第4回 エネルギーを読む
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糸井 |
つまんない文章って、
谷川さん書くときあります? |
谷川 |
僕、自分の書いている文章には
いつでも不満があって、詩は書けるけど
散文は書けないとずっと思ってるんです。
詩をつくっているときは、
日本語という言語共同体の中に内在している力が
僕の発語の土壌となっていて、
僕が書いているという意識じゃなく、
何かしら呪術的な意識が働いているような。 |
糸井 |
さっき、巫女とおっしゃった、
そういう感じ……。 |
谷川 |
だから、そこに書かれている言語に対し、
自分という存在から離れて無責任でいられる。
きょうは白と言い、
明日は黒でもかまわない。
それが散文だと、
書いたことに責任をとらなきゃいけないと思ってて、
そのことに縛られるんです。
世の中に流通している決まり言葉にも縛られるし。
最後に教訓的なオチもつけてしまってね。
なんか散文は、自分という人間を問われてしまうようで。 |
枡野 |
僕も昔は詩を書いていたんですけど、
僕のは詩のふりした散文なんですね。
それに気づいてから、詩をやめました。
だから短歌は詩をやめた産物で、
散文を七五調にしたのが僕の短歌なんです。 |
糸井 |
短歌の場合、定型詩の難しさって、あるでしょう。 |
枡野 |
慣れちゃうと、かたちにはめるのは簡単ですよ。
むしろ魂がこもったものになるかどうかのほうが大変で。
僕は短歌だと、書かないようにしてても
あるとき突然浮かんでくる。
ただ、今のところ僕の短歌は百八十首しかないですけど。 |
糸井 |
たくさんつくれないと聞くと、
僕はやってみたいなと思うな。 |
枡野 |
七五調になっていて、
普通の散文のように読めて、
読むスピードで理解できてとか、
自分の中でいろいろな基準があって、
それに全部合致しているものが、
今のところ百八十なんです。
詩の場合は、これは成功した、これは失敗したとか、
どこで判断されてるんですか。 |
谷川 |
大岡信が若い頃、詩というのは言葉そのものじゃなく、
言葉を越えたものの方向に向かって、
磁力線のように立ち上がったり傾いたりして
動いているものだというような言い方をしていてね。 |
糸井 |
運動エネルギーみたいなもの。 |
枡野 |
とどめている文字じゃなく、
エネルギーの部分を読むべきものですね。 |
谷川 |
うん。
そういうふうには説明できるけどね。
それが成功しているかいないかは
勘みたいなもので、人によって判断は違う。
まあ、詩というのは
言語そのものではないというふうには思っていて、
それが長所であり、欠点であり。 |
枡野 |
短歌はルールがあるために指導しやすいんです。
七五調になっていれば短歌だし、
偉い先生が「こうしてみましょう」と添削すると
たしかによくなる。
それが逆につまんない部分でもあるけど。 |
谷川 |
伝統の重なりみたいなものがあるんでしょう。
それこそ長い間、書いていた人の形容詞が
いっぱいあるから、それに照らしてみると、
「この言葉は弱い」と言える。
詩はぜったいに添削できないから。
添削して、
「いや、僕、そういうふうに書きたくなかったんです」
と言われたらそれまでで。 |
枡野 |
谷川さんの場合は、
ご自身で詩集を一冊出すごとに、
違う定型をつくっては、
この詩集はこういうふうにしました、ということを
やってらっしゃるんでしょうね。 |
谷川 |
そういうところ、あります。
いくつかは「できちゃった」が先で、
それで書き続けられれば、
「しめた、これで一冊できる」というような。 |
枡野 |
すごい大盤振る舞いですよね。
毎回、一回こっきりで。 |
糸井 |
安売り王なのよ。(笑) |
枡野 |
普通だと、スタイル一つだけで一生もたせるでしょう。 |
谷川 |
本当はそうなりたいんだけど、
飽きちゃうから。 |
糸井 |
たえず自分の中の「何だ、これは!」がほしいから、
飽きるわけですね。 |
谷川 |
だから夭折すりゃいいんだけど、
今は平均寿命長いから、
次々何か工夫しないといけない。 |
糸井 |
新しい次元の芸術家の苦悩が生まれているわけだ。
一般の人にも、書きたいとか表現したい欲望が
山ほどあるのはよくわかる。
でも詩は教えられないし、教わるものでもない。
短歌は指導はできるけど、
枡野君が考えているようなことは、
やっぱり教えられるものじゃない。
「学びましょう」というのじゃなく、
楽しむ方法ってないものですかね。 |
枡野 |
うーん。どうなんしょう。 |
糸井 |
僕は、書かない、表現しないということを
大事にしたほうがいいと思う。
つまり、「私、書きたいんです」という人がいれば…… |
枡野 |
「やめたら」と言うんですか。(笑) |
糸井 |
「書かなかったままでいれば」ってね。
「それでも書きたい」という状態が、
状態としての詩を生み出していて、
「あっ、見つけた」という瞬間があると思うんですよ。
そうしたら山ほどつまんない詩を書くよりも
素晴らしいような気がする。
生きて耕して産んで死んだ
−−みたいなのが僕の理想だから。 |
枡野 |
そうですね。
「枡野さんの短歌を読んだら、
私もつくれるような気がしました」という人には、
「悪いけど、つくれないのよ」
と言いたくなります(笑)。
「すごくて、私にはつくれません」という人のほうが、
本当はいい読者なのかもしれない。
読むだけの読者って、たしかに貴いですよね。 |
糸井 |
谷川さんは? |
谷川 |
詩や短歌といった作品を書くことより先に、
たとえば恋人とどういう話をするか、
友達とどんな言葉を交わすかに
意識的になることが大事だと思いますね。
そのときに相手をできるだけ楽しませるような、
相手ともう一歩深くつき合えるような言葉を
意識したほうがいい。
そして詩を特別な言語だと考えず、
地続きだというふうに思わないと、
言葉は生きてこないという感じがすごくするんです。 |
糸井 |
たしかにそう。
正直に言いますけど、
僕は好きな人に喋った言葉は何度でも使ってますね、
なんていいこと言ったんだというのは。
みんなのためだもん。 |
枡野 |
僕もウケたセリフは短歌にしたりしてますよ。 |
糸井 |
本当にいい言葉はずっと残ってますね。
じゃあ、若い人たちが使ってる新しい言葉、
ああいうのはどうですか。 |
谷川 |
自分の気性に合わない言葉はちょっと……とは思うけど、
イキイキとして、
時代の表現になっていれば快いですよね。
こういう言葉が生まれてきて、すごいと。
「こだわり」や「生きざま」とか、
一時期流行ったけど、
ああいう中年が生み出した言葉は、
なんとなくイヤですね。 |
糸井 |
「こだわり」、かなわんですねぇ。 |
谷川 |
決まり文句のようになって、
みんなが使いたがってさ。 |
枡野 |
若者たちは、自分たちの新しい言葉や
腐りかけている言葉に敏感でないと、
仲間はずれになっていくんです。
言葉を他人に届けるという意味では、
貧しくなってきている部分もあるかもしれません。
一方で、一回りしたものはかえって新鮮みたいで、
ベストを「チョッキ」と言ってみたり。
たえず新陳代謝して、
古いものがまた蘇るという面もある。 |
糸井 |
二重性はありますね。
でもファッションと同じで、
基本はカジュアル化というか、
着やすいかたちになっていくのは当然で、
その中で着にくいのもありだとすれば、
僕はそういう言葉の変化は
完全に豊かさのほうに入れちゃってます。 |
谷川 |
うん、僕もそうだと思いますね。
(終)
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