第4回
あなたの想像力、刺激します |
糸井 |
そういえば僕、その昔、
鶴瓶さんに誘われて落語の台本を書いて、
それを松尾伴内くんが
演じてくれたことがありました。
いつか鶴瓶さんに
新作を書いてみたい気持ちがずっとあって、
『SM長屋』
っていうのを書くつもりでいるんです。
急に隣のおばさんがね、
余ったロープを借りに来る、みたいな。(笑) |
昇太 |
ちょっとロープが足りないんだけど、って。 |
糸井 |
でも鶴瓶さんは
そういうとこ気取り屋さんだから、
そんなのいやだって(笑)。
こうして考えてみると、何だかんだ言っても、
落語と自分の縁はずっとつながってるなぁ。
『大正テレビ寄席』も、
最近は面白くないといいながらも、
ちゃんと見てたし。 |
橘 |
末広亭とかから中継してましたね。 |
糸井 |
最近、落語はテレビから消えたね。 |
昇太 |
逆にそれがいいと僕は思っています。
今、映像の時代で、
テレビで紹介されて面白いものが
よしとされるじゃないですか。
でも、落語ってテレビで見て
そんなに面白いものじゃないです。
テレビはとても親切で、
あまり考えずに見てもわかるように
番組を作ってあります。
それこそ
「今、ここで笑いなさい」と
笑いどころをテロップで書いてくれる。
見る側があまり想像しなくてもいいんですね。
ところが落語は、
想像して聞いてもらわないと
成立しない芸能です。
その意味で、テレビは落語にとって
ベストなメディアとは思えない。 |
橘 |
僕も
落語をテレビであまりやらないのは
逆にいいことだと思ってます。
テレビのようにすべてを見せてしまうのは、
イメージを限定させることでもありますから。
それと、お笑いの人たちみなそうですが、
テレビでは一つの芸がウケても、
飽きられると
すぐにまた次の芸を出さなくちゃいけない。
常に新しいこと、新しいことを
やっていかないと通用しないでしょ。
だけど、テレビで露出しなければ、
一つの芸をずーっと長くやれるし、
それを磨き上げて
さらに面白くすることもできる。
昇太さんの落語で、
5年前にやったのと同じネタを今見て、
あ、もっと面白くなってると
発見することがあります。
そこでまた楽しめますからね。 |
昇太 |
落語で楽しいのは、
「あの女、いい女だねえ」と高座で喋るでしょ。
400人のお客さんがいると400通り、
自分用の美人の顔がイメージされるんです。
だから読書好きな人は
きっと落語を楽しんでもらえると思う。 |
糸井 |
このあいだ、昇太さん、
マクラ(噺に入る前に話される導入部。
小噺、世間話のようなもの)で、
モモンガを飼おうかどうか
悩んでいる話をしましたね。
モモンガが飛んだらどうしようとか、
聞いてて爆笑でした。
あれ、本当の話なんですよね。
あの話を、
今ここでまったく同じ言葉で
喋ったらどうでしょう?
笑いますかね。 |
昇太 |
いや、あの時は本当に悩んでましたから。
今はもう、飼っちゃったので(笑)、
同じ話をしても切実感もないし、
面白くないと思いますよ。
要するに落語は「その人」から出られない。
マクラも噺も、その人そのもの、
なんです。 |
橘 |
同じ噺をしても
面白い人と面白くない人がいるのは、
「人」が出るから。
談春さんなんか本当の博打うちだから、
ヤクザの噺とか『居残り佐平次』をやると
すごくいいんですよ。
それを、
お坊ちゃまな感じの人が喋っても
しっくりこない。 |
糸井 |
殿様の子どもが、
お金のことをお雛様の刀の鍔だと思った
という『雛鍔』という噺があります。
僕はあの噺を
(古今亭)志ん朝さんで聞いたけど、
もし品のない人がやったら、
ああいう噺には聞こえないですよね。 |
橘 |
このあいだ、
談春さんと花緑さんが二人会で
『子別れ』上下をそれぞれやったったんです。
前半を談春さん、後半を花緑さん。
最初は博打打ちのことが出るから、談春さん、
めちゃくちゃハマってる。
後半になると、
花緑さんはポジティブ・シンキングを
絵に描いたようなお人柄なんで、
『子別れ』といっても
お涙頂戴の感じにはならなくて、
なんか楽しい家庭じゃん(笑)、
という雰囲気なんです。
これは、
もちろん技術的なことじゃないけど、
前半と後半を逆にやれば、
またまるっきり違う話に聞こえるんでしょうね。 |
糸井 |
人といえば、僕の中でしつけ糸みたいに、
昇太さんに仮につけたイメージがあるんですよ。
それは、「ばかで結構」
「ばか、カモン」というの。
(立川)談志さんは落語のことを
「業の肯定」という言い方をしたけど、
昇太さんの場合は、「ばかの肯定」。(笑)
|
橘 |
いや、そうですよ。
昇太さんの新作『花粉症の寿司屋』なんか、
衝撃的でした。
昇太さん、
ほとんど寝てやるんですよ。
花粉症が苦しくて
商売できないお寿司屋さんが、
辛いからと
横になったまんま寿司握ったりする
という噺でね。
その時、
わあ何だこの人、スゲーって
思いましたもの。
|
糸井 |
だけど横になる以外は、
落語のスタイルから何も外してないですよね。 |
昇太 |
落語は
「こうしないといけない」ということは
多分ないです。
ただ、なぜ着物を着て、
なぜ座るかということですね。
これ、やってる側から考えてみると、
座っていればすべて演じられるんです。
立ってるシーンも、歩いたり走ったりも。
ところが立ってやると、
座っているシーンはできない。
走るのも、
立って実際にパッと走るとなると
限界があるでしょう。
でも座っていると、
何キロでも走れるんですよ。 |
糸井 |
モノクロの写真と同じで、
カラーじゃない分、
色を自由につけられる。 |
昇太 |
着物もそうで、
洋服は女性と男性の服は完全に違うし、
年齢でもファッションは変わってくる。
ところが着物は帯から上はみな一緒。
だから、
女性でも男性でも、
子どもでもおばあさんでも演じられるんですよ。
僕はその昔、
落語って規制があるように思っていました。
ところがいざやってみると、座って喋る、
着物を着て喋るからこそ、
何でもできるんですね。
誰が編み出したか知らないけれど、
素晴らしいなと思いました。 |
橘 |
見せ過ぎると、かえって伝わらない――
写真もそうです。
たとえば志の輔師匠は高座に上がる前、
必ず客席と逆側を1回見て、
鼻を2回触るんですよ。
昇太さんは高座を下がる時、
いつも走る。
そういうところを撮れば、
充分にその人らしさは伝わる。
何も高座での仕草の面白いところを
すべて撮って見せる必要はない。
想像させる余地って大事ですね。 |
|
(つづく) |