第3回 「何だ、これは!」を求めて
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糸井 |
作品を読んで感じることなんですが、
僕にはお二人とも
古い“科学少年"のイメージがあるんですよ。
これとこれを組み合わせたら、
こんなふうに模型飛行機が飛んだぞというような。 |
枡野 |
なんか、実感がないとイヤなのかもしれませんね。 |
谷川 |
詩を書くとき、最初の頃は言葉を並べると
世界の模型ができますみたいな感じはありましたね。
だけど今はぜんぜん違う。
僕は意識として頭を白紙状態にしないとダメなんです。
自分が空っぽになって、
うんと意識下のほうに精神集中してると、
ぽこっと言葉が浮いてくる。 |
糸井 |
ということは、自分の中に
旅していくという感じになるんですか。 |
谷川 |
自分が他人と共有している
日本語のプールみたいなところに旅をするって
言えばいいかな。
でも、そこへ行くのはけっこう難しくて、
ダメなときはもうやめちゃいます。
ワープロの前で精神集中してるんだけど、
意識としては何も言葉がないんですよ、
たとえテーマがあっても。 |
糸井 |
最初の言葉は、どう書き出すんですか。 |
谷川 |
ぽこっと、ある一行とか半行が出てくると、
とりあえずワープロで打ってみる。
それが何行目になるかわからないんだけど、
そこからスタートするんです。
次からはある程度、
意識的に連想したりはしますが、
最初の言葉は、僕は夢遊病的と言うんだけど、
なんかわけわかんない言葉が出てくるという感じです。 |
糸井 |
迷い込む感じなのかな。 |
谷川 |
迷い込むのとはちょっと違いますね。
比喩的なイメージで言うと、
日本語の総体−−過去から現在までの、
そして地域的にもすごく広がっている、
種類としても書かれた言葉から喋った言葉まで
全部含んだ−−といったものがあって、
植物が根を下ろすように、
そこに自分もふだんから根を下ろしている。
そして精神を集中したときは、
そういう言葉を樹液のように吸い上げて
お花にするみたいな。
カッコよく言うと、そんな感じなんですよ。
だから自分の言葉だという意識がないんです。
「共有している言葉」を探す、ということかな。 |
糸井 |
そこには、最初から読者が組み込まれている。 |
枡野 |
言葉って、読者がいないと
意味ないものだったりしますよね。
だから地球上に誰もいなくなったら、
僕は短歌はつくらないかもしれない。 |
糸井 |
おれ、つくるかもしれない。
魚一匹でも、
生き物の気配みたいなものがあれば、
言葉を投げかけたいなあ。 |
枡野 |
へえー、そうですか。
絵だと、描いた瞬間に素晴らしく描けたと
満足できることがあるのかもしれないけど、
言葉は誰かが読まないと、あるかないか
わかんないようなものだという気がするんですよ。 |
谷川 |
僕もそう思ってますね。
それから、さっき糸井さんが
書く意味は生きること自体だとおっしゃったけど、
われわれが詩や短歌を書きますね。
すると世の批評家や読者は、
その作品と生活している言葉とを
つなげて考えてくれないんですよ。
僕はそれ、すごく問題だと思ってる。
詩の言葉はふだん友達と喋っている言葉とは
ぜんぜん別のものであって、
立派なお言葉である、みたいなね。
ところが言葉はつながってるんですよ、地続きでね。 |
枡野 |
歌人の意識だと、歌はハレとケの「ハレ」なんです。
あんまり私たちの喋り言葉みたいなものは使わず、
わざと古文でわかりにくく書いて、
神様と通じたり、天皇と通じたりとか、
そういうものが短歌の主流です。
だから僕はしばらく
「特殊歌人」と名乗っていたんですけど。 |
谷川 |
枡野さんの短歌も、
ふつうの会話の中で使っているような言葉だし、
もしかしたら女を口説くときにも使える。
そういう連続性があるのがすごく快いんですよ。
つながってないと力がないでしょう。
広告の言葉もそうじゃないかな。 |
糸井 |
同じですね。 |
枡野 |
それから僕が最近ずっと感じているのは、
言葉は誰が喋ってるかが見えないと
意味がないんじゃないかということ。
糸井さんが
「この本、面白いよ」
と言うなら読んでみようかとも思うけど、
インターネット上で匿名の誰かがひと言、
「私のおすすめ」と書いてあったって、
読む気にはなれないし。
言葉って実体がない。
つまり、バックに何かがないと通用しない
通貨みたいなものじゃないかと。 |
糸井 |
おそらく発語した人間の歴史なり経験なり全部が、
壮大な形容詞なんだと思うんですよ。
つまり谷川俊太郎さんが
「このケーキはおいしいね」
と言ったとすれば、
谷川俊太郎という人のずっと長い歴史が
ものすごい形容詞としてあって、
そのケーキになるという。
「おいちいね」
と赤ちゃんが言えば、
赤ちゃんという形容詞だから、
それはそれで通じる。 |
谷川 |
新聞記事とか教科書のテキストは、
発語者がわからない。
だから気味悪いんですね。 |
枡野 |
糸井さんがスチャダラパーというラップグループを
雑誌でほめてらしたけど、
それが
「どうほめていいかわらないぞ」
というのを延々、書いているだけなんです。
でも糸井さんがそう言うのは、
よっぽどすごいんだろうなと思える。 |
糸井 |
僕は本気でほめたものは全部、
「わからない」
って書いてるんです。 |
谷川 |
それは、すごく正しい態度じゃないですか。 |
糸井 |
その発想の出どころや仕組みがわからない。
わかっていれば、自分でつくってますよ。
亡くなった岡本太郎さんの名言があって、
「芸術とは『何だ、これは!』というものだ」。 |
谷川 |
僕も自分の詩で気に入ってるものは、
「何だ、これは!」と思うもんね。
それがいいんですね。
何でこんなの書いたのか、
ぜんぜんわかんないというのが。 |
糸井 |
二百字の文章を書くのにも、
「これからは言葉をもっと大切にしなければ」
という教訓を用意しておくとか、
最初からまとめようとしている人が多いじゃないですか。
でも僕は、そういうことを忘れて、
夢中になる人に惹かれるな。 |
枡野 |
結論なんてつまんないですもんね。
詩は自由に書けて、
「何だ、これは!」も多いと思うんですけど、
これが俳句のように短くて定型があると、
同じ句ができちゃうことは多いですね。
俳句の人が百人以上、同じテーマで
句をつくるという会を見たことがあるんです。
「柏餅」がテーマだったんですけど、
「またこの句なの」っていうくらい、
同じような句がいっぱい出てくる。
「二つめはみそあん所望柏餅」とか。
柏餅のアンコについて論じたもの、
あとは柏餅が多すぎて重箱の蓋があいてしまう句とか、
そういうのばっかり。
思わず、みそあんいくつ、こしあんいくつって、
「正」の字書きながら数えちゃったんですけど。(笑) |
糸井 |
逆に言えば、
そのいちばん多い俳句をつくれば商売になる。 |
枡野 |
でも俳句の会では最終的にはヘンなものが目立つんです。
いちばん好きだったのは、
「日本にいろいろな餅柏餅」
というつまんない句(笑)。
でも、ああいう中で目立つのは
すごいことだと思いました。 |
糸井 |
「日本にいろいろな餅柏餅」、好きだな(笑)。
柏餅って、それだけ人に
考えさせた経験のない物体なんだね。 |
枡野 |
俳句は同じ句ができるし、
短歌もある程度はそうなんですね。
僕自身、同じテーマを七五調で、
日本語で美しく、リズムもあってと、
いろんなルールを決めてちゃんと書けば、
誰でも僕と同じ答えになるはずだという歌を
つくっているつもりなんです。
ただ、一回くらい僕らしい歌をつくれた人も、
次からはできなかったりするんですけど。 |
糸井 |
そこが枡野君ならではの世界ということなんでしょう。
でも、僕じゃない人が書いても、
その詩はあるんだよっていうものは書きたいですね。 |
谷川 |
さっき、発語者がわからないと
言葉に力がないと言ったけど、
それは散文の場合で、
詩だと最終的には署名がなくなっちゃうのが
いちばんいいと思うんですよ。
『詩人の魂』というシャンソンがあるじゃないですか。
歌は流れているけど、
詩人の名前は忘れられているという。
『万葉集』の読み人知らずと同じように、
本当に詩がよければそうなっていい。 |
枡野 |
でも原稿料だけは作者にきてほしい。(笑)
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