それからは、
ゆっくりと変わり続けていく南相馬市を見続けていた。
少しづつ、状況は変化していった。
瓦礫は少しづつ、無くなっていった。
海のようになってしまった田んぼも、陸地に戻った。
新しい電柱が設置されて、実家にも電気が届いた。
田んぼたった土地は、
新しく作られた消波ブロックが
ずらりと並べられていたり、
たくさんの重機が並んでいたりと、
復興のための土地として利用されている。
復興に向けて動いている人たちのおかげで、
ゆっくりとではあるが、
生活ができるような環境に戻りつつあった。
そして、2015年の夏。
南相馬市は、避難指示解除準備区域となっていた。
住民の一時帰宅ができる状況だった。
そして、南相馬市にあるぼくたちの実家で、
家族や親戚と食卓を囲むことになった。
実に、5年振りである。
震災当時、高校生だったぼくは、
社会人になっている。
そのぐらいの年月が空いてしまった。
ぼくらの家族はお盆休みを利用して
父の実家へ帰ることになった。
東京から車で向かった。
常磐高速道路は復旧し、移動時間は震災前と同じになった。
常磐自動車道では、放射線量の計測がされている。
この数値が目に見えるということに、
しっかりと意味はあると思う。
実家に到着すると、
先に到着していた父親の家族が迎えてくれた。
2012年と比べると、実家の周囲には、
人工物がとても増えたという印象を持った。
立ち入りが許されていない場所もあるが、
そこには、仕事をしている人たちがいる。
復興に向けて仕事をする家族と話していて、
そういう考えをするようになった。
お昼過ぎに到着したので、
ぼくはゆっくりと過ごすことにした。
海まで散歩をしたり、
縁側でお昼寝をしたり、
庭で育てている花の写真を撮ったり。
幼いころのようにボウリングに行きたいだとか、
海で泳ぎたいと喚き散らすことはなくなったけれど、
南相馬市での日常を楽しんでいた。
夕方になり、家族や親戚が揃って
リビングでまったりとお茶と啜りながら
テレビで甲子園を見ていたら、
お漬物や大きなお皿に乗ったおつまみが並び始め、
冷蔵庫でキンキンに冷やしたビールを取り出し、
いつも通りその食卓は始まった。
この日は、ぼくが初めて実家で酒を飲んだ。
父の血を強めに受け継いだのか、
酒はそこそこ強い方だった。
父が育った南相馬市にある家で、
家族で揃って酒を飲むことができるようになったことが、
本当に、よかったと思う。
調子に乗って気持よく酒を飲んでいたら、
いつの間にか布団に横たわっていた。
そのせいで、肝心な会話の内容をあまり覚えていなかった。
でも、たのしい食卓だったことは、覚えている。
これも、いつも通りの日常だ。
実家の周りの環境は大きく変わってしまったけれど、
実家の中は、いつも通りの日常風景が広がっていた。
せめて、津波が来なければだとか、
福島第一原子力発電所の事故がなければだとか、
思うことは、いくらでもある。
父の家族と話をしていても、
とても我慢をしていると感じることがある。
息子であるわたしにははっきりとは言わないが、
それでも、滲み出ているものは、感じ取れてしまう。
「元通り」の土地になるのは、正直に言って、難しいと思う。
あの田んぼが広がる風景に戻すというのは
どれだけ先になるかわからないし、
田んぼに戻すというのが正しいのかもわからない。
未だに人が住むことができない地域もある。
そういった現実も、まだまだ存在する。
そのうえで、2011年から、
希望へ向けて数多くの人たちが活動を続けている。
元の風景に戻すことが正しいのか、
それとも新しい道へ向けて歩き出すのが正しいのか、
福島について数多くの意思と意見がある中で、
希望に向けて歩き続けている人たちがいる。
その人たちのおかげで、
南相馬市にある実家で家族のみんなで
食卓を囲むいつも通りの日常を、
再び、迎えることができたという事実がある。
おこがましいのかもしれないですが、
福島県南相馬市出身の父を持つ私として、
ほぼ日の塾という場所をお借りして、
感謝の言葉を言わせてください。
本当に、ありがとうございます。
2016年7月12日午前0時をもって
南相馬市内の居住制限区域及び避難指示解除準備区域が
解除されることになった。
電気やガス、水道などの日常に必要なインフラと、
医療や郵便などの生活関連サービスが、
概ね復旧することになる。
これからは、実家で食卓を囲むだけではなく、
生活をすることができるようになった。
そして、子どもの生活環境を中心とする
除染作業が十分に進捗したということだ。
安心して、子どもたちが
南相馬市へ行くことができるようになった。
まだまだ傷跡が深い部分もある。
人が生活できるような場所になっても、
そこに住んでいた人が簡単に戻ってこれるわけでもない。
それでも、元に戻せる部分は、元に戻りつつある。
希望へ向けて、着実に、進んでいる。
おわりに、この文章を書きながら、
これからわたしはどうしたいのかということについて考えていた。
我が家の庭には、
家族が育てている綺麗な花がたくさん咲いている。
いつか、ぼくの子どもが色とりどりの花に
囲まれている姿を見ることができたら、
とても幸せな気持ちになれると思う。
家族がそれを喜んでくれたら、もっとうれしい。
そして、ぼくの子どもと、みんなでいっしょに、
南相馬市で食卓を囲みたい。
できれば、酒に強い子どもだったら嬉しいな。
そのときを目指して、しっかりと仕事をしよう。
しっかりとした家庭を持てるようにしよう。
23歳のぼくには、近いような、遠いような夢であるけれど、
地に足をつけて歩いていけば、たどり着けるはずだ。
その夢に向かって、歩いていこう。
私信のような文章になってしまい、失礼しました。
この文章を最後まで書くことができて、よかったです。
そして、最後までご覧頂き、ありがとうござました。
2016年6月 佐藤健太郎