もくじ
第1回磨くほど透明になってゆくもの。 2013-04-17-Wed
第2回直感の精度。 2013-04-18-Thu
第3回現実が「見えてしまう」から。 2013-04-19-Fri

先日、平等院鳳凰堂に襖絵を奉納した画家、山口晃さんを取材しました。
テーマは、ずばり「技術とは何か?」です。
ご存知のかたも多いと思いますが
山口さんは、「うわっ、超こまかい!」と
思わず目を細めちゃうような
精巧緻密なタッチの「成田国際空港」の絵に
「馬型のバイクに跨ったお侍」といった
ユーモラスな着想を潜ませる人。
技術の裏付けがあるからこその、自由な遊び。
目をみはるような技巧で、滑稽を描く。
絵のプロフェッショナルが語る技術論ですが、
そこには、他の職業のかたにも
読んでほしい「汎用性」があると気づきます。
技術とは、なぜ、磨かれなければならないのか?
「ほぼ日」奥野が、うかがいました。

プロフィール
山口晃(やまぐち・あきら)さんのプロフィール

第1回 磨くほど透明になってゆくもの。

──
山口さんにとって「技術」とは何でしょうか。
山口
技術。むむむ。
──
先日、会田誠さんが28歳のときに
「子どものフリして描いた」
というコンセプトの絵を、展覧会で見たんです。
山口
ええ、ありますよね。
──
そのとき、確固とした「技術」があるからこそ
あれほど「子どもみたいに」、
つまり
「じょうずに、下手に」描けるんだろうなあと
思いまして。
山口
なるほど。
──
近著である『山口晃 大画面作品集』の解説で
椹木野衣さんも書かれていますが
そんな会田さんが
「嫉妬するくらいの技術」を持つ山口さんに
「技術」とは何たるかについて
うかがってみたいなと思い、今日は来ました。
山口
いやいや、わたくしなどまだまだですが‥‥
ただ、ひとつ言えますのは
技術というのは「ない」と「不足」です。
──
大前提として、「ない」と話にならない。
山口
それはたぶん、絵に限らずとも、でしょうが。
──
ええ。
山口
ただし、中途半端にあっても
いろいろと、じゃまになることがあります。
──
そうなんですか。
山口
生半可な技術で描かれた絵などにくらべたら
子どもの絵のほうが、よほど見どころがある。
思いますに、おそらく「技術」というものは
持っていることを
忘れさせるくらいにまで磨き込まれることが
ひとつ、大切なことではないかと。

──
持っていることを‥‥忘れさせる。
山口
ええ。
──
それは「見る人に、存在を気づかせない」
という意味ですか?
山口
そうですね。わたくし、中学生のころに。
──
はい。
山口
文化祭で絵を展示したことがあるんです。
その、スポーツカーの絵を。
──
ははあ。
山口
国産初のミッドシップなんとか‥‥というような、
まあまあ、ともかく
スポーツカーの斜め後ろからの姿を描いたんです。
そのとき、いちおう「背景」も描いておきました。
でも、あまり時間がなかったこともあって
鉛筆でサラサラっと
ただの岩山みたいな背景を描いたんですね。
そうしましたら‥‥。
──
‥‥ええ。
山口
スポーツカーの出来については、
そこそこ、まあ褒めてもらえたんですけれど、
「ん~~、背景がね‥‥」と。
──
よくない、と?
山口
テキトーだ、と。
ダメだ、と。
なってない、と。
スポーツカーの「背景」に関するご指摘が、
たいへん多かったんです。

──
へぇー‥‥目についたんですかね。
山口
そこなんです。
私は、スポーツカーを見てほしかったし、
みなさんもスポーツカーを見てくれるだろうと
思い込んでいました。
ですから
背景は、間に合わせでいいくらいに考えていた。
でも、スポーツカーへのお褒めと同じほどの数、
背景について厳しい指摘をいただいた‥‥。
──
なにか、絵のじゃまになったんでしょうか。
山口
そう、そうなんです。
だから、技術というのは「透明度」なんです。
──
‥‥と、いいますと?
山口
たとえば、タオルがビニール袋に入れられて
売られていたとします。
ビニール袋の「透明度」が高ければ高いほど、
タオルのようすが、よく見えますね。
──
はい、見えます。
山口
やわらかそうだとか、柄がかわいいなとか。

──
じゃあ、ちょっと買ってみようか‥‥とか?
山口
そう、見る人にそこまで思わせることができたら、
タオルをつくった人の「意図」どおり。
──
ええ。
山口
でも、もしビニール袋が
中途半端に「不透明」だったとしたら?
「何が入ってるんだろう、これは。
 見えそうで、見えない。
 やわらかいから、毛糸のパンツか何かかな。
 もうちょっと
 中身の見える袋にすればいいのにな。
 あ、でもこの袋、
 恥ずかしいもの入れるのに使えそうかも」
とかなんとかですね、
意識が、別の方向へ飛んでしまうんです。
──
ええ‥‥なるほど。
山口
つまり「つくり手の意図するところ」へ
「見る人を
 すうーっと直に導いてくれるもの」が
「技術」なのではないか、と。

──
わ。
山口
どうされました?
──
いや、いきなり、ものすごくわかったので。
途中まで、あまりわからなかったのですが
とつぜん視界が開けたみたいに。
山口
いやあ、もうしわけござません。
家庭でも
「あんたのたとえ話はわかりづらいのよ」
と、妻にたしなめられております。
──
いえいえいえ、そんなことないんですが‥‥
つまり、見る人に、
「見せたいものを見せる力」が技術だと。
山口
そのようなものではないかなと、思います。
磨かれるほどに透明となり、
それ自体は見えなくなっていくようなもの。
──
そして「見せたいもの」が、そこに残る。
山口
たとえば、映画などでも
どんなに脚本が素晴らしかったとしても、
役者の人がつたないと
それだけで
物語に没入できなかったりいたします。
──
そっちのほうが、気になっちゃって。
山口
ですから、冒頭の会田誠さんのお話なども
まったくもって
「透明な技術」をお持ちであればこそ
「じょうずに、下手に」見せる、
という芸当ができるのではないかなと思います。

──
たしかに、子ども風の絵の前では
「技術」の存在は、まったく感じませんでした。
山口
それを見せてしまったら、興ざめでしょうし。
──
山口さんのおっしゃる「透明」という概念って
「写実的」であることと、関係しますか?
山口
技術にも、いろいろな種類があると思います。
写実というと西洋的なデッサンの技術ですが
他方で、江戸時代の若者たちは
歌麿の春画で「ムムッ」ときていたわけです。
──
はい、ムムッと。
山口
でも、そんな歌麿も、現代の若人にとっては
いわゆる「実用品」には、なりえない。
──
実用‥‥たしかに(笑)。
山口
ですから
「写実的である、デッサン力がある」ことだけが
「技術」ではないでしょう。
ジャンルごと、用途ごとに
求められる「技術」は違ってくるのだと思います。
──
なるほど、なるほど。
山口
たとえば「漆器屋さん」であれば
いっさいの刷毛目を残さず漆を塗ることこそが
求められる「技術」でしょう。
──
ええ。
山口
でも、民芸の作家であれば
すこし「肌合い」を残すくらいに仕上げるのが
職人技だったりします。

──
おお、わかりやすい。
山口
わたくしのやっている絵で言えば、
「そっくりに描くことができる」という腕前は
「技術」のなかでも
ひとつの太い柱ではあると思いますが‥‥。
──
ええ。
山口
他方で、西洋的な「デッサン」とは
まったく違う仕組みで成り立っているけれど
もう、
ビンッビンくる日本の古い絵もありますから。
──
ちなみに、ですが
デッサン的な技術がすごいという画家には
たとえば、どんな人がいますか?
山口
ひとりは、ルーベンス
──
あの、『フランダースの犬』で
ネロが死ぬときに「見たい」と言った、あの。
山口
そう。
わたし、ルーベンスはとても好きなのですが
あの人、ヨーロッパでも
5本の指に入るくらい描写力のある画家です。
──
へぇ、そうだったんですか。
素人ながら、今度、そういう目で見てみます。
ちなみに、お好きというのはどんなところが?
山口
絵がうますぎて「誰も見てない」ところとか、好き。
──
‥‥誰も見てない?
山口
おパリのルーブル美術館には
「ルーベンスの部屋」なんてあるんですけれども
まあ、ガラガラなんです。
モナリザの前に群がっている見物客を
半分くらい、わけてあげたくなっちゃいます。
──
そうなんですか。
山口
それはたぶんルーベンスの技術力と関係がある。
──
どういうことですか?
山口
たとえば、彼の「白」。
──
はい、ルーベンスの白。
山口
油絵というのは、やはり透明感が命なんですね。
で、西洋画の場合は「黒い部分」よりも
「白い部分」のほうが、手数が多い場合がある。

──
つまり、白い部分のほうが「塗って」いる?
山口
そう。
で、ルーベンスの「白」というのは
「カンバスに手が入る」までは言いませんけど
恐ろしいほどの透明感を持っている。
──
はー‥‥。
山口
とまあ、それはひとつの例にすぎませんが
ともかく、筆が巧みすぎて
「教科書どおりの優等生な絵」に見えてしまい、
まったく「引っかかり」がない。
「ザ・油絵」「ザ・大画面」なんです。
──
なんというか、すでに「風景」みたいな。
山口
ようするに、見る者にとって
限りなく「違和感がない」んだと思います。
また違った意味で
限りなく「透明」な存在と言いますか。
──
絵がうますぎて、「技術」だけでなく
絵それ自体まで透明になってしまっていると?
山口
そんなところが、大好きですね。
第2回 直感の精度。