第1回 ふるさとのにおい。
第1回 ふるさとのにおい。

──
ヤンジンさんにとって
ふるさとって、どういうものでしょうか?
ヤンジン
毎日毎日思っているのは、
人間、ふるさとを遠く離れてみなければ、
ふるさとの意味って
なかなか、わからないってことなんです。
──
遠く。
ヤンジン
はい、「遠く」です。

はじめて、わたしが
生まれ育ったチベットの村を出たのは、
高校に入った14歳のときですけど
そのときは、
ふるさとの意味なんてわからなかった。
同じチベットの中だったから。
写真
──
なるほど。
ヤンジン
ふるさとのことを意識し出したのは、
四川省の音楽大学に入ったときです。
──
何千人にひとり、みたいな
ものすごい倍率の超難関の試験を突破して、
入学されたんですよね、たしか。
ヤンジン
ええ、日本の人口の
3倍とか4倍くらいの人が住む
募集エリアから、受験生が集まるんですが
わたしが通っていた「声楽部」には
全学年あわせて
「31人」しか、入学できなかったので。
──
うわー、たったのそれだけ?
「チベットから来た超エリート」ですね。
ヤンジン
でも、少数民族ということで
いろいろ差別を受けたりしたんですけど、
そのときに、
ふるさとを意識するようになりました。

「ああ、わたしが生まれて育ったのは、
 他の民族とは
 異なる文化を持つ村だったんやなあ」と。
──
チベットの村と四川省では
物理的な距離も、かなりあるでしょうし。
ヤンジン
そうなんです。

ただ、いまの主人と結婚して、
もっともっと遠い、なーんにも知らない、
ぜんぜん言葉も通じない、
誰も知り合いのいない日本へ来て
20年も暮らしてみると、
どんどん、どんどん、
ふるさとが沁みてくるようになるんです。
──
沁みる、というのは
具体的にはどのような感覚ですか?
ヤンジン
食べものひとつ、風ひとつ、
空気の乾燥具合ひとつ、においひとつ、
そういうものがぜんぶ、ふるさと。
ぜんぶに、涙が出てきます。

帰ると感じる、
これがわたしのふるさとだ‥‥と。
──
実際、どれくらいの頻度でお帰りに?
ヤンジン
家族に何事もなければ、年に1度です。
これは、
結婚するときにした両親との約束なんです。
──
かなり遠いですよね、チベットって。
ヤンジン
はい、ものすごい遠いです。
帰るのにも、ものすごい時間がかかります。

まず、関西空港から飛行機で上海へ行って、
上海で何時間も待たされたあと
また飛行機に乗って四川省の成都へ行って、
成都で1泊して、
たまたま、成都に知り合いがいたら
バスのチケットを買っといてもらえるので、
次の日には、出発できるんですけど。
──
ええ。
ヤンジン
誰も知り合いがいないときは、
自分でチケットを買うことになるので
チケットを買うためもう1泊して、
さらに次の日、
ふるさとの村に向かうバスに乗ります。
──
ここまでで、すでに3日くらい?
ヤンジン
ええ、で、そこから丸2日、
ひたすらおんぼろのバスに乗り続けて、
ようやく村に着くんです。
──
すごい。本気で遠いんですね‥‥。
ヤンジン
それでも、まだ、ましになったんです。

大学生のころは、
おんぼろバスの窓ガラスは割れてるし、
眠れないほどガタガタ揺れるし、
車酔いはするし、
道中の村に泊まるときも
もう「超」が10個つくくらい寒くて
水が冷たすぎて、
2日間、顔も洗わないで行きますし、
当時はお金がなくて、
まあ、そもそも
夜になると何も売ってませんから
2日間、
ほぼ何も食べないで行くんです。
写真
──
そんな思いをしてでも‥‥帰りたい?
ヤンジン
はい、やっぱり、ふるさとですから。
家族全員が、待っていますからね。

本当に、超タイヘンですけど、
ふるさとへ帰れる嬉しさにワクワクして
あと9時間、あと8時間、
あと7時間‥‥って楽しみにしながら、
そういうふうにしながら、帰ります。
──
ヤンジンさんが生まれ育った村って、
実際、どんなところなんですか?
ヤンジン
日本に群馬県って、あリますよね?
──
群馬県‥‥あります。

僕はそこで生まれましたし、
それに、糸井さんの出身県でもあります。
ヤンジン
あ、ほんと。
──
まさか群馬を「日本のチベット」と‥‥?
ヤンジン
いえいえいえ、そうじゃなくって(笑)、
群馬県って
馬が群れてるって、書くじゃないですか。

わたしね、馬とか牛とかって聞くだけで
ものすごい興奮してくるんです。
しかも、それが「群れてる」なんて言ったら‥‥
だからね、わたし、
「群馬」って聞くだけで嬉しくて、
まだ行ったこともないころから
ずっと「群馬」に親しみ感を抱いてるんです。
──
ああ、そうでしたか。
それは、ありがとうございます(笑)。
ヤンジン
わたしの生まれた村でも、
なーんにもない草原に馬たちが群れて、
そこらじゅうを走りまわってるし。
──
念のため、申し上げておきますと
群馬では、そこらじゅうを
馬が走りまわってたりはしてません(笑)。
ヤンジン
ええ、なんか、そうみたいですよね。

でも、わたしの村は、そういうところ。
まさに「群馬」というような、
そういう景色のなかで、育ったんです。
──
気持ちのいいところなんでしょうね。

ひとつ、ふるさとの食べもののなかで、
思い出深いものを、教えてください。
ヤンジン
村では暮らしが貧しかったので
主食は、大麦からできる「はったい粉」です。
お碗のなかに、
その「はったい粉」とバターを入れて、
お茶を注いでかき混ぜて、練って、
お団子にした「ツァンパ」という食べものを
よく食べます。

帰って、あれをひとくち食べた瞬間、
わたし、これに育ててもらったんだという、
あの、じわーっとした感じ‥‥。
──
はったい粉の、お団子。
ヤンジン
はい、ふるさとそのものの味です。
あと、ふるさとっていえば「におい」です。
──
におい。何のにおいがするんですか。
ヤンジン
フンです。
──
フン?
ヤンジン
そう、フンです。ヤクのフン。
わたしの生まれ育った村は標高が高いので
薪が取れないんです。そこで
ヤクのフンを燃やして薪の代わりにします。

長い長い距離をおんぼろバスで旅してきて、
最後の山を越えると
すごく遠いところにふるさとの村が見える。
いつも夜の7時か8時くらいに着くから
だいたい、村は、夕ごはんの時間なんです。
──
ええ。
ヤンジン
バスが村に近づくにつれて
フンを燃やすにおいが、ただよってきます。

そのにおいをかいだ瞬間、
「はあーっ、ふるさとに着いた!」って思うの。
写真
──
そのにおいというのは、いわゆるところの
「フンのにおい」なんですか。
ヤンジン
そうです、フンを燃やしたにおいですけど、
わたしには、ものすごくいいにおい。

ヤクは草を食べるので、
草を燃やしたような感じではあるんですが
そこらへんの雑草を燃やすのとはちがって、
何かこう、もっと深みのある‥‥。
──
深み。
ヤンジン
つまり、ふわーっとしたものではなくって、
フンのにおいが
ズッシリしてドッシリとして‥‥もう最高。
──
最高。
ヤンジン
すみません、なんか表現がすごく変ですね。
──
はい。いや、いえ。
もう独自の表現でお願いします(笑)。
ヤンジン
とにかく心に沁み込んでくるにおいで
主人はクサイって言うけど
わたしにとっては、
たいせつで、ものすごくいい香り。
──
そこまで言われると
ちょっと、かいでみたくなってきました。
ヤンジン
もう、かぐと涙が出てくるし
胸いっぱいに「はああー!」って吸えば、
ものすごく、嬉しいんです。

‥‥ごめんなさい、年とったね(泣笑)。
──
ちなみにですけど、日本には
同じようなにおいって、ないんですか?
ヤンジン
ない。ぜったい、ありえない。

あのにおいだけは、日本には‥‥
日本というか、
四川省にも北京にも上海にもラサにも
ふるさとの村以外には、ありえない。
──
生まれた村の、その村だけのにおい。
ヤンジン
そう、そのにおいには、日本にお嫁に来て
ずいぶん経ってから、気付いたんです。
──
と、言いますと?
ヤンジン
チベットの母と姉が
わたしたち夫婦の子どもが生まれたときに
誕生の祝いで、
布団をつくってくれたり、
セーターを編んでくれたりしたんですが、
届いた小包を開けたら、
箱のなかから、そのにおいがパァーっとね。
写真
──
あたり一面に。
ヤンジン
そうなんです。

母や姉が炉端でヤクのフンを燃やしながら、
その火を囲みながら、
手作業で、つくってくれたものだから‥‥。
──
ひと編みひと編みに、沁み込んでいたと。

でも、そのにおいも
ふるさとから「遠く」へやってきたから、
気付いたんですね。
ヤンジン
そう、そのときにはじめて、
ふるさとのにおいを、意識したんですね。

ああ、わたしは
このにおいの中で大きくなったなあって。
──
においと記憶って、
ものすごく密接に結びついてますものね。
ヤンジン
でね、ふしぎなことに、そのにおいって
どんなに洗濯しても、取れないんです。
──
え、洗剤とかで洗っても?
ヤンジン
そうなんです。

ふしぎだなあって思うんですけれど‥‥。
でも、私は、そのほうがうれしいんです。

<つづきます>
2015-08-04-Tue
笑えて、じーんとして、はっとする。バイマーヤンジンさんの新刊です。

笑えて、じーんとして、はっとする。バイマーヤンジンさんの新刊です。

バイマーヤンジンさんの本が出ました。
ふるさとチベットのこと、
ご両親のこと、歌のこと、
子どもたちや学生を支援していること。
今回のインタビューの話題を
さらに、くわしく語った内容です。
進学するヤンジンさんのために
学校には行かず、
はたらいてくれたお兄さんのこと。
はじめてあったとき、
60歳に近いのに「金髪」だったという
義理のお母さんとの
(こう言ってはなんですが)
まるで漫才みたいなやりとり。
外国人のことが「きらい」だった
義理の祖母と、時間をかけて
少しずつ仲良くなっていくくだり‥‥など
ヤンジンさんの素顔や人柄が伝わる本です。
ご興味持たれましたら、ぜひ。

バイマーヤンジン著
『幸せへの近道
チベット人の嫁から見た日本と故郷』