もくじ
第1回「何もしなければ」近い将来なくなってしまうことば 2016-06-02-Thu
第2回日本語のこと 2016-06-02-Thu
第3回与那国語のこと 2016-06-02-Thu

立命館大学の研究員です。琉球のことばの研究をしています。
課題2が、すがすがしいほどのできなさだったので、課題3では、仲間のことばを借りて、お届けします。

私の好きなもの、人間言語の研究

担当・山田真寛

第3回 与那国語のこと

前回は日本語の動詞についてお話ししました。
最終回でやっと与那国語の動詞の話をします。
与那国語の動詞活用は、独時に変化をとげたせいで、
とても複雑になっています。
これまで見た日本語の動詞の分類と同じように分けると、
10個以上のグループに分かれます。
分類グループが多少多くても、動詞全体の数からすれば、
まだ大丈夫、10個くらいは覚えられます。

問題は、別のところにあります。
活用形を一つ一つ覚えているようにしか
見えないのですよ。

与那国語の活用(わかりやすいところ)

与那国語も語根の最後が母音の動詞と、
語根の最後が子音の動詞を持つと分析できます。
また、同じ意味を表す接辞も、
子音で始まるものと、母音で始まるもの二種類があります。


hun(食べる)とmagan(炊く)が、
語根末が母音の動詞、
ngarun(濡れる)とhudurun(育つ)が、
語根末が子音の動詞です。
また「~させる」という意味を表す「使役」の接辞は
-mirunと-amirunの二種類、
「否定」の接辞は-nunと-anunの二種類ですね。

与那国語も日本語と同じように、「子音の連続はだめ」
という一般的な規則が成り立ちます。
なので上の活用表は、日本語と同じように予測できます。

与那国語動詞活用のまとめ

・語根は最後が母音のものと、子音のもの、二種類ある。
・接辞は最初が子音のものと、母音のもの、二種類ある。
・子音の連続はだめ。

与那国語の活用(謎の部分)

が、そうでもない部分があるのです。
語根末の子音がrの動詞が、
「使役」の接辞と組み合わさるときを見てください。


ngarun(濡れる)とhudurun(育つ)は、語根末が子音です。
「子音の連続はだめ」なので、「使役」接辞は母音で始まる
-amirunが選ばれています。
これは先にまとめたことから予測できます。
つまり、活用形を一つ一つ覚える必要は、ありません。
しかしbacirun(忘れる)とkirun(する)は、
そうはいきません。


bacirun(忘れる)とkirun(する)の使役形は、
baci-mirun, ki-mirunとなり、語根末のrが消えています。
これは日本語の語根末がkの動詞に似ていますね。

日本語動詞のまとめ追加部分
・語根末がkの動詞は、
 tで始まる接辞と組み合わさるときに、
 語根末のkが消える。

でも、日本語では「語根末がkの動詞」は「すべて」
「tで始まる接辞」と組み合わさるときに
kが消えていたのに、
与那国語は「語根末がrの動詞」「すべて」の、
rが消えているわけではありません。
ngar-amirunとhudur-amirunではrが消えていません。
さらに、使役の接辞も、否定の接辞も、両方とも
「aで始まる接辞」なので、音に関する規則だけでは、
正しいかたちをつくることができません。

「語根末がirの動詞」だけ、
使役接辞と組み合わせるときに語根末のrが消える、
という規則があると言えるかもしれません。
でも、一般的に人間言語は、
「すぐとなりの音しか見ない」という特徴があるため、
語根末のすぐとなりrのさらにとなりiまで
見なければいけないこの規則は、
ちょっと不思議な規則になってしまいます。

そのような規則が正しいとして、rが消えることを
正しく予測できたとしても、まだだめなのです。
「子音の連続はだめ」という規則が予測するのは、
他の語根末が子音の動詞と同様に、
母音で始まる使役の接辞-amirunが問題なく選ばれ、
baci-amirun, ki-amirunになることなのです。

なので、これらの動詞の獲得には、
以下のことを覚えることが必要です。
・語根末がirの動詞は、
 使役接辞と組み合わさるとき
 語根末のrが消える。
・語根末がirの動詞は、
 使役接辞に
 子音で始まる-mirunを選ぶ。

これで、与那国語の動詞活用が「どうなっているか」は、
正確に記述することができます。
しかし問題は「どうしてそうなっているか」が、
一般的な音の規則だけでは説明できず、
活用形そのものに頼った記述になっていることです。

語根末のrが消えて、さらに子音で始まる使役接辞が
選ばれることは、一般的な音の規則からは予測できません。
bacirun(忘れる)やkirun(する)と
同じグループに属する動詞は、
すべてこのようにして使役形をつくります。
子どもがこれらの動詞の活用を新しく獲得するには、
使役形そのものを聞かなければいけません。
つまり活用形そのものを覚えるしか、
この動詞を獲得する方法がないのです。

活用形を一つ一つ覚えているということは、
認知能力が発達していない小さい子どもが、
言語をものすごい速さで獲得していくという
人間の普遍的な能力のことを、
説明できない可能性があります。

今のところこの分析が正しいかどうか判断することは、
僕はできないと思っています。
もしも、現在与那国語を獲得している子どもが存在すれば、
彼らが、動詞、特に今回見た動詞の使役形を、
大人と同じように使えるようになるのは、
例えば日本語を獲得している子どもに比べて、
ずっと遅い時期である可能性があります。
一般的な規則で作ることができず、
一つ一つ覚えないといけないことだから、
覚えるまでは出ない可能性があります。

この観察は、与那国語の動詞が、
活用形を一つ一つ覚えることで獲得されていることを
支持する観察になり得ます。
逆に、与那国語を獲得している子どもが、
日本語を獲得している子どもと同じくらいの速さで、
すんなりこれらの動詞を大人と同じように使っていれば、
ここで見た分析が間違っていることを
証明できる可能性があります。

現在は日常的に与那国語を使っているのは、
おじいさん、おばあさんだけで、
子どもたちは、日本語しか話しません。
もし与那国語が復興していって、
子どもたちに母語として獲得されれば、
今回見たような謎が解ける可能性があります。

僕は言語の多様性も、言語が支える文化も、
島の人のアイデンティティも大切だと思っていますが、
やっぱりこういう人間言語の謎に関わるような、
言語の分析もしたいんだなあと思います。

(おわります。)