第2回 贅沢は文化だ |
糸井 |
ブランドの話が出ましたが、
茂登山さんはブランド・ブームのずっと以前から、
世界の一流品を紹介し続けてこられた。
きっかけは何だったんでしょう。 |
茂登山 |
僕は戦争に行ったとき、日本は外国を知らないから、
あんな戦争をしちまったと思ったんです。 |
糸井 |
外国を知らない……。 |
茂登山 |
そう。昭和16年に召集されて天津に行ったんですが、
その頃、日本は暗黒ですよ。
ものはすべて配給だし、言論の自由はなく、
着るものだって国防色しかないんですよ。
それが天津の街を見て驚いた。日本との落差がすごい。
キャバレーやナイトクラブのネオンサインはつきっ放し。
映画館では『風と共に去りぬ』を封切っていて、
ビビアン・リーとクラーク・ゲーブルの看板が
いたるところに出ている。
それを見てオカシクなっちゃった。
大変な相手と戦争をしたなと。 |
鹿島 |
天津といえば、当時、最大の租界がありました。 |
茂登山 |
僕の家は繊維問屋で、僕自身も戦争の前から
着るものの仕事はしていましたが、さっきも言ったように、
色は国防色だけでしょう。
とてもファッションなんてものじゃない。
それが天津のデパートに行くと、見たこともない、
触ったこともないような美しいものがいっぱい、
あらゆる世界の一流品が並んでいるんです。
見れば見るほど楽しい。 |
糸井 |
戦争が終わって日本に帰ってきたら……。 |
茂登山 |
とにかく何もない。僕の家も会社も焼けている。
それでまず始めたのが、糸を黄色や赤、青に染めて、
柄の靴下をつくって売ること。
戦後、カラフルな柄物の靴下をつくったのは、
おそらく僕が最初ですよ。
そんなことをやりながら、次に僕ができることは、
みんなに外国のものを紹介することだと思って、
舶来品を扱う店を開いたんです。 |
糸井 |
それで、ヨーロッパのものを? |
茂登山 |
いや、最初はアメリカです。
僕がいたのは進駐軍のオフィスがある有楽町でしたから、
進駐軍の友達をつくり、その友達を通じて
アメリカに商品をオーダーしてもらってたんです。
進駐軍の人間が本国にオーダーすると
税金も送料もかからない。
それで10年間はアメリカ一辺倒。
昭和30年代になって、貿易や渡航、
為替が自由化されてから、ヨーロッパに
のめり込むようになるんです。 |
鹿島 |
戦争が終わったあとの日本人にとって、
アメリカは輝く国に見えましたね。
僕も子供時代、アメリカにすごく憧れた。
テレビだと『パパ大好き』の世界。
車が2台あって、1台はワゴン車で、
スーパーに大量の食料品を買いに行く。
兄貴はフットボールの選手で、誕生日には
兄弟が贈り物をしあう。そういう生活……。 |
糸井 |
アメリカ一辺倒から、ヨーロッパに目がいったというのは? |
茂登山 |
当時有名なカメラマンで名取洋之助という方がいましてね。
ドイツに留学し、『ライフ』の専属カメラマンに
なった人で、海外生活も豊富なんです。
その名取さんに、「アメリカのものがいいなんて言うけど、
一流のものはみんなヨーロッパのものだ」
と言われたんです。
で、昭和34年に、名取さんがヨーロッパへ
連れていってくれましてね。
名取さんは、まず美術の違いを見ろ、
着るものや持つものはそれからだと。
それで2ヵ月間、ずっと美術館を回って歩きました。 |
鹿島 |
ヨーロッパには数え切れないほど美術館がありますからね。 |
茂登山 |
そうしているうちに、たとえばパリのルーヴル、
オランジュリーなんていう美術館の近くにエルメスがあり、
フィレンツェでは、ウフィッツィ、ピッティの美術館を
見たあとにグッチを知り、マドリッドのプラド美術館に
行ったら、ロエベがあった。
つまり、美術館の流れの中から一流ブランドに出会い、
美しいものに魅せられるうちに、
個性のあるクオリティの高いものだけを選んで
扱っていこうと決めたんです。 |
鹿島 |
お話をうかがってて、ロザリンド・ウィリアムズ
という人が書いた消費社会論の『ドリーム・ワールド』
という本を思い出しました。
われわれはなぜ買い物をするかという
基本的な問いかけをしていて、その一つの答えとして、
「ワンラクンク上の生活」ということを言っています。
下層階級は中産階級、中産階級はアッパーミドル、
アッパーミドルは上流階級、上流階級はさらに上の貴族、
貴族は王様というように、順送りに一つ上のクラスの生活に
憧れて買い物をするというんです。
だから結局のところ、われわれはみなヴェルサイユ宮殿を
買っていることになる。
日本の場合、戦後、いちばん近い憧れの国は
アメリカでしょう。 |
糸井 |
そこに、僕たちにとってのワンランク上の生活があった。 |
鹿島 |
そのアメリカからヨーロッパに変わった
とおっしゃいましたけど、僕もアメリカファンから
フランス志向になっちゃった。1968年5月革命のパリ。
ヌーベルバーグ、ヌーボーロマン、構造主義、
カッコいいやんけ!
輝くヨーロッパの神髄がパリにある。(笑) |
糸井 |
美術の流れだとか思想の流れというものを追求していくと、
そのルーツとしてヨーロッパがあったと。
当時、ヨーロッパのものを紹介して、
どう受け止められましたか? |
茂登山 |
みんなが見たことのないものばかりでしたから、
面白いように買っていただきました。
ただ、そのことが新聞や雑誌にもとりあげられたとき、
「贅沢は敵だ」というふうに書かれましたね。 |
糸井 |
戦時中じゃないんでしょう? |
茂登山 |
昭和36、37年頃です。その頃は外貨が貴重で、
日本は輸出で外貨をどんどん集めていたから、
貴重な外貨を使う僕なんか“国賊”ですよ。
僕は批判した人たちに反論してね。
「贅沢っていうけど、贅沢は味方だ。
どこの美術館に行ったって、いいものは全部、
贅沢の反映だ。贅沢が美しいものに対する目を
開かせてくれる。日本が贅沢をさせないから、
外国にも行かれなくて、外国を見ないから、
井の中の蛙でとんでもない戦争をしちゃう。
僕の店のものは高いと言うけど、
いいものが高いのは当たり前。
いいものを買うと、くだらないものは欲しくなくなって
無駄遣いしなくなる、自分のテイストも磨かれる。
それこそが文化だし、僕はそれに貢献してるんだ」と。 |
糸井 |
説教してしまった。 |
茂登山 |
若かったから。(笑) |
鹿島 |
贅沢ということでは、さっきも出たウィリアムズが
言っています。
最初は大衆消費で、大衆に夢を見させるんだけど、
もう一つ、それに叛旗をひるがえす消費の仕方がある。
それは何かというと、ユイスマンスという人の
『さかしま』という小説に何でも逆さまにやる主人公がいて、
その彼のやり方なんです。
彼は自分では何一つ創造せず、「これ、いらない」
「あれも、いらない」と、ひたすらものを買わずに
よりすぐって、どんどん選択の幅を狭めながら
数を絞り込んでいく。
最終的に気にいったものだけで、自分の周りを囲むんです。
アンチ消費なんだけど、これもまた贅沢な消費の形だと。
消費の形はそっちのほうへ行くか、
みんなが自分の階級よりワンランク上を目指すか、
どっちかですね。 |
茂登山 |
華道の勅使河原蒼風さんに、大作というものは
どうやって活けるのか、先生の会館で
何度か見せてもらったことがあります。
講堂みたいなところに、10人くらいのお弟子さんが、
花、枝、木をたくさん持ち込みましてね。
先生は座って、それを杖で脇にどけていく。
持ち込まれたものを、どんどん捨てていくんですよ。 |
糸井 |
それ、いいなあ。 |
茂登山 |
やっと少しになったところで、はじめてご自分で切って、
活けるんです。つまり、捨てること、切ることで、
美しいものができあがっていくんですね。
僕も仕入れに行くでしょう。
ネクタイだと一度に何千本とオーダーするから、
そのときに迷ってなんかいられない。瞬間的な目です。
まず、値段は見ないで、いいもの、見て美しいものを
大雑把に選びます。
そして、あとはひたすら捨てるだけ。
最初は大まかに、次は少し細かくという具合に捨てていく。
そこで初めて値段を見ます。
そういうことを少なくとも3回か4回繰り返して、
最後に残ったもので数を調整する。
いいものを選ぼうとすれば、捨てていくことなんですね。 |
糸井 |
選んで捨てるときの瞬間的な判断力は、
経験からなんでしょうね。 |
茂登山 |
みなさんが洋服を買ったときも、実際に着てみると、
いい悪いはすぐにわかりますね。
いいものは何回でも着るし、悪いものは一度で着なくなる。
そういうことを何度も繰り返すことで、
富の蓄積は減っていくかもしれないけど、
一方で、美しいもの、いいものに対する感覚という
目に見えない財産は蓄積されます。 |
糸井 |
たしかにお金は減ります(笑)。
でも、鹿島さんじゃないけど、
価値を知るには投資が必要だ。
(つづく) |