第9回 脳は、身体あってのもの。
糸井
「やる気を出せ」とか、
「やる気あります!」って
簡単に言い過ぎちゃってる気がするんですよ。
たとえそれで自分の身体や脳を奮い立たせて
がんばらせることができたとしても、
いずれ、効かないカンフル剤みたいに
なっちゃうだろうなぁと思うんです。
池谷
そうですね。
同じ「やる気をだす」にしても、
単に「気合いだ!」っていうだけは、
まぁ、実際、そのかぎりにおいては
出るんでしょうけど、
やっぱり短期的なもので、
いずれ枯れてしまう可能性が大きいですよね。
それよりは、身体で「やる気」を迎えに行くような、
生物学的に、より理にかなった
自然なやる気の出し方っていうのを
心がけたいなあと思うんです。
糸井
「笑顔をつくる」とか、
「やりはじめる」とか、
「身体を心地よくする」とか。
池谷
はい、まさにそれです。
糸井
それで思い出したんですけど、
うちの会社のテーマのひとつは、
「あっためる」っていうことなんですよ。
池谷
「あっためる」?
糸井
もう、心をあっためるっていう大きな意味から、
身体を物理的にあっためるっていうことまで。
ほら、具体的にぼくら、
「ハラマキ」とか売ってるじゃないですか。
池谷
あ、そうですね。
糸井
ほかにも、「しょうが」とか、
「手編みのニット」とかね。
もう、あっためることはいいことだっていうのが
会社のテーマになっちゃってるんですよ。
単純に、身体をあっためると、
やっぱり心に作用しますよね。
池谷
たとえば、こんなおもしろい実験がありますね。
エレベーターのなかで知らぬ人に、
コーヒーを持ってもらうように頼むんです。
そのときホットとアイスのコーヒーの
どちらかを持ってもらうんですね。
その後、エレベーターから出てきた人に
なかでコーヒーを持っていた人の印象を尋ねると、
なんと、ホットのときのほうがアイスのときよりも、
「穏和で親近感を覚える」という
評価が高いんです(笑)。
糸井
おもしろーい(笑)。
でも「脳の気持ちになって考えて」みたら、
それは、そうですよね。
あったかいものって、いいもの、やっぱり。
人の印象でさえ、そうなんですから、
実際に身体をあっためたら、
脳もよろこぶと思うんですよ。
ああ、あったかいな、って。
池谷
ええ、それはほぼ間違いないですね。
だいたい「あたたかい人」という比喩的な表現が
身体性をベースにしてますもんね。
糸井
そうだよねぇ。
手を握るとか、触れ合うなんていうのも、
きっと同じ方向性にあるよろこびですよね。
池谷
そうだと思います。
身体の重要性を中心に考えると
それはひとつの終着点といってもいい。
糸井
考えてみると、とくに近代においては、
身体と脳の関係について、
「あんまり仲よくしないように」っていうふうに
教育されてたのかもしれない。
たとえば、仕事や勉強をしていて
眠くなっちゃったときに、
「寝ないためにどうしたらいいだろう」って
いろんな工夫をしますよね。
コーヒー飲んだり、ドリンク剤飲んだり。
それって、「もっとやらなきゃ」っていう
脳の判断、知の判断を、身体のシグナルよりも
優先させているっていうことですよね。
池谷
たしかに近代は知を優先させる傾向がありますね。
でも、脳や知を優先させるのって
わりと最近の考え方で、
昔の人は当たり前のように
身体を中心に物事を考えていたと思うんですよね。
糸井
いつからか精神を優先させることが
過剰に尊いとされるようになって。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」
っていうようなことだとかね、
別に、武士道を否定するわけじゃないけど、
「切腹できる人」に対する拍手とかって、
もう、超美意識ですよね。
つまり、知のためには
私は身体を犠牲にできます、ってことでしょ。
昔の心中なんかもそうかもしれない。
愛や忠誠心のためなら、
自分の命さえも犠牲にしてかまわない、
っていうのは、もう、
卓越した知と精神の表現じゃないですか。
それは、物語の表現としては
たしかに効果的かもしれないけど、
すごく不自然なことですよね。
池谷
そうですね。
糸井
最近は、身体のぐずぐずしたところを
脳や精神で従わせるようなことが、
すごくよいこととして語られたり、
そういうことが書いてある本が
たくさん出たりしてますけど、
考えてみると、ちょっとおかしいですよね。
池谷
そうですね。
身体を精神で従わせる人を
自制心ある人として褒めたりとか。
糸井
そう、そう。
まぁ、脳も身体なんだから、
完全に分けて考えるのも変なんだけど。
池谷
脳のはたらきだけを身体とは別の
特別なものとして考えすぎるのは
たしかに不自然なことなんです。
だって、生命が誕生してから、
40億年ぐらい経ってると思うんですけど、
脳ができたのって、
たかだか5億年ぐらいのことですからね。
そう考えると、生物の長い歴史の
80パーセント以上は、
脳以前の歴史だったわけです。
糸井
はーーー、脳以前。
池谷
要するに、
ぼくらは身体だけでずっと生きてきていて、
ごくごく最近になって、
脳というものをつかってみた。
そしたら、つかい勝手がよかったので、
だから、うっかり脳に頼っちゃった。
糸井
「うっかり」(笑)。
池谷
でも、そんな表層的な歴史で、
脳が身体に対して
完全に優位に立つはずがないんですよ。
糸井
機能的にすごく便利だった、
っていうことだったんでしょうね。
だから、その意味で、
拍手ぐらいはもらっていいにしても、
過剰に上にまつりあげるのも違うと思うんです。
池谷
うん、そうですね。
実際、最近の脳の研究者は、
身体の重要性に気づきはじめているんです。
というのは、以前の脳の研究は、
身体と切り離したところでデータを
とっていることが多いんですね。
麻酔をかけてみたり、試験管の中で実験したり。
でも、脳を研究すればするほど
身体からのフィードバックが必ずあって、
脳って、身体あっての脳だ
ということがわかってくるんですよ。
だから、私はいま、できるだけ自然の状態の
脳のデータをとることを強く掲げているんです。
糸井
なるほど。
でも、マスメディアがもてはやしている
脳の研究というのは、
脳と身体を分けて考えているものが
圧倒的に多いですよね。
池谷
なんというか、デカルト的な感じに。
糸井
そうそうそう(笑)。
考えるゆえに‥‥な感じなんですよね。
美しく立派なことを考える人が
よい社会を実現させる、みたいな
それっぽいロジックが蔓延しつつある。
なんていうか、それ自体が
完全に間違ってるわけじゃないですけど、
人間っていうのは放っとくと
ぐずぐずしちゃうのがふつうだと思うんだけど、
そのぐずぐずしたことを抑えて、
よい考えを実現させていきましょうみたいな理屈が
妙に力を持ちはじめているようで。
そりゃちょっと、かなわん、なんです。
池谷
なるほど。
(つづきます)
2010-10-07-THU