、 設計も変わってくるのですね。 |
小川 |
ええ。 つまり、木が均質だったら、 最初から設計図を描けるけど、 材料のネタによって料理を変えなきゃいけないから、 設計図というのは完成図としては つくれないわけですね。 |
小川 |
設計図、ないんですよ。 日本の中での設計図というものは、 今から500年ぐらい前にちょっと残ってるぐらいで、 あとは、ないんです。 なくてあれだけのものをつくった。 ですから、どういうふうにして…… |
糸井 |
どういうふうにつくったんですか? |
小川 |
それは今でもわからないんです。 しかし、あれだけすばらしいものはできてる。 まあ、10分の1の模型をつくる、 なんていうことはしたんだろうというふうな そういう跡は残っているんですけれども、 そればっかしじゃ、できないですね。 例えば、師匠の西岡棟梁は、俺に、 「法隆寺の塔は安定していて動きがあるだろう」 と言ったんですよ。 |
糸井 |
すごい言い方だなあ。 |
小川 |
「安定」というのはわかるんですよ。 逓減率、上が細くなる、木柄が太い。 そういうことだな。 でも、そう言われた時の俺には、 「動きがあるだろう」ということは まったくわからなかったんですよね。 わからなかったけど…… それから3カ月ぐらいたってから、 「松の枝を見てみい」と師匠に言われた。 それで、わかったんですよ。 法隆寺の軒の反りというのは、 鳥が羽ばたくようにこうなってる。 錯覚を利用したつくりになってるんだ。 師匠はそれを、「動き」だと言った。 古代の人は、松の枝が一番下が張るのを見て こうするのを考えたのかしらないけど、 いつも、よく見るとちょっと工夫してるんだ。 少なくとも、師匠はそれに気づいてた。 |
糸井 |
1,000年以上たって西岡棟梁とか小川さんとかが、 「昔の人は、そうしたのか」 とわかったというつながりは、 何かうれしいでしょうね。 みんな死んじゃってる人との会話ですけど。 |
小川 |
うんうん、そらぁそうだわ。 |
糸井 |
大工にとっては、 「だれか気づくかなあ」みたいなことですよね。 |
小川 |
そうよ。 作った自分たちの苦労を……。 |
糸井 |
ねえ? 子供が気づく、孫が気づくじゃなくて、 見たこともない誰か、同じ仕事をしている誰かが どこかで、その気持ちに気づく。 会ったこともないし、永遠に会わない人が、 そうやったのかあという話は、打たれるなぁ。 |
小川 |
だから、自分たちも、 ほんまにそれを見れば頭が下がりますよ。 考え方がよくぞそこまで行ってるなぁと。 今の人じゃ、とてもそんな考えをしないでしょ。 それは寸法にとらわれてしまうから。 生きていることでも何でも 寸法にとらわれていると、 気づかなくなることが出てくるのでしょうな。 自分たちは、 ものをつくるという立場にありますよね。 こういう仕事をしてますから。 そうすると、例えば、西岡棟梁がいます。 そのあと、自分がいる。 自分は棟梁の仕事を習いまして、 弟子にはその仕事を教えていくというわけです。 それを伝統とかなんとかという人いますけども、 でも、伝統でも何でもないんです、そんなのは。 引き継ぎでも、何でもない。 西岡棟梁と自分の間にも、 伝統を引き継いだなんて感覚はない。 ただ、西岡棟梁と自分との間では、 薬師寺の塔をつくったり、 法輪寺の塔をつくったり……。 そして、いま、自分と弟子の間でも いろんなものをつくっていますよ。 ですから、つくっていること、 そのものが残るという、それだけはあるよな。 「技術を残す」ってことじゃなくて、 建物を残せば、おのずから何かは伝わりますわ。 それを伝統と呼ぶんなら、呼んでもいいけれども、 決まりきった教科書どおりのことを伝えることとは、 ぜんぜん、違う話なんだ。 |
糸井 |
すごくよくわかります。 |
小川 |
たとえば、弟子によく言うのは、 「うそ偽りがない、自分が思えることを 精いっぱいやっておくんだよ」ということです。 毎日毎日の仕事を精一杯やっておくというか。 「精一杯やっておく」 ということは、未熟であってもいいんですよ。 未熟であろうが何だろうが、 そのときの自分はごまかしようがないんですから。 でも、未熟ではあっても、うそ偽りのないもの、 一生懸命やってやってやって、 やりきっててつくったものは、やっぱし 何百年か後にこの建物を誰かが解体修理した時、 「へぇ。平成の大工さんは こういう考えをしてあるんだな」 と、それを読み取ってくれる人がいるんですよ。 ですから、読み取ってくれる人がいると思うから、 精一杯のものをつくっておかなくちゃならない。 うそ偽りがあるかどうかは、 そこにある建物の中に、あらわれるんですから。 |
糸井 |
うそ偽りも、読み取られるということですよね? |
小川 |
うん。 うそ偽りだって読み取られるわけだから、 そういうことのないように キチッとしてやっておかなくちゃならない。 ですから、それは何で思ったかというと、 法隆寺の大修理。 法隆寺、1,300年前に建ったものを、 西岡棟梁をはじめ、 現場の人たちが大修理したわけですよ。 法隆寺の時代に、こういう形を 誰がどうやってつくったかということは 何にも残っていないですよね。 ぜんぜん残っていない。書物もない。 しかし、その建物が実際にあって、 それを解体したときに、西岡棟梁初め現場の人は、 1,300年前の工人と話ができたから、 昭和の時代に復元できたわけです。 そういうことを見てきたから、 建物をつくりたいんなら、 絶対にうそ偽りのないものを 残しておかなくちゃいけないと思った。 |
糸井 |
力がなくても精一杯、なんだ? |
小川 |
うん。 精一杯やっておれば……。 それは、結果はしゃあないですわな。 「もっといい考えがあったな」といっても、 それに気づいてないんですから。 しかし、何もかも そのままが残るということですよ。 知識がなくても精一杯だったかどうかも、 ぜんぶ残る。それは後で見てもわかる。 |
糸井 |
それ、ほんとにジーンとしますね。 |
小川 |
建物を解体してみると。 当時につくった人らの顔を見ながら、 今、仕事をやってるようなもんです。 |
2015-01-02-FRI
タイトル
一生を、木と過ごす。
対談者名 小川三夫、糸井重里
対談収録日 2002年9月
一生を、木と過ごす。
対談者名 小川三夫、糸井重里
対談収録日 2002年9月
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