第9回
捨て育ち
小川
道具……自分らが使う道具の中で、
いちばんって言うのは、砥石です。
糸井
砥石がいちばんなんですか?
小川
いちばんです。
今は、いい砥石がない時代。
天然の砥石がないということですからね。
少なくなった。
糸井
天然のいい砥石というのがあるんですか?
小川
うん。
糸井
それは、やっぱり全然違うんですか。
小川
違いますね。
それに見あわせた人造の砥石、
人工的な砥石を一生懸命みんなつくってますけどね。
糸井
似て非なるものなんですか。
小川
うん、違いますね。
糸井
何がどう違うんですかね。
小川
やっぱし、違うんですなあ。
糸井
「違うんですな」ですか……(笑)。
小川
うん。
自分たちの仕事は、
弟子に教えるということはほとんどないんですが、
教えることがただ一つあるのは、
「刃物を研ぎなさい」ということ。
刃物研ぎだけです。
刃物を、そうだなぁ、
だいたい1年ぐらい研げば、
まあ、切れるようにはなります。
糸井
1年研げば……?
小川
うん、使えるようにはなります。
しかし、刃先に一点の曇りもなく
ピシーッと研ぐということになると、
10年研いでも研げない子は研げないんです。
糸井
そうですか。
小川
うん。
仕事が終わるでしょ、そうすると、
毎日毎日研ぎ場でみんな研ぐんです。
一生懸命一生懸命研いで研いで研いでやって、
研げていると思えば研げる。
その結果は、人にはだれもわからないんですよ。
研いでる本人しかわからない。

わかろうと思えば、隣で研いでいるやつが
ちょっとわかるぐらいなんです。
ですから、自分でこれが一番ピシーッと研げた、
研げているということがわかるかわからないか、
感じるか感じないか、
それは教えることができないんですよ。
糸井
感じるか感じないか、か……。
小川
うん。
ですから、感じないと思えば一生懸命研ぐ。
10年研いでも研いでいるんです。
その間に職人としての
研ぎ澄まされた精神というのが
養われてくるわけですよ。
糸井
文字どおり、
自分が研ぎ澄まされていくわけですね。
小川
そうなんですよ。
まだ研げていない、研げていないと思って
いつも研いでゆくことによって、
その職人がつくられてくるわけですよ。

そこで研げているかどうかを
教える必要もないんです。
「これは研げているよ、どうのこうの、
 そんだったら、顕微鏡を持ってこい!
 顕微鏡で刃先を見てやるから……」
そんな風にやったら、カスですよ。

それを見るようになると、
常にそればっかし見なくちゃいけなくなるわけだ。
一度見ると、いつもそれで確かめなきゃいけない。
確かめる人生になる。
ポッと見ただけでもわかるようになって、
しかも顕微鏡以上に目が肥えなきゃダメなわけです。
そこに気づくか気づかないかということだと思う。

たとえば、研いだあとに、かんなで削ってみる。
そうすると、
「あれよりも俺の方がかんなくずはいい」とか、
「あれのほうがいい」とか、そういう
ちょっとしたことに気づくか気づかないかですよね。
カタチに作るにしても、
そういうような、ほんのちょっとした加減が、
カタチのいい悪いになるわけで。
だから、大事なのは、
「気づくか気づかないか」それだけです。

それは、何をアドバイスしたって、
わかるものじゃないですし。教えられない。
糸井
お弟子さんがいて一緒に暮らしているということは、
結果、そのことを教えていることになりますよね?
小川
それが一番大切なんですよ。
一緒の空気を吸って、一緒の飯を食べて、
一緒のところに寝て、一緒の目的を持って
生活をするということ……そうすると、
学ぼうと思う雰囲気の中に入っていれば、
「捨て育ち」でいいんです。ほっとけばいい。

もう構わないで、捨て育ちですね。
手をかける必要ないんですよ。
その雰囲気はつくっておかなくちゃダメですよ。
その雰囲気が、いちばん大切なんですよ。
糸井
その雰囲気をつくるためには、
師匠に当たる小川さんが、いつでも
その雰囲気を必ず持っている人じゃないと、
お弟子さんも、何だと思っちゃいますね。
小川
そうですね。中には雰囲気に
うまく溶け込めない子もいますよ。
逆らう子もいます。そういう子は、
そういう子なりにうまく指導してやるというか、
指導ということはねえけども、言ったり何かして、
うまく溶け込めるようにしておけばいい……
糸井
そうすると、回り道はするけれども、
あるところに行くみたいな……。
小川
うん。
糸井
その中で、やっぱり
その子が持っている個性は出るわけですよね。
小川
出ますよね。
しかし、個性が出るなんていうのは、
もう、最後の最後のものだな。
2015-01-02-FRI
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