宮城県気仙沼の唐桑(からくわ)に住む、
「牡蠣の一代さん」こと
菅野一代(かんのいちよ)さんはこの人です。
2011年11月に「気仙沼のほぼ日」ができて、
宮城県気仙沼市に住む人たちと、
私たちが交流を持つようになってからのこと。
糸井や同僚たちから
「いつかきっと会ったほうがいいよ!」
と、一代さんという人のことを聞くようになりました。
どんな人なんだろう? と思ったまま、ときは過ぎました。
わたくし菅野(すがの)が、一代さんと
はじめて会ったのは、2012年3月。
イベントに参加するお客さんといっしょに乗った
「気仙沼さんま寄席」に向かう、バスの中でした。
一代さんは、この日だけのバスガイドとして、
気仙沼のこと、震災のことを
乗客のみなさんにむかって話しました。
1年半ほど前の話になりますが、そのときの
「バスガイド」としての一代さんの声を
このコンテンツのプロローグとしてお届けします。
「2011年3月11日、ご存知のとおり、
津波が東日本の沿岸部を襲いました。
たくさんの人、大きな財産を、失いました。
思い起こせば、たしかに悔しい。
なにもかも、波に持っていかれました。
なんにも残りませんでした。
でも、命あって、こんなふうに
みなさんとお知り合いになることができました。
私にいま、言えることがあるとすれば、
津波でも地震でも災害でも、
すぐに逃げてくださいということです。
なんでも、命があってのことです。
それがいまの私に言えるただひとつのことです。
震災のあと、
全国からボランティアの人が来てくれて
いろんな人と知り合い、助けられました。
みなさんと会えたことが
地震のあとの、なによりの財産です。
なくしたものよりも、もっともっと
大きいものを得たのだと、私は思っています。
うちは、気仙沼の唐桑というところで
牡蠣の養殖業をやっていましたが、
牡蠣むきナイフ1本残すことなく、流されました。
家は3階建てでした。
3階まで波が押し寄せました。
うちは、おじいちゃんの足が弱かったもんで、
1階部分をリフォームしていて、
コンクリートでできていました。
そのおかげで、1階の外側は残りました。
震災後、学生ボランティアの人たちが、
屋根のあるところに泊まりたいから
家を開放してくれないか?
と言ってきました。
家はほぼ全壊だし、
残った1階も取り壊そうと思っていたんですけど、
役に立つなら、と思って、
みなさんに泊まってもらいました。
そうして、全壊になった家に、
思わずあかりがともることになりました。
家に、あかりがともる。
いちど死んだようになった家に、人がやってくる。
これはほんとうに‥‥うれしかった。
そのひとつの光から、一歩ずつが、はじまりました。
学生ボランティアのみなさんが家にいてくれると、
あちこち片づけてくれるんですよ。
天井をはがしたり、壁をはがしたり、
片づけてくれるっていうか、
壊してくれるっていうか(笑)、
さっぱりとなっていくんです。
さっぱりと、すっごい、きれいになっていくんです。
笑い声も聞こえるようになりました。
壊してしまおうと思っていた我が家だったのですが、
ボランティアのみなさんが帰ったあとも、
残すことはできないかな? と考えるようになりました。
そのとき、被災地の応援ファンドを知りました。
私は牡蠣や帆立の養殖業者なんですけれども、
設備をすべて流されたので、収入はありません。
そこで、応援ファンドの寄付をお願いするため、
東京の新丸の内ビルというところまで行きました。
私はこれまで、
夜中の2時に起きて夕方の6時までびっしり、
牡蠣と帆立の仕事をして、毎日暮らしてきました。
それを25年、続けてきました。
その私が、はじめて東京に行って、
考えられないほどの人数の前で、
緊張しまくって状況を説明して
みなさんに寄付の応援をお願いしました。
養殖業を再開して、自宅を直して、いつか、
牡蠣や帆立、わかめを作っている様子を
みなさんに見てもらって、
自宅に泊まって、味わってほしい。
そういう「体験民泊」のようなおつきあいが
できるようになったら、うれしい。
そういうお願いをしたんです。
11月の末に東京にお願いに行って、
そこからなんと40日間で、
目標の1千万円をご支援いただきました。
ファンドで協力してくださったみなさまには
牡蠣や帆立が獲れたあかつきに、
お送りすることになっています。
震災に遭ってから、ほんとうにいろんな方に助けられ、
たくさんの人たちとおつきあいができました。
気仙沼、唐桑町(からくわちょう)というところ、
盛屋水産という牡蠣帆立の養殖業者です。
もし足を運ばれることがあったら、ぜひ、来てください。
がんばって、みなさんがおいでになる日までに
おいしい牡蠣や帆立が
バンバン獲れている状態にしたいと思っています。
いまはなにもありませんけど、そうしたいと思います。
牡蠣はね、ちょっと、天下一品で(笑)。
すばらしい牡蠣です。
ボヨヨンとした大きな牡蠣で、
自慢じゃないですけど、自慢です(笑)。
これまで、朝から晩まで
牡蠣だけを見てがんばってきましたが、
みなさんにこういうことを申しあげる機会を、
津波のせいで与えられましたので、
亡くなった人たちのぶんまでがんばろうと思います。
悔しい気持ちはあります。でも大丈夫です。
全国からおいでくださるみなさんは、
ほんとうに気を遣ってくださいます。
被災地の人たちとどんなふうに接していいのか、
どこまでバカなことをしていいのか、なんて、
考えてくださいます。
一緒に写真撮りましょう、と言ってもぜったいに
ピースとか、イェー! とか、しません。
だから、いっしょにピースしましょう、って言います。
なぜかというと、被災地に足を運んでもらっただけで、
ほんとに、うれしいからです。
ともに、歩んでいけるということが
どれほどうれしいことか。
被災した人に目をむけるということが
どれほどありがたいことか。
それだけで私たちは勇気づけられます。
東北にただ来て、ふつうに飲んで食べて笑って、
ふつうに接してもらうだけで、
なによりのご支援です。
だからみなさん、これからも、よろしくお願いします。
気仙沼の沿岸では、8割の家が被災しました。
仮設店舗がいたるところにあります。
ぜひ、いろんな仮設店舗を、めぐってほしいです。
ご主人を亡くされた方、娘さんを亡くされた方、
いらっしゃいます。だけど、元気です。
みなさんに足を運んでもらったら、
ますますパワーアップするはずです。
ものを買ってもらわなくてもいいんです。
お店に行ってもらえるだけで、元気になります。
有名なお店もあったし、老舗もありました。
たくさんの商店が海に流されてしまいました。
そういったお店が、プレハブの仮設店舗になって、
でも、目を輝かせて、みんなして
いらっしゃいませ! と言ってます。
みなさんは、ぜひ、◯◯から来ましたよ、
と言ってください。
よその人たちが来てくれるだけで、
すっごいうれしいんですよね。
なんでしょう、それは。わからないです。
でも、ようこそ、ようこそ、という気持ちになるんです。
みなさんに力をもらっていますから、
被災地の人たちは、ほんとうに元気です。
パワーアップしているし、夢がふくらんでいます。
今度はあれをしよう、これをしよう、
これまで牡蠣しか見てなかった自分が、
みなさんと離れたくなくて、
体験民泊しようなんてわけのわからないことを言って
うちの旦那に叱られています(笑)。
『2時に起きて海行って、3時から牡蠣むきして、
そのあと船出して牡蠣あげして
牡蠣をタンクに仕込む夜の6時まで、
いままでどおりにするんだぞ。
夜は夜で、次の日の従業員さんたちの食事も
ぜんぶ準備するんだぞ』
と旦那に釘をさされています。もちろんそれもします。
だけど体験民泊もして、みなさんと交流したいのです。
からだがもつんだろうか? と思いますけど、
いや、ぜんぜん大丈夫。
みなさんにこれだけ応援してもらったのですから。
これまでだって、睡眠時間は4時間くらい。
それでも25年間、平気でやってきました。
いま考えると、なんでやってきたのかな?
それはね、たのしかったからなんです。
実は私、もともと気仙沼の人間ではありません。
岩手県久慈市の山側の街に住んでいて、
銀行に就職して、OLで、お金を数えていました。
私の結婚した人、つまり旦那が、
あるとき船に乗って久慈の港に入ってきました。
そのときの旦那が、カッパ姿だったんですよ。
男らしいというか、すごくカッコよくてね。
顔が二の次で(笑)、私は、カッパ姿に惚れました。
若気の至りだと思います。
会ったのは4〜5回、
そこから3ヶ月もたたないうちに
気仙沼に、いっしょについて来ちゃったんです。
旦那のカッパ姿に惚れて気仙沼に来て。
そして、海の中を見たらすごいきれいでね。
海の仕事について、ぜんぜん知識がなかったから、
最初はえらいところに来ちゃったな、と思いました。
でも、やっぱりね、たのしい。
海の仕事はたのしいです。
見たことあります? 海の中。
この世のものとは思えないですよ。
みなさんにも見てもらいたいです。
私ね、あわびやうにを獲るのも大好きで、
開口の時期になると、水メガネ‥‥って、知ってます?
海の中を見る、専用のメガネあるんですけど、
それを海の中にガバッと入れて
あわびやうにをヒュイッ、ヒュイッと獲るんです。
海の中をのぞくとね、それはもう
竜宮城って感じで、みごとです。
魚もタコも普通に泳いでいます。
海を見て、ひとりでギャーギャー騒ぐもんですから、
『みんな静かに獲っているんだよ!』
って、いつも怒られます。
アイナメ、カレイ、それからハモ、アナゴ。
カニもいます。
いろんな魚が、パッと見ただけで、
わんしゃかわんしゃかいるんですよ。
私が感激したあの海を、
みんなにも見せてあげたい。
あの震災を機会に、と思うしかない。
見せてあげたいのです。
もう、がんばります。
がんばって、おいしい牡蠣を
絶対、みんなに食べさせたい。
ドヤ顔して、すごい食べさせたいの。
それが私の、いまの夢です」
これが、一代さんが1年半前に話してくれたことです。
次回は、その牡蠣を、食べにいきたいと思います。
(明日の「第1回」に、つづきます) |