第1回
女の時代に性は開く
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糸井 |
念願の“性を語れる”日が
やってまいりました(笑)。
僕にとって「性」は高校時代からのテーマで、
他のことを考えない日はあっても、
性について考えない日はないという人生を
送ってきまして……。
ところが、僕らが性を考えるときって、
あまり材料がないんですよ。
よその人の性的な嗜好や思想は秘密にされている。
かといって、「私」を外側において
概念みたいなものを観察するやり方は
もう見飽きた。
結局、わからないままに、
性を想像しあうしかなかった。
で、なぜ僕が性の話をちゃんとしたいと
思ったかといえば、インターネットがきっかけでね。 |
大島 |
インターネット? |
糸井 |
インターネットによって材料が
一気に揃うようになったということ。
早い話が、性についてのいろいろな画像が
ジャンル分けされてて、
好みのものをピックアップして
見ることができるんです。
たとえば、若いねえちゃんが好きか、
おばあちゃんが好きか。
ローソクが好きか、叩かれるのが好きか。
「チアリーダー」なんてジャンルもあるんです。 |
荒俣 |
チアリーダー・フェチがいる。 |
糸井 |
僕は、自分が何が好きなのかを知りたくてね。
材料がないときは、いちいち恋愛しては
失敗することでしか自分の性癖はわからない。
ところが、少なくとも画像として
自分は何が好きかを選べるチャンスがきたわけです。
「これはいらない」と外していくことができる。
と、見事にSMも外れ、あれもこれも外れで、結局、
俺ってすごく平凡な性だなって。 |
大島 |
ハハハ……。 |
糸井 |
それでずっと自分の嗜好を追いかけていったら、
結局、「人」に行き着いたんです。
いろんな映像を見ていくうちに、
映っている人の名前も知るようになり、
ある女の人が好きだっていうことが
わかってきたんですよ、自分で。 |
大島 |
その名前の女の人の映像ばっかり見るようになった。 |
糸井 |
そうそう。これにはショックを受けました。
それで、いままで何でも喜んで見ていたのが、
ほとんど要らなくなって、捨てられるんです。
まあ、フラッと寄る愛人宅のように、
たまに別のジャンルに行くこともあるんですけどね。
それで、何だったんだ、いままでの俺の
スケベさはと(笑)。
性って、もうちょっとマテリアルなものが
自分のスケベさと共鳴してるのかと思ったら、
人格とのつながりを求めているんだなと気づきまして。 |
大島 |
そこがまさに人間の性だよね。
動物はそうじゃないもの。
だから糸井さんの場合、
原点に戻ったということですよ。 |
糸井 |
びっくりはしましたね。
スケベなものなら何でもいいと思ってましたから。 |
荒俣 |
スケベにも、人格がある。 |
糸井 |
はい。それと、この間荒俣さんにバッタリ会って、
「最近、何やってます?」と聞いたら、
「ストリップを……」っておっしゃってましたね。
それも性の話をしたくなったきっかけなんです。 |
荒俣 |
ストリップ研究を始めましてね。
最初、興味をもったのは万博なんです。 |
糸井 |
万国博覧会。 |
荒俣 |
あれ、最初はイギリスが1回だけやりましたけど、
19世紀後半、パリなんかでたくさんやられましたから、
仕掛けたのはほとんどフランスです。 |
糸井 |
日本でも開かれましたね。 |
荒俣 |
僕は万博って清く正しいものだと思ってた。
科学と人類の発展のためのものだと。
ところがその歴史をみると、フランスじゃ、
ストリップなんかやってるんです。
とりあえず人を集めて大儲けしようという、
いかにもフランス人的な発想がルーツになっていて、
そのために何をやったかというと、一つは遊園地。
一つは食いもん。そしてもう一つがセックスショーです。
ストリップやカンカン踊りとか、
いま、われわれが浅草あたりで見るようなものが
全部そこで行なわれていたんです。
それで、20世紀はこのストリップショーを
ちゃんと研究しないとわからないんじゃないか
という気がして……。 |
糸井 |
食う、見る、遊ぶ−−だ。 |
荒俣 |
ええ。健康に暮らすっていうか、
健康な性、健康な食欲、健康な遊びが
三位一体になっていないと
人生を全うできないという概念が
ルネッサンスあたりからずっとあったんですね。
哲学したり会話するのも、
そういった考えに基づいている。
その延長線に出てきたのが、フォリーといって、
極めてばかばかしい遊びをやること。
セックスショーもそんな背景があって
生まれたんです。 |
糸井 |
じゃあ、万博でストリップやるのも、違和感はないんだ。 |
荒俣 |
あれ、やっぱりフランス人だからできたと僕が思うのは、
性の意識のもち方ね。キーワードは「社交」なんです。
カトリックの国で不倫はタブーだろうと思うと、
どうもそうじゃない。
他人とのお付き合いの中に性的な交わりがあって、
それも一種の社交というわけで。 |
大島 |
中性から近代にかけて、紳士が集まる
「サロン」というのがありましたね。
そのサロンもフォリーだったり、
セックスや乱交があったの? |
荒俣 |
セックス、ありましたね。
主催するのはたいていマダムで、
大島先生のような面白い先生を呼んできて
話をさせる。
「わあ先生、素晴らしい」
と言って、
「じゃ先生、今晩はひとつ……」
とか。
学問もセックスもエンターテイメント、
社交になっちゃう。
そこまでいくと、社交の究極は
乱交じゃないかなって感じがします。 |
大島 |
つまるところ−−ね。 |
糸井 |
ずいぶん早くつまりますね(笑)。
でも、性は基本的にずっと秘められてきたわけでしょ。
性を秘密にしたことで、ある意味ではとても豊かになり、
ある意味では不自由にもなったと思うんですけど、
なんで秘密になったんですかね。 |
大島 |
性イコール下半身、ですよね。
下半身は隠すべきもので、それを露骨に出したり
語ったりするのはおかしいということなんでしょう。
だけど、日本の平安時代とか
江戸の中期なんていうのは、おおらかだったですよ。 |
糸井 |
あまり隠さない。 |
大島 |
そう。
で、そういう時代はだいたい「女の時代」なんです。 |
糸井 |
というと? |
大島 |
不景気で子どもは産まないんだけど、
ほがらかで楽しくて、女が元気なの。
色街から素晴らしい女性が出たり。 |
荒俣 |
性のエキスパートの女がいるんですよ、
白拍子(しらびょうし)からはじまって。 |
大島 |
しかも、おつむがいいというか見識がある。 |
荒俣 |
白拍子なんか、説教もしちゃうわけですから。 |
糸井 |
説教はするわ、脱ぐわ、やるわ。 |
荒俣 |
最後は、成仏までさせちゃう。 |
大島 |
不景気だから、人妻が身を売るんだけど、
しゃべらせたら本当に素晴らしい才能をもっている。
だから平安の頃、いろんな仮名文が出ましたもんね。 |
荒俣 |
和泉式部は本当は娼婦だったという話がありますし、
義経を狂わした静御前もそうだったとか。 |
大島 |
江戸の中期も不景気だったんだけど、
その頃の女もラッタッターですよ。
奥さんが外で働き、旦那は早起きして味噌汁つくり、
「かあちゃん朝飯できたよ」
という時代だったらしいです。
それが江戸後期から男がカムバックして
明治維新までいく。
そして明治維新からこの前のバブル崩壊までが
男の時代。
そういう時代は、女性が性に目覚めて、
こんな亭主じゃ私は更年期を過ぎて
やがて死んでいくのにつまらない、
なんて言われちゃ困るから、
性は隠さなきゃいかんと。 |
荒俣 |
女が出てくるとオープンになる? |
大島 |
なるんですねぇ。 |
荒俣 |
たしかに、フランスのサロン時代もまさにそうで、
女が主人公で、乱交もあれば、学問も開いたし、
文化も開いた。 |
糸井 |
開いている女たちの気をひきたい男たちが
頑張る、ということなんですかね。
ただ、あまりオープンすぎるのも、
飽きるんじゃないかという気が……。 |
荒俣 |
だから、プラス芸や教養といったものが
加味されないと、もたないんです。 |
糸井 |
それにしても、人間は
「したがりすぎ」じゃないですか。
こんなにしたいものかっていうのも謎です。 |
大島 |
動物は発情期がありますけど、
これはもともと脳ミソにインプットされている
生命記憶とか遺伝子記憶が仕掛けるんですね。
人間の場合は、オギャーと生まれてから
10歳くらいまでにつくられた脳のソフトウェアが
性に対する意識を発動させる。
そういう違いがあります。 |
荒俣 |
たとえばストリップショーやなんか、
発動のきっかけになるんでしょうね。 |
大島 |
ただ、脳のソフトウェアも神経回路が
ちゃんとできてなきゃ、面白い性なんてできない。
よく言われるセックスレスなんか、
ソフトウェアがガチャンコ。 |
荒俣 |
壊れちゃってる。 |
大島 |
酒鬼薔薇君ていたでしょ。
男は15歳くらいがいちばん性欲旺盛で、
触ったってピュッと出るくらいすごい。
そこをコントロールするのがソフトウェアだけど、
それがちゃんとできていないと、
性的エネルギーが暴力に変わることもある。 |
荒俣 |
動物の場合は、性について悩むなんて
聞いたことないですね。 |
大島 |
サルは1年にいっぺんでサケなんて一生に1度。
ネズミは4日に1度で新婚さんなみだけど、
これは寿命が短いから。
みんな発情期でなければ性欲は燃えてこないし、
子孫繁栄のための性だから、
そんなにガタガタしなくたっていい。
まあ、のべつまくなしにやるのは人間だけで、
これが厄介でもあり、面白くもある。 |
糸井 |
人間は発情する機会が多いですね。
自分自身で発情するように仕向けては、
何度も発情しているというのが人間で。 |
大島 |
下からきた欲情が脳を活性化させて、
いろんなものを見たり触ったり、話したりして、
それがまたはねかえってくるというサーキットが
できちゃうのね。
そうすると、もう無限に「やりてえッ」となっちゃう。 |
糸井 |
辞書でもイクじゃないですか。 |
大島 |
若い頃だと、「陰」の字を見ただけでね。
辞書で「陰」を探して、「陰門」なんてあったら、
すぐピュッと出る。 |
荒俣 |
昔、「毛」という字で発情したことがあります。
「髪(はつ)」ならたいしたことないのに、
「毛(もう)」だとね。 |
糸井 |
もうだめ。(笑) |
荒俣 |
これがカタカナの「へア」などとなると、
どうしようもないけど。 |
糸井 |
僕は性だと思っていることのものすごい割合の部分が、
実はフェティシズムにしかすぎないっていう気が
するんです。
「したい」ことの周辺のこだわりが
絶えず引き金を引くけど、
小さい玉がパーンと出るだけみたいな……。
だから南の島なんかで、いつでもできる状態で
毎日ダラーッとしてると、どんどん自分が
スケベじゃなくなっていくのがわかる。 |
大島 |
まさにそれなんですよ。
「人間の性というのは股間に非ずして耳間である」
と言いますが、耳間とは脳ミソのこと。
脳ミソがダメになったら、したくもなんともなくなる。
だから逆に、いつでもしたいと思っている人間は、
脳ミソが活性化しているとも言えるわけです。 |
糸井 |
じゃあ、僕はもうダメかもしれない。 |
荒俣 |
そうお?(笑) |
大島 |
昭和9年に『性』という雑誌を出した
沢田順二郎という人は、
「性は生なり」と言っています。
やっぱり生き方そのものですよ。
だから、糸井さんがおっしゃるように、
ダラーとしていると性欲もなくなる。
あるいは遊びや刺激のない教育ばかり受けていたら、
性的には面白くない人間になる。
だいたいエリートの学校を出たやつっていうのは
ダメなの。教育自体に遊びがないから。 |
荒俣 |
それ、よくわかりますね。
(つづく) |