2011年3月11日。地震は発生した。
ぼくは、神奈川県の高校を卒業し、
大学生になる準備をしていた。
ぼくの父は、仕事が休みの土日になると
毎週のように福島へ足を運んでいた。
父の実家は、南相馬市は、
震災直後、避難区域に設定された。
幸いなことに、父の家族は全員無事だった。
そして、父の家族は福島県白河市に避難した。
2011年の冬に白河市へ向かった。
震災後、はじめて父の家族と会った。
いつもと会う場所は違うものの、
いつも通り出迎えてくれた。
避難先の家には日本赤十字社から支給された
洗濯機や電子レンジなどの家電が置いてあった。
支援金は、当たり前だが、
しっかりと被災者へ届いているということを実感した。
この日の夜は、いつも通り、家族で食卓を囲んだ。
大晦日だったので、紅白歌合戦を見ながら、
ぼくの大学生活の様子だとか、
ぼくの兄の、社会人で大変だった話とか、
おばあちゃんの昔話だとか、
親戚のあの人が結婚しただとか、
いろいろな話をした。
でも、やはり、このときの話題は震災の話題が多かった。
義父が撮影していた津波の映像を見たりした。
浪江市でパン屋をしていた父の友人が
避難先の離島で再びパン屋を開いたそうだ。
避難所で生活している人は、当然だが、つらそうだ。
そんな、避難の現状を聞いた。
それと、このときの食卓で、
わたしの唯一のいとこに初めて会った。
ぼくが19歳で、いとこのめぐみちゃんは4歳だった。
今までぼくが歳の離れた小さい子と
遊ぶことはほとんどなかった。
親戚にも、小さい子どもがほとんどいなかったからだ。
はじめて、ぼくは親の前で小さい子と遊んだ。
小さい子を遊んでいるのを
親に見られるのがちょっぴり気恥ずかしかった。
とにかく元気がいっぱいで、
ぼくと、ぼくの兄が悪の組織となって
「たたかいごっこ」を永遠とやっていた。
「たたかいごっこ」を親の前で全力でやらなければいけない
というのがこんなにもむず痒いものだとは思わなかった。
でも、なんだか親がいい表情をしていたので、
それはそれで、よかったのかなと思う。
食卓を囲みながら家族で盛り上がるのは、
変わらない日常だった。
結局、2011年は南相馬市の避難地域指定が解除されず、
実家に行くことすらできなかった。
(続きます)