この連載の最初に、農学博士・宅野将平さんから
生き物が変化していく仕組みを学びました。
ダーウィンの説いた自然淘汰では
生き物の変化は1万世代くらいかけて起きるのだと。
変化はゆっくりなのです。
でも、ふと思いました。
日本人の体型は急激に変化したではないか!
明治の日本人男性の平均身長は155センチ。
女性は145センチだったそうです。
いまは、男性170センチ、女性158センチ。
それ以上に変化したのがプロポーションです。
戦前の写真を見ると、
頭でっかちで足の短い日本人が多いのに比べ、
いまの若者のスタイルの良いこと!
ガラパゴスに旅するまでもなく、
日本人は、わずか3世代の間に
すさまじい変化を目の当たりにしました。
いったい、何が起きているのでしょう?
生物心理学者の岡ノ谷一夫さんと
お話しているときに、この疑問をぶつけました。
すると、岡ノ谷さんいわく、
「それは、エピジェネティクスというんですよ」
うーん、それは何だ? というわけで、
『エピジェネティクス 新しい生命像をえがく』という
著書がある医師の仲野徹さんにお話を聞きました。
- 仲野徹(なかのとおる)さん
- 大阪大学大学院医学系研究科・生命機能研究科教授。専門は「いろんな細胞がどうやってできてくるのだろうか」学。1957年大阪生まれ。大阪大学医学部卒業後、内科医から研究の道に進んだ。著書に『こわいもの知らずの病理学講義』『(あまり)病気をしない暮らし』『エピジェネティクスーー新しい生命像をえがく』『なかのとおるの生命科学者の伝記を読む』などがある。読書家としても知られ、読書サイトHONZのレビューアーでもある。
この20年くらいで
研究が進んだ
- ——
- 日本人の体はどうしてこんなに
短期間に変わったのか?
今日はその謎に迫りたいと思います。
よろしくお願いします。
- 仲野
- いやいや、
そんなにすっきりとは説明できないですよ(笑)。
- ——
- はい。
まずは、エピジェネティクスとは何か
教えてください。
岩波新書を出されたのは2014年なのに、
その言葉を初めて知りました。
- 仲野
- 知っている人は知っているんですけど、
あまり広くは知られていません。
医者でも知っているのは、どうだろう……
100人に数人くらいですかね。
- ——
- 新しい概念なんですか?
- 仲野
- 概念そのものは60年くらい前から
知られているんですけど、
研究がうんと進んだのは、
この20年くらいですから、
比較的新しいといえると思います。
大切なんだけど、まだあまり
知られていない分野なんですよ。
- ——
- 語源からうかがっていいですか?
- 仲野
- そもそも、発音しにくいですよね。
エピジェネティクス。
広く知られない理由のひとつだと思います。
ともあれ、エピジェネシス(後成説)と
ジェネティクス(遺伝学)をあわせた言葉です。
かつて、精子か卵子の中には子供の「ひな形」が
あると考えられたことがありましたが(前成説)、
いまは、生物は形のないところから
新しくつくられるという
「後成説」であることがわかっています。
その後成説と遺伝学をあわせた言葉です。
- ——
- なるほど。
では、そのエピジェネティクスを
かいつまんで説明していただけますか?
「巻物」に印があると
考える
- 仲野
- 遺伝子はわかりますね。
すごく簡単にいうと、タンパク質を作るための暗号。
遺伝子は1個のヒト細胞の中に2万個強あります。
細胞にはいろんな種類の細胞があります。
そして、神経になる細胞、筋肉になる細胞、
血液になる細胞、など。
一人の人は、
ぜんぶの細胞が同じ遺伝子をもっているけれど、
ある細胞で、
すべてのタンパク質が作られるわけではない。
筋肉では筋肉に必要なタンパク質が作られるし、
血液では血液に必要なタンパク質が作られる。
2万何千個のうち、使われる遺伝子、
すなわち、タンパク質を作る遺伝子と
使われない遺伝子があるわけです。
- ——
- はい。
- 仲野
- 岩波新書の中で使った、たとえ話をします。
2万個の文章がある長い「巻物」を
考えてみてください。
そこに3種類の印をつけていきます。
1.この文章は読みましょう、という付箋。
2.ここは読んではいけません、という付箋。
3.ここは読めません、と伏せ字にするところ。
この印の付け方をいろいろに変えると、
2万個の文章から、いくつもの違う物語ができますね。
- ——
- 具体的に考えますね。
「私はあしたパンを食べたくならない」という文章が、
「私はパンを食べたい」
「あしたを食べたくない」
「私はパン」とか、
「パンを食べた」
「あンた」とか、
いろいろに読めるようなものと考えればいいですか?
- 仲野
- そうです。
巻物にある文章は同じでも、
どこかに付箋を貼ったり伏せ字にしたりすると
違うストーリーができますね。
文章を遺伝子、と書き換えてみてください。
2万何千個かの遺伝子に印がつけられている。
そうやって、細胞によって読み出される情報、
すなわち、つくられるタンパク質が違ってくる。
その付箋や伏せ字といった印、
つまり遺伝子に上書きされた情報がありますよ、
というのが、エピジェネティクスなんです。
けっこう難しいですかね。
- ——
- 難しいです。
でも、文章の一部が隠されたり、
その付箋がはがれて元の文章が現れたりすることで、
違う物語がでてくるというたとえは、
とてもわかりやすいです。
- 仲野
- 考えて考えて、考え抜いて、思いついた。
画期的なたとえなんですよ!
- ——
- 鮮やかだと思います。
- 仲野
- しつこいようですが、
すごい考えたんですよ。
- ——
- もうひとつ、本の中で
へぇ〜〜〜〜と思ったのが、
三毛猫のクローンをつくっても
同じ模様にならないという話。
印のつき方と関係しているというのが驚きでした。
- 仲野
- 三毛猫というのはメスしかいません。
哺乳類の場合、性染色体がXXならメス、
XYの組み合わせでオスになりますね。
詳しい説明ははぶきますが、
ネコの毛の色に関係するある遺伝子が
X染色体の上にだけあるので、
XXでないと、三毛猫になれないんです。
(例外的に生まれるオスの三毛猫は
XXYで、2本のX染色体をもっている)
そして、人間も含めてメスのXX染色体のうち、
1本は受精して間もない、
発生の早い段階で不活性化されます。
つまり、メスの細胞に2本あるX染色体のうち
1本は一生使われないんです。
どちらを活かして、どちらを眠らせておくか
(一本を「伏せ字」にするようなもの)は
ランダムに決まります。
受精した直後に、エピジェネティックな状態が
大きく変わり、
ほとんどの「付箋」や「伏せ字」が
はがれた状態になります。
X染色体も例外ではありません。
そして、さきほど説明したように、
受精卵が細胞分裂する早い段階で
どちらのX染色体をすべて伏せ字にするのか、
ランダムに決まっていきます。
発生の初期にはこういう
「ガラガラポン」があるんです。
なので、三毛猫のクローンをつくっても
元のネコと模様は同じにならないのです。
- ——
- 巻物の付箋がほとんどはがれ落ちて、
もう一度、違うところに付箋が貼られて
違う物語ができていくから、
模様が違ってくる、ということですね。
- 仲野
- そうです。
もともと精子には精子型の付箋や伏せ字、
卵子には卵子型の
付箋や伏せ字がついているわけですが、
受精した瞬間に、体のどの部分にもなれる
細胞に変わるわけです。
これをリプログラミングといいますが、
受精後すぐにこういった印がほとんどはずれて、
神経なら神経細胞型の、筋肉なら筋肉細胞型の
新たな付箋や伏せ字がつけられていくわけです。
- ——
- 生命の神秘ですねえ。
- 仲野
- そうなんです。
受精というのは非常に不思議な現象で、
その神秘性は本当にすごい。
羊のドリー(1996年に生まれた
世界初の哺乳類の体細胞クローン)など
核を移植してつくったクローンは病気がちなんです。
これは移植した核に元々あった
エピジェネティックな印が完全に消えずに
残ってしまったからだと考えられています。
核移植でつくったマウスのクローンは
みんな太っているんです。
印のはずれかたが不十分なせいです。
でも、太ったクローンマウス同士を
交配すると、ふつうのマウスができる。
受精して発生すると、
付箋や伏せ字がちゃんとはずれて
今度は正常に発生するんです。
不思議でしょう?
- ——
- すごい!
わかりやすいので、
付箋と伏せ字のたとえで続けますが、
そういった印がどうやってつくのかは、
わかっているのですか?
- 仲野
- まだ十分に解明されているわけではありません。
ただ、いくつかの面白い現象が知られています。
お母さんのお腹のなかで胎児の栄養状態が悪いと、
その子供は、中年になって
生活習慣病になりやすいことが、
疫学的な研究からわかっています。
子宮の中で栄養が少なかった胎児は、
体が低栄養で生きていくための仕様になる。
つまり、そういう印が遺伝子につけられる。
その子が生まれてからふつうに食べると、
相対的に栄養過剰になって、
生活習慣病になりやすくなると考えられています。
第二次世界大戦の最後の冬、
オランダで起きた飢饉のときに
妊娠中だったお母さんたちから生まれた
子供の追跡調査でも、同じような結果が出ています。
低栄養になっても遺伝子が
突然変異するわけではありません。
おそらくエピジェネティックの状態、
つまり印のつき方が
変わったと考えられているわけです。
しかし、難しいのは、どの細胞のどの遺伝子の印に
おかしなことが起きたかまではわかっていない。
まだ厳密にはわからないんです。
そこがおもしろいんだけど、
わかりにくい理由のひとつでもありますね。
- ——
- 遺伝子のどこかを「読めなく」したり、
付箋をはがして「目覚めさせ」たりすれば、
遺伝子そのものを変えなくてても、
人に変化が起きるとすれば、
たとえば、病気の治療とか、
あるいは運動能力をめざましくあげる
ドーピングのような利用の仕方も
考えられるということですか?
- 仲野
- 可能性はありますね。
次はその話をしましょうか。
(つづく)