第2回
明るい預言者
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糸井 |
今や日本でノストラダムスの名前は
コカ・コーラくらい有名ですが、
実像はあまり知られていませんね。
いったい、どういう人だったんですか。 |
藤本 |
医師であり、ものを書いて出版した人です。
時代的には1503年に南フランスに生まれ、
1566年に62歳で亡くなりました。
ユダヤの家系で、おじいさんの代に
キリスト教に改宗しています。
南仏のおおらかな風土の中で育ち、
ノストラダムス自身、
明るくて物事にこだわらない性格だったようです。
家族を大事にするユダヤ人で、
最初の結婚ではペストで妻と子どもを亡くしますが、
2度目の結婚では6人の子どもにも恵まれ、
とても堅実な家庭を築いています。 |
糸井 |
ぜんぜんイメージと違う。
ずっと閉じこもって書き物をしている
陰気な髭の老人、というような、
まがまがしいものを感じていたんだけど。 |
藤本 |
髭はありましたが(笑)。
社会的には非常に成功した人ですね。
医師として開業するかたわら、
年末に暦を出すんですが、これが爆発的に売れて。 |
糸井 |
日本の暦みたいな? |
藤本 |
翌年1年間の天気予報や、日の出入りの時刻、
聖人の祝日なんかを書き記してある……。 |
糸井 |
農業に役立つものですね。 |
藤本 |
そうです。その頃の医学は、占星医学といって
病気の予後をホロスコープで占って
治療しましたから、その占星術の知識をいかしたんですね。
ベストセラーの暦を毎年、出し続ける一方で、
『化粧品と砂糖煮についての概論』という本も
出しています。
シミのとり方、髪の染め方といった美容法や、
いろいろな草を使ってのジャムのつくり方が書いてあり、
若返り化粧水とか石鹸を自分でつくって、
販売もしていました。
彼はイタリアに旅行したことがあって、
そのときに薬草の知識とか薬術、
それから美食家でしたので、
ジャムのつくり方なんかも学んだと言われています。 |
糸井 |
ますますイメージが違ってくるなあ。
実用・実業の面が強いですね。 |
鏡 |
今の時代だったら、
ものすごく商売上手になっているんじゃないですか。 |
藤本 |
町のためにも力を尽くしています。
彼の住んでいたプロヴァンスのサロンという町は
クロー平野という砂利や小石が堆積した土地の中にあって、
灌漑が一大事業だったんですが、
それに協力・支援をしたり。
おかしいのは、町に給水塔をつくったとき、
ノストラダムスはこんな碑文を刻んだと言われています。
「もしワインが水のように市民に与えられるのならば、
こんなつまらない給水塔は
つくることもなかっただろうに」。 |
糸井 |
そういうノストラダムスが、なぜ預言書を書いたのか。 |
鏡 |
医者としても出版人としても成功してからですよね、
預言書を出したのは。 |
藤本 |
暦がベストセラーになっていたにもかかわらず、
満足できなかったんだと思うんですね。
もっと自分の力を世に知らしめたい、
という気持ちがあったのではないかと思います。 |
鏡 |
そして、預言書は評判になった。 |
藤本 |
宮廷にも招かれましたし。 |
鏡 |
ノストラダムの書いたものを見ると、
暦なんかそうですけど、
非常に具体的なことがきちっと書かれてあります。
ところが、預言書と言われる一群の本のみが、
ちょっと特殊ですよね。
すべて四行詩の形をとっていて、
1000ほどあるそれは表現があいまいで。 |
糸井 |
例の1999年の予言は、
藤本さんの小説に書かれてある訳によると、
こうなっていますね。
「1999年、7の月
天から恐怖の大王がやって来る
アンゴルモアの偉大な王が蘇り
火星の前後に、幸福の名のもとに君臨する」
何なのか、わけわかんないですね。 |
鏡 |
ちゃんと書くとあぶないから、抽象的にしたのか……。 |
藤本 |
あぶない、ということはあるでしょうね。
占星術を医学の治療に使うのは許されていたけれど、
個人の運命を占うのは教会からは禁止されていましたから。
それで、ノストラダムスは
そこに触れないように書いたと思います。
それでも、でたらめな本だと
ジャーナリズムに叩かれたし、
パリ大学の神学部でも批判の声はありました。 |
鏡 |
そういう逆風もありながら、
ノストラダムスは預言書を出し続けますね。 |
藤本 |
宮廷に呼ばれたときは、しっかり国王から
出版の許可を取り付けてくるんです。
そして、その本の前書きには、
「国王に捧げる序文」をちゃんと付けてある。 |
糸井 |
なかなか達者ですね。 |
藤本 |
カトリックの教会から異端の罪で召喚されたり、
熱狂的なカトリック教徒たちに攻撃されたときも、
そのたびに逃げ出して、上手に立ちまわります。
有名になってからは、
権力者や聖職者ともうまくつきあったし。 |
糸井 |
全方位外交だ。その時代、
予言はどういう役割をしていたんですか。 |
藤本 |
権力の座を狙う者にとっては、
先を知っていればそれだけ有利だということで、
権謀術数に使われていました。
権力者がいつ死ぬかということがわかれば、
前もって次の手を打っておける。 |
鏡 |
要するに、権力者からのリクエストも
あったわけですね。 |
藤本 |
そうだと思います。 |
糸井 |
詩の形式は、
「預言書はみんな四行詩で書こうぜ」というふうに、
当時、定番としてあったんでしょうか。 |
藤本 |
ノストラダムスは最初の結婚と2度目の結婚との間に、
8、9年くらい放浪をしているんですが、
その最中に滞在していた修道院で預言書に接し、
影響を受けたと言われています。
その預言書が四行詩で書かれていたので、
そこから形式のヒントを得たんじゃないでしょうか。
修道院で見た預言書はラテン語だったようですが、
彼自身はフランス語で書いています。
ただ、それも最初はラテン語で書いて、
あとからフランス語に訳し直した可能性があるようです。
そのほうが抽象的で観念的な文章になるから。 |
糸井 |
ふぅむ。 |
藤本 |
四行詩の抽象性については、
ノストラダム研究家で精神科の医師でもある
ルロアの説が面白いですね。 |
鏡 |
エドガー・ルロア博士ですね、
ゴッホが入院していた病院に勤めていた。 |
藤本 |
彼は、あの四行詩はノストラダムスの過去の心象風景と
現在とが合わさってできているという解釈をしてます。
預言書を精神分析的にみたという意味で、新しい。 |
鏡 |
そうですね。竹下さんの本
(『ノストラダムスの生涯』)
にも詳しいですが、たとえば次の四行詩。
「モン・ゴルシエとアヴァンタンから出るだろう
穴を通って軍隊に告げるだろう
二つの岩の間に獲物がかかるだろう
セクスト・モズルから名声が衰える」
版によっては、「モン・ゴルフィエ〜」
と書いてあるので、解説本なんかで、
モン・ゴルフィエ兄弟による気球の発明を
ノストラダムスが預言した、
と一般的に言われている詩です。
ところが、少し古い版では、
「モン・ゴルフィエ」が
「モン・ゴルシエ」となっている。
ルロアさんはこれを
sとfの誤植が起こったと言うんですね。
そうだとすれば、本来はモン・ゴルシエ。 |
糸井 |
モンゴルフィエ兄弟はどこにいった! |
鏡 |
実際にノストラダムスの故郷には
ゴルシエ山−−モン・ゴルシエがあって、
しかも詩にあるような穴もあった。
だから、子どもの頃に見た故郷の山のことを
詠っているとも考えられます。 |
糸井 |
じゃ、「兎追いしかの山〜」みたいな詩だったんだ。 |
鏡 |
ただ風景の描写だけじゃなく、
あのあたりにはローマ時代の軍隊が来たという
伝説もあって、ノストラダムスの頭の中にあった
そういう歴史のイメージも、
心の風景として詠み込んだんじゃないかというのが、
ルロアさんの解釈です。 |
藤本 |
sとfの誤植という話が出ましたが、
あの頃は、vとuを混同していました。
1500年代のフランスの地図なんか見ると、
vとuの文字が逆になっていますから。
あの時代の資料を読む時には、
いつも苦労してます。(笑)
(つづく) |