第1回
人は笑いたい
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糸井 |
談志さんは、このあいだ、
三谷さんの舞台をご覧になったそうですね。 |
談志 |
感動したね。嬉しかったよ。
一つひとつが全部、行き届いていて。
俺、若いヤツをバカにしてたけど、
うかつだったと思った。
こういう人が出てきて、
生きてるのも悪くねえやって気がした。 |
三谷 |
いや、ありがとうございます。 |
糸井 |
今日のテーマですが、
僕は、わりに落語に馴染みながら暮らしてきて、
この二年間は毎日、
落語を聞きながら寝るという状態でして。
そんなこともあって、
「笑い」について考えてみたいなぁと……。 |
談志 |
「笑い」を一口で言っちゃうとね、
このあいだ亡くなった桂枝雀が
「緊張と緩和」と言ってたけど、
人は弛緩したいってことですよ。
赤ん坊も大人も、
常に緊張してないと生きられないでしょ。
だから、こう(首をのけぞらせてダラリとする)なりたい。
それが自然にダランとするのか、
笑うという方法で弛緩するのか、
その両方だと思いますね。
ただ、そうなると何も談志で弛緩しなくたって、
こん平や木久蔵みたいなバカヤローで
弛緩したっていいじゃねえか、
大きなお世話だってことでね。 |
糸井 |
心身を緩めてくれさえすれば、
誰でもかまわないと。 |
談志 |
そうそう。
俺が威張って、「俺の落語は本物だ」とか、
「三谷さんの芝居がいい」とか
何とか言う必要があるのかということになってくる。 |
糸井 |
それは困りましたね。 |
談志 |
困るんだよ。 |
糸井 |
笑いを定義すると、
いい悪いというのを味わえなくなる。 |
談志 |
いい悪いはないんじゃないですか。 |
糸井 |
ないんですか? |
談志 |
ない。
ただ、自分がどこかに属していないと
自我が成り立たねえから、
自分の笑いの感性は三谷さんの戯曲に属してるとか、
何々が面白い、何々もいいっていう類型を探すわけだ。
類型を探したくなかったら、
自分が典型になるより仕方ないやね。
「俺のはどうだ」って。 |
糸井 |
宗教の分派みたいなもの? |
談志 |
まったくそう。
料理も同じでしょう。
あの味がいいと言って、
その通りにやってるヤツもいりゃあ、
いや、自分のこの味がいいんだと言うヤツもいて。 |
糸井 |
そうか。
三谷さんはドラマにしろ舞台にしろ、
必ず笑いを入れてますね。 |
三谷 |
僕は小さい頃からずっと誰かを笑わせたいと思ってて、
だけど自分にはタレント性がないもので、
だったら書く側にまわろうと……。
自分は喜劇作家だと思っていますから、
笑えないものは書きたくない。 |
糸井 |
そこで聞きたいんですけど、
笑いって、センスを磨けるものですか。 |
三谷 |
つくる側、ということで言えば、
運動神経と同じような気がします。
僕は運動神経がないんですが、
これからどんなに磨いても、
きっと陸上の選手にはなれない。
それと同じで……。 |
糸井 |
じゃ、受ける側はどうなんだろう。
「私、もっと笑いがわかりたいわ」なんて言っても
無理ですかね。 |
談志 |
鈍いのもいます。
でも、俺と一緒にいると、
感度はそこそこにはなるよ。
俺流だから、ちょっとひねくれてるかもしれないけどね。
運動神経を鍛えるのは難しいかもしれない。
でも、笑いはいくらか楽なんじゃないの。
ついでに言っとくと、
落語家は頭がよくて洒落がわかるというのは
すごい誤認でね。
極論を言いますと、落語家って職業的な問題ですよ。
糸井さんが三ヵ月の期限で落語を覚えないと死刑になる。
教えないと俺も死刑になっちゃう。
となると、基本的なものを覚えさせて、
糸井さんをその辺にいるヤツよりいい落語家にして
高座に上がれるようにすることは、俺、できるよ。
その程度のもんですよ、落語なんて。 |
三谷 |
僕がさっき、
つくる側の笑いのセンスは磨けないと言ったのは、
五年くらいテレビドラマをやっていて、
ずっと同じスタッフチームだったんですね。
でも、この脚本のどこが笑えるのか、
ずっと僕と一緒にやってきたのに、
結局、わかってもらえなかったというのがあって……。 |
糸井 |
スタッフ側に? |
三谷 |
脚本を書くとき、
僕は自分で笑いながら書くんですね。
でも、それが視聴者には
半分以上伝わってないという感じがしたんです。 |
談志 |
あたしが自分のしゃべりを本にしようとしますとネ、
これ、どうにもならない。
「てにをは」がつながらない、
主語、述語は逆になったりしてメチャクチャ。
聞いてるときはいいんですよ。
ドラマでも脚本家が台本をちゃんと書きますわな。
電話が鳴る、取る。
「何? どこからかけてるんだ。
六本木の交差点からか。
犯人らしきものを見たのか。
よし、わかった。
犯人はどんな格好をしてる。
だったら間違いない」−−。
そんな会話、普段するわけないよな。
ただ、そう書かないと、やるほうはどうにもならない。
「おはようございます」というセリフでも、
本当なら「おえーっす」と言うのを、
きちんと「おはようございます」と書きますね。
そのへんは役者が、その雰囲気を伝えるより
しょうがないってところはあるんじゃないの。 |
三谷 |
僕は舞台ではずっと演出はやってなかったんだけど、
今年からは自分でやるようにしてるんですね。
やっぱり現場で俳優さんに、
ここはこういうふうに言うと面白いんだよってことを、
自分で伝えるしかないと。 |
糸井 |
いちばんたしかですね。 |
三谷 |
僕は映画監督では
ビリー・ワイルダーが好きなんですけど、
理想的なのは、彼とジャック・レモンの関係。
お互いに信頼し合っていて、
ビリー・ワイルダーはジャック・レモンが
どうすれば活きるかという状況を
完璧につくりあげるし、
ジャック・レモンは
ビリー・ワイルダーが何を求めているか完全に把握して、
さらに場面を面白くするみたいな。
だから、二人が組んでやってる映画を見てると、
ああ、この人たちは幸せだなあと思いますね。 |
談志 |
松竹新喜劇の渋谷天外さんの戯曲で
『桂春団治』というのがあって、
これ、脚本読んでも面白くも何ともない。
ところが、凄い舞台ができ上がる。
春団治が死の床にあるシーンで−−池田屋の小僧が来る。
次に(曾我廼家)明蝶さんのセリフ、
「おまえ、知らんのか。師匠は明日をも知らない命だ」。
その程度しか書いてない。
それが舞台じゃ小僧役の(藤山)寛美が、
「いやや、師匠死ぬ、
春団治死ぬっちゅうのはいややねん。
何とかなりまへん? 春団治死ぬの」。
その「いややねん」ってすがりながら泣くのが、
満場の涙をさらうんです。 |
糸井 |
役者の肉体が思いもかけない効果を出すという。 |
談志 |
別の芝居で、
「おまえは出てけ」って言われた寛美が、
そこを何とか頼み込む、というのがあるんです。
そこで寛美は、
首んとこがバネみたいになった人形の頭を叩いて、
その頭がこう(上下に揺れる)なるのと一緒に
自分も頭を動かしながら、
「なんとかならへんか」ってやるわけですな。
それだけで笑える。 |
三谷 |
書き手側からすると、
そういうおかしさは絶対にト書きでは書けないですね。
書いたとしても面白さは伝わらないし、
台本のままに俳優さんが演じても
面白くないものになってしまう。 |
談志 |
でしょうね。 |
三谷 |
板(舞台)の上に立つ人の面白さには、
かなわないところがあります。
そういう意味で、俳優さんは羨ましいですね。
僕が頭で考えて書いたセリフよりも、
アドリブでやってもらったセリフのほうが
面白かったり、言葉が活きてたり。 |
糸井 |
そんなふうに役者さんにうまくやられると、
「おいおい」と思うでしょう。 |
三谷 |
でもお客さんは、
それが僕の力だと思ったりするじゃないですか。
だからちょっと嬉しかったり(笑)。
それはともかく、
じゃあ僕が彼らにかなう部分は何かといったら、
全体の構成をきっちりつくることとか、
論理的に笑えるようなこととか、
そういうことでいくしか道はないと。 |
糸井 |
『やっぱり猫が好き』は、
一見、台本も何もないような感じでしたが。 |
三谷 |
あれはちょっと、つくり方が別だったんです。
あの演者の方たちは、台本をざっと読んで、
こういうのをやるんだなというところで、
自分の言葉にして演じる。
だから僕の役目は、一回読んだだけで、
セリフが頭に入るような台本を書くことでした。 |
談志 |
そうだね。
俳優が覚えらんないセリフってのは、
作者がヘタなんだよ。
(つづく) |
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