第1回
墓地が好き
|
糸井 |
長江さんは学者さんでありながら
墓石店の社長さんなんですって? |
長江 |
単に家業の3代目を
継いだだけのことなんですけどね。
私は千葉県の松戸出身なんですが、
近くに東京都立八柱霊園という
7万基規模の墓地があるんです。
で、その門前に、うちを含めて40軒、
墓石屋が並んでいまして・・・。 |
糸井 |
へえ〜。
墓石屋通りなんだ。 |
長江 |
「なんまいだストリート」というか
「墓地ストリート」というか(笑) |
佐々木 |
じゃあ、競争が激しいですね。 |
長江 |
いえ、そうでもないんです。
うちは祖父の代からですが、
お墓というのは一度作ると、
メンテナンスもあるので
3代、4代にわたって
おつきあいしますから。
八柱霊園は公営なので、
お坊さんからお線香、お花の手配、
法事の時にはうちに集まって
お茶飲んでから墓地に行くとか、
そういうお世話もしています。 |
糸井 |
お墓に興味を持たざるをえない環境で
育ったわけですね。 |
長江 |
うちは男の子がいなかったので、
長女の私が子供の頃から
「跡を継げ」と言われましてね。
でも、実はそれが嫌で嫌で・・・・。 |
糸井 |
「墓場のヨーコ」とか言われて? |
長江 |
墓場は遊び場でしたけど(笑)。
文学に逃げ込んで、
結婚して名字も変えた時は、
「これで逃げられる!」
と思ったんですが、
創業以来のお客様が
8500軒もいらっしゃっては、
継がざるをえませんでした。 |
糸井 |
石から逃げるんですか。
それとも死から逃げるんですか。 |
長江 |
いやあ、
死からは逃げてないと思います。
だって、
左翼文学が花盛りの頃の明治大学で、
「宗教と文学」とか正宗白鳥とか、
私だけ変わったことやってましたから。
ただ、当時は、なぜ自分が
「死」をテーマにした文学に
興味があるのかはわかりませんでした。
ところが、家業を継ぐと覚悟を決めて
お墓のことを勉強し始めたら、
これが面白い。
文学の読み方も変わって、
漱石の『こころ』が
お墓をめぐる推理小説のように
読めるんです。 |
糸井 |
それはおもしろそうだなあ。 |
長江 |
『こころ』には
「先生」と「K」という
主要な人物が出てきますが、
「先生」は血がつながってもいない、
単なる友人でしかない
「K」の自殺後のお骨を、
「K」の故郷に返さないで、
自分でお金を出して
お墓を建てちゃうんですね。
でも、現実には
親族でもない人のお墓を建てるって、
すごいことなんですよ。
だから、漱石は
どうしてそういうことを書いたのかな、
なんてことが気になってくる。 |
糸井 |
視点が変われば、
読み方が変わりますよね。
昔、喘息友達と「誰が喘息か」という
文学の読み方があるね、
って話をしたんだけど、
どうも喘息の人は
プルーストと吉行淳之介に
共感するらしい。 |
佐々木 |
僕の知り合いに
江戸中期の研究者がいるんですが、
同時に当時の痔の研究もしていてね。 |
糸井 |
誰が痔か。(笑) |
佐々木 |
“痔から読み解く日記論”というのを
書きましたけど、抱腹絶倒でした。 |
糸井 |
やむにやまれぬ表現が、
やっぱりあるんですよね。
ところで、佐々木さんは
お墓参りが趣味とうかがいましたが。 |
佐々木 |
墓地へ行くのが好きなのね。
初めての町に行った時、
僕が町の全体像をとらえるために
必ず行く場所というのが2ヵ所あって、
そのひとつが墓地なんです。 |
糸井 |
もうひとつは何ですか。 |
佐々木 |
刑務所です。
つまり、都市というのは
身元不明のやつが
集まってくるわけですよ。
と、必ずアウトローが出てきて
何かをやらかすから、
彼らを集める場所が刑務所なんですね。 |
糸井 |
ああ、社会ですね。 |
佐々木 |
そして墓地は、その身元不明の人間が
最終的に入る場所です。
この二つをおさえると、
その都市の輪郭が
見えてくる感触があります。
ところが、
この理屈が通らない地域があって、
チベット仏教徒が住むチベット、
ネパールとインドの
ヒンドゥ教徒の住む地域には、
刑務所はあるけど墓地がない。 |
糸井 |
人々が移動しているからですか。 |
佐々木 |
いや、無墓文化なんですよ。
だって、ヒンドゥ教徒は
火葬してガンジス川に流すでしょ。
墓、ないんですよ。 |
糸井 |
えっ、それは知らなかった。 |
佐々木 |
チベットなんて、
「墓」を指す言葉自体もないんですよ。 |
長江 |
そうらしいですね。 |
糸井 |
概念がないんだ。
じゃあ、インドのヒンドゥ教徒は
川に流すとして、
チベット仏教徒はどうしているんですか。 |
佐々木 |
チベット仏教徒にとっての
最高の葬礼法は、
死体をハゲワシに食べさせる鳥葬です。
鳥葬は人間がこの世でなしうる
最後の施しを鳥に与えるわけで、
チベット仏教徒なら
誰もが望んでいる尊い行為なんです。
その次が火葬。
ああいう高山地帯では、
遺体を焼くだけの木を集めるのに
お金がかかる。
だからランクが高いわけですが、
火葬の場合でも、
骨はそのまま放っておいて、
風に飛ばされるままにします。
次が水葬で、
ヤルンツァンポ川という大河へ、
遺体を魚が食べやすい大きさまで
千切って流してやる。
で、一番下が土葬です。
これは疫病にかかった人か犯罪人、
もしくは生まれて間もなく死んだ
子供の場合ですね。
だけど、その埋葬法というのが、
ちょっと地面を掘って、
石を積み上げただけのものなんです。
だから夜になると、
チベットオオカカミが食べに来る。 |
糸井 |
オオカミ葬になっちゃうわけだ。 |
佐々木 |
実際、土葬の場所に行ったら、
オオカミがほじくりだした骨が
いっぱい出てました。
でも、鳥葬もすさまじいんですよ。
西チベットの、カイラスという聖山の
頂上に一番近い鳥葬場が
最もステイタスが高いんですが、
行ってみたら、
鳥葬場は広い岩の平面にあって、
岩肌に血がこびりついていて、
近くにさびたナイフが転がっていた。
実は、鳥葬にあたっては、
ハゲワシが食べやすいよう、
遺体を切り刻んで砕いておくんです。 |
長江 |
丸のままじゃ、食べられないから。
それに、魂が早く天に戻れるように、と。 |
佐々木 |
ハゲワシは
その準備が整うまで待っていて、
人間たちが引き上げたら、
一斉にザーッと群がるんです。
僕が行った時には、
鳥が食べない髪の毛は残ってたけど、
血も乾いていたから、
「ああ、こんなふうにやられるのかな」
と思って、その場所に寝ころんだわけ。
そしたら、その瞬間、
岩山のまわりにいたハゲワシが
バタバタバタッって・・・・。 |
糸井 |
すごいな。 |
佐々木 |
僕はもう、走り回りましたよ、
「まだ生きてるぞ!」って。(笑) |
長江 |
証明しないとあぶない。(笑) |
佐々木 |
さらに面白かったのは、
鳥葬の場所の近くには、
死んだ人が着ていた服などを
集めておく場所があるんですけど、
チベットの巡礼者は、そこへ行って、
自分で着られる服を取っていくんですよ。 |
糸井 |
それじゃあ、
巡礼じゃないじゃないですか。(笑) |
佐々木 |
いや、結局、チベット仏教徒は、
自分の生きた証が
地上に何も残らないことを
望んでいるわけです。
そうしないと、輪廻転生できませんから。
残った衣服を取ることも
決して悪いことではないんです。
死者が最後の功徳として、
ハゲワシには自分の肉を捧げ、
人間には服を残す。
鳥葬は天葬とも言いまして、
ハゲワシは天に近いところまで
自分の魂を持っていってくれる
鳥なんです。 |
糸井 |
うわぁー、話を聞いただけで
気が遠くなる。
僕、お墓というテーマを
ずっと話したかったんですよ。
というのも、ある対談を読んでたら、
「あなた、お墓に入る人?」
って言うような会話があったんですね。
その時、
「墓に入るか入らないかという
人生の選択はものすごいぞ!」
とびっくりしたんですよ。 |
佐々木 |
それは、そうですね。 |
糸井 |
僕は若い頃、フラフラしていて
住所不定のような時期があったんですが、
そんな頃でさえ、
いずれはお墓に入るんだろうと思ってた。
それを選ぶ選ばないなんて、
想像もつかなかったんだけど、
「墓に入らない」という考え方を知って、
「あ、死んでからもまだ家出人やるんだ」
と思ったら、その自由と苦しみが
一気に押し寄せてきて、
同時に、これまで自分がいかに
お墓のことを考えないできたかが
わかったんです。 |
佐々木 |
気づいたわけやね。 |
糸井 |
僕、子供が飼っている金魚が死んだ時、
かまぼこの板に「金魚のお墓」と書いて
墓を作った覚えがある。
でもその一方で、
肉食魚を飼う時に使う
“餌金”という金魚が死ぬと、
生ゴミにするか、トイレに流している。
となるとね、金魚の命に対する態度が
生命全体に対する考え方に
普遍化できるとしたら、
僕は人間の死をどう扱うかということが
わかんないまま、
宙ぶらりんで生きている。
で、お墓や死のことを考えている人と
話がしたくてしょうがなかったんですよ。 |
佐々木 |
そういうことって、
なかなか話す機会ないからねえ。
|