糸井 |
「やる気を出せ」とか、 「やる気あります!」って 簡単に言い過ぎちゃってる気がするんですよ。 たとえそれで自分の身体や脳を奮い立たせて がんばらせることができたとしても、 いずれ、効かないカンフル剤みたいに なっちゃうだろうなぁと思うんです。 |
池谷 |
そうですね。 同じ「やる気をだす」にしても、 単に「気合いだ!」っていうだけは、 まぁ、実際、そのかぎりにおいては 出るんでしょうけど、 やっぱり短期的なもので、 いずれ枯れてしまう可能性が大きいですよね。 それよりは、身体で「やる気」を迎えに行くような、 生物学的に、より理にかなった 自然なやる気の出し方っていうのを 心がけたいなあと思うんです。 |
糸井 |
「笑顔をつくる」とか、 「やりはじめる」とか、 「身体を心地よくする」とか。 |
池谷 |
はい、まさにそれです。 |
糸井 |
それで思い出したんですけど、 うちの会社のテーマのひとつは、 「あっためる」っていうことなんですよ。 |
池谷 |
「あっためる」? |
糸井 |
もう、心をあっためるっていう大きな意味から、 身体を物理的にあっためるっていうことまで。 ほら、具体的にぼくら、 「ハラマキ」とか売ってるじゃないですか。 |
池谷 |
あ、そうですね。 |
糸井 |
ほかにも、「しょうが」とか、 「手編みのニット」とかね。 もう、あっためることはいいことだっていうのが 会社のテーマになっちゃってるんですよ。 単純に、身体をあっためると、 やっぱり心に作用しますよね。 |
池谷 |
たとえば、こんなおもしろい実験がありますね。 エレベーターのなかで知らぬ人に、 コーヒーを持ってもらうように頼むんです。 そのときホットとアイスのコーヒーの どちらかを持ってもらうんですね。 その後、エレベーターから出てきた人に なかでコーヒーを持っていた人の印象を尋ねると、 なんと、ホットのときのほうがアイスのときよりも、 「穏和で親近感を覚える」という 評価が高いんです(笑)。 |
糸井 |
おもしろーい(笑)。 でも「脳の気持ちになって考えて」みたら、 それは、そうですよね。 あったかいものって、いいもの、やっぱり。 人の印象でさえ、そうなんですから、 実際に身体をあっためたら、 脳もよろこぶと思うんですよ。 ああ、あったかいな、って。 |
池谷 |
ええ、それはほぼ間違いないですね。 だいたい「あたたかい人」という比喩的な表現が 身体性をベースにしてますもんね。 |
糸井 |
そうだよねぇ。 手を握るとか、触れ合うなんていうのも、 きっと同じ方向性にあるよろこびですよね。 |
池谷 |
そうだと思います。 身体の重要性を中心に考えると それはひとつの終着点といってもいい。 |
糸井 |
考えてみると、とくに近代においては、 身体と脳の関係について、 「あんまり仲よくしないように」っていうふうに 教育されてたのかもしれない。 たとえば、仕事や勉強をしていて 眠くなっちゃったときに、 「寝ないためにどうしたらいいだろう」って いろんな工夫をしますよね。 コーヒー飲んだり、ドリンク剤飲んだり。 それって、「もっとやらなきゃ」っていう 脳の判断、知の判断を、身体のシグナルよりも 優先させているっていうことですよね。 |
池谷 |
たしかに近代は知を優先させる傾向がありますね。 でも、脳や知を優先させるのって わりと最近の考え方で、 昔の人は当たり前のように 身体を中心に物事を考えていたと思うんですよね。 |
糸井 |
いつからか精神を優先させることが 過剰に尊いとされるようになって。 「心頭滅却すれば火もまた涼し」 っていうようなことだとかね、 別に、武士道を否定するわけじゃないけど、 「切腹できる人」に対する拍手とかって、 もう、超美意識ですよね。 つまり、知のためには 私は身体を犠牲にできます、ってことでしょ。 昔の心中なんかもそうかもしれない。 愛や忠誠心のためなら、 自分の命さえも犠牲にしてかまわない、 っていうのは、もう、 卓越した知と精神の表現じゃないですか。 それは、物語の表現としては たしかに効果的かもしれないけど、 すごく不自然なことですよね。 |
池谷 |
そうですね。 |
糸井 |
最近は、身体のぐずぐずしたところを 脳や精神で従わせるようなことが、 すごくよいこととして語られたり、 そういうことが書いてある本が たくさん出たりしてますけど、 考えてみると、ちょっとおかしいですよね。 |
池谷 |
そうですね。 身体を精神で従わせる人を 自制心ある人として褒めたりとか。 |
糸井 |
そう、そう。 まぁ、脳も身体なんだから、 完全に分けて考えるのも変なんだけど。 |
池谷 |
脳のはたらきだけを身体とは別の 特別なものとして考えすぎるのは たしかに不自然なことなんです。 だって、生命が誕生してから、 40億年ぐらい経ってると思うんですけど、 脳ができたのって、 たかだか5億年ぐらいのことですからね。 そう考えると、生物の長い歴史の 80パーセント以上は、 脳以前の歴史だったわけです。 |
糸井 |
はーーー、脳以前。 |
池谷 |
要するに、 ぼくらは身体だけでずっと生きてきていて、 ごくごく最近になって、 脳というものをつかってみた。 そしたら、つかい勝手がよかったので、 だから、うっかり脳に頼っちゃった。 |
糸井 |
「うっかり」(笑)。 |
池谷 |
でも、そんな表層的な歴史で、 脳が身体に対して 完全に優位に立つはずがないんですよ。 |
糸井 |
機能的にすごく便利だった、 っていうことだったんでしょうね。 だから、その意味で、 拍手ぐらいはもらっていいにしても、 過剰に上にまつりあげるのも違うと思うんです。 |
池谷 |
うん、そうですね。 実際、最近の脳の研究者は、 身体の重要性に気づきはじめているんです。 というのは、以前の脳の研究は、 身体と切り離したところでデータを とっていることが多いんですね。 麻酔をかけてみたり、試験管の中で実験したり。 でも、脳を研究すればするほど 身体からのフィードバックが必ずあって、 脳って、身体あっての脳だ ということがわかってくるんですよ。 だから、私はいま、できるだけ自然の状態の 脳のデータをとることを強く掲げているんです。 |
糸井 |
なるほど。 でも、マスメディアがもてはやしている 脳の研究というのは、 脳と身体を分けて考えているものが 圧倒的に多いですよね。 |
池谷 |
なんというか、デカルト的な感じに。 |
糸井 |
そうそうそう(笑)。 考えるゆえに‥‥な感じなんですよね。 美しく立派なことを考える人が よい社会を実現させる、みたいな それっぽいロジックが蔓延しつつある。 なんていうか、それ自体が 完全に間違ってるわけじゃないですけど、 人間っていうのは放っとくと ぐずぐずしちゃうのがふつうだと思うんだけど、 そのぐずぐずしたことを抑えて、 よい考えを実現させていきましょうみたいな理屈が 妙に力を持ちはじめているようで。 そりゃちょっと、かなわん、なんです。 |
池谷 |
なるほど。 |
(つづきます) |
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2010-10-07-THU |