糸井 | 「脳」や「知」が、 身体よりもえらいものとして とらえられるようになったのは、 生物の歴史を考えるとつい最近の話なんですね。 |
池谷 | そうですね。 生物の歴史40億年に対して、 脳の歴史は5億年くらいですから。 最後の10パーセントくらいしかないんですよ。 最近の研究によれば、人がことばを 使いはじめたのもわりと最近みたいです。 これは、失語症家系の遺伝子の研究から 少しずつわかってきたことなんですが、 「ことばをつかえるための遺伝子」が 人の遺伝子のなかに現れるのは、 人類が生まれてからしばらく後だったようです。 |
糸井 | つまり、人類には、しばらくのあいだ、 ことばがなかった。 |
池谷 | もしその学説が正しいとすると、 まさに、そういうことになりますね。 その「ことばの遺伝子」を獲得したことで、 たぶん、私たちは、 サルとは決定的に違う存在になったと。 |
糸井 | それまでは、黙ってたのかな。 |
池谷 | あるいは、動物のように鳴いていたか‥‥。 |
糸井 | でも、たぶん、ことばがなかったときも、 人と人とはコミュニケーションをして、 いっしょに生きてたんでしょうね。 |
池谷 | ええ。そのころ、すでに集団をつくってるんです。 それは遺跡とかを調べるとわかるんですね。 でも、いっしょにいて、ことばもなくて、 じゃあ、なにをやってたんだろう、って考えると わくわくするんですよね(笑)。 |
糸井 | いや、それこそが、吉本隆明さんの言う 「ことばの幹と根は沈黙である」 っていうことだと思いますよ。 |
池谷 | ほー、「沈黙」。 |
糸井 | 吉本隆明さんがここ数年、 おっしゃっていることなんです。 そのひと言だけでもう、 ぼくはどれだけ助かったかわかんない。 やっぱりね、 「ものがうまく言える人がえらい」っていうのは 間違っていると思うんです。 それは、戦争中の国であるとか、 ある種の極端な宗教もそうだと思うけど、 けっきょく、うまく言える人が、 うまく言えない人を、奴隷にしてるんですよ。 でも、うまく言えない人が劣ってるのか っていうと、劣ってないわけで。 |
池谷 | うん、うん。 |
糸井 | 昔、アフリカに生まれて、 英語とは別の言語をしゃべっていた人たちが 貶められてしまったりとかね。 ぼくは、コピーライターだったりするから、 自分がことばをつかってるという自覚が もちろんあるんですけど、 自分がことばをうまくつかえばつかうほど、 自分のことばに自分が操られてる、 という面があることがわかってくるんです。 ちょっと違う例でいうと、 たとえば昔の学生運動なんかでね、 A派とB派で、どっちの理論が正しいか、 殴り合い寸前みたいな議論をしているときに、 うまく言える先輩が出てくると、 その人がいるほうが勝ちになっちゃうんですよ。 で、もっとうまく言える人が出てくると 今度はそっちが勝っちゃう。 それっておかしいだろうと思ったんですね。 ほんとは理論の話してるはずだったのに。 |
池谷 | そうですね。 言葉を巧みに扱える能力と、社会的優位って みごとに相関しますものね。 |
糸井 | そうなんです。 だから、たしかにぼくはことばをつかいますけど、 なんとか、ことばをうまくしゃべれない人の 代弁をすることばのつかい手に なりたいって思ってるんです。 |
池谷 | うん、うん、そうですよね。 でも、そういう大切なことをはっきりと言う人って あまりいませんよね。 |
糸井 | できてるかどうかは、わかりませんけど。 とにかく、ことばに引っ張られすぎちゃいけないって しみじみ思うようになったんです。 吉本隆明さんの芸術に対する考え方でいうと、 ストーリーもセリフも、 ほんとうはどうでもいいんだそうです。 つまり、それは枝葉に過ぎないと。 人が感動するのは、ほんとはそこじゃないって おっしゃっているんですね。 あと、先日、お亡くなりになった 多田富雄さんという方は、 晩年、かなり病気が進行してて、 いろんなことがほとんど難しくなった状態でも、 能の舞台を観てぽろぽろ泣いていたそうです。 それはもう、絶対にことばじゃない。 そんなことだらけですよね。 |
池谷 | たしかに、ことばとかセリフで感動してるうちは、 まだ、知的なたのしみでしかないですよね。 |
糸井 | そうなんです。 ほんとに大事なのはその根っこにあるもので、 言い回しとか、セリフなんていうのは、 コミュニケーションにすぎないんですよ。 もっと重要なのは、 コミュニケーションの元にある、 なにかなんですよね。 |
池谷 | はーー。 |
糸井 | とくに、日本語というのは、 表層のコミュニケーションじゃないところに ほんとうに大事なものがありますからね。 たとえば、遠くへ離れていく男の人と、 残される女の人がいて、 見送る女の人がいつまでも手を振ります、 って和歌のなかに詠まれるとき、 ほんとに伝えたいのは 振られている手じゃなくて、 手をいつまでも振ってる理由ですよね。 いつまでも振っているってことを 描写したくなる心ですよね。 |
池谷 | はい、そうですね‥‥。 いや‥‥あの、さっきから、 じつは、ちょっと驚いてます。 いま「コミュニケーションにすぎない」という 表現をつかわれましたよね。 10年くらい前、糸井さんとお会いして、 『海馬』の話をさせていただいたとき、 糸井さん、そういうことは まったくおっしゃらなかったので。 いや、感動しているんです。 |
糸井 | (笑) |
池谷 | 10年前の糸井さんはむしろ、 「大事なのはコミュニケーションだ」って おっしゃってたんです。 |
糸井 | はい。 ぼくは、コミュニケーションを信じてました。 |
池谷 | でも、いま、 「それはコミュニケーションに『すぎない』」 っておっしゃっている。 |
糸井 | うん。 「コミュニケーションにすぎない」って、 いまのぼくは断言しますね。 別な言い方をすれば、コミュニケーションって たしかに大事で便利なものだけど、 「機能にしかすぎない」。 |
池谷 | ああ、私にはその言い方のほうがわかりやすい。 |
糸井 | で、もっというと、 機能としてのコミュニケーションは 「ある価値にしかすぎない」。 価値なんて、ある時期の道徳の一種ですよ。 ある虫のことを、ある時代には益虫といい、 ある時代には害虫というような。 道徳、価値、機能としてのコミュニケーション。 そこにぼくらがどれだけ引きずられてきたか。 |
池谷 | そうなんですよね。 ただ、残念ながら、その枠組なくしては、 私たちの思考がうまくできないというのも、 また一方で事実なんですよね。 |
糸井 | だから、その枠組みを疑わないどころか、 「この枠組みこそが、大事なことだ!」って 言いたくなっちゃうんですよ。 |
池谷 | 言いやすいんですよね。 それを疑わないほうが、エネルギー的にも楽だし、 明快な自己満足感も得られるから。 |
糸井 | 酔うんだろうね。でも、たとえば ことばのコミュニケーションが なにより大切だとすれば、 ことばを獲得する以前の人類のつながりを 認めないことになっちゃうんですよ。 |
池谷 | うん、うん、まさに、そうですね。 |
糸井 | 犬と犬とが狩りをしてるときに、 助け合ったりしてるようなことを、 認めないってことになっちゃう。 あるいは、犬が飼い主をじっと見つめる視線を 「なにも意味してない!」ってことになっちゃう。 同じ犬好きとしてそれは違うって わかるでしょう(笑)? |
池谷 | はい、それはもう(笑)。 あの、私、犬をもう1匹、飼いはじめたんです。 イタリアングレイハウンドっていう犬なんですが。 |
糸井 | ああ、はいはい。 |
池谷 | その犬が、無言で私に伝えてくれることの大きさに 最近気づいているんです。 グレイハウンド系の犬って、 走るとき、馬みたいに走るんです。 「ダブルサスペンションギャロップ」 っていう走り方らしいんですけど。 ふつうに歩くときもですね、こう、足を高く上げて、 タッカタッカと歩くんですよ(笑)。 浮き浮きするような感じで。 あれを見てると、それだけで、 しあわせになるんですよ。 厳密にはコミュニケーションじゃないんだけど、 でも、人を笑顔にさせる雰囲気があるんです。 |
糸井 | いや、それこそが、 ことばの根っこにある「沈黙」の力ですよ。 |
池谷 | そうですね(笑)。 |
糸井 | つまり、陽が昇ってくるのを見るとき、 ことばを持ってない人類も、 「陽が昇ってくる」っていうのを ことばではない、なにかとして感じますよね。 |
池谷 | はい。「うわー!」って。 簡単にいっちゃえば、感動ってやつなんですけど、 でも、そういうことばだけでは 単純にとられきれないなにかですよね。 |
糸井 | そうそう。 それとおんなじようなものが、 ことばを獲得した現代にだって、 もう、そこここにあるんだと思うんです。 だから、「犬が浮き浮き歩いている」のは、 「陽が昇ってくる」ことと同じなんです。 |
池谷 | はい(笑) |
(つづきます) |
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2010-10-08-FRI |