もくじ
第1回南相馬市に住む家族と食卓を囲む。 2016-06-28-Tue
第2回避難先での食卓。 2016-06-28-Tue
第3回震災後、はじめて南相馬市へ。 2016-06-28-Tue
第4回再び、南相馬市で食卓を囲む。 2016-06-28-Tue

カメラマン、映像制作をやっています。23歳です。人が喜んでもらえるコンテンツを作ることが好きです。

第3回 震災後、はじめて南相馬市へ。

ぼくが震災後に初めて父の実家に行ったのは2012年の春だった。
移住制限区域となり、住民の一時的な帰宅が可能になった。

今までは福島県を通る常磐高速道路を利用すれば
東京から実家まで約4時間で行くことができた。
しかし、このときは常磐高速道路が通行止めで、
回り道をしなければならず約8時間かかった。
実家まで行くのに2倍の時間が掛かってしまった。

海の近くである実家へ近づくにつれて
津波の被害が酷くなっていった。

見渡す限り田んぼだった場所は
海のようになってしまっていた。

海沿いでは陸地に溜まった海水を
海へと抜き出すポンプが稼働していた。
ただ、海のようになってしまった陸地があまりに広すぎて、
このポンプでいつになったら水が抜けきるのだろうと
思ってしまうぐらいには風景が変わっていた。

道端には、自動販売機の残骸があった。
たしかに、その場所には自動販売機があった。
その自動販売機で飲み物を買っていた。

道端には、野球ボールも落ちていた。
実家からほど近い海沿いの野球グラウンドで、
義父が草野球をやっているのを見ていた。

子どもの頃に遊んでいた「ナミエボウル」も、
荒れ果てていた。

「そこに日常があった」ということを知っているわたしは、
この光景を見てしまうと、どうしても、
悲観してしまった。

そして、ぼくらが乗った車は父の実家に到着した。

地震の影響で瓦屋根や内装が崩れていたものの、
幸いなことに津波の被害はなく、
修理をすれば元に戻る被害だった。

そして、実家の玄関を開けた。
部屋の中も倒れた日用品などは
すでに父親の家族が整理をしていたので、
物が散乱している状態というわけでもなかった。

ただ、ぼくは違和感を覚えた。
その原因は、生活感がまったくない部屋に
なってしまっていたからだと思う。

いつもは父の家族や親戚が集まり、
みんなでテレビを見たり、食卓を囲んだり、
当たり前のように生活をしていた。

人が生活をしなくなった部屋は、
ホコリが溜まって、気配がなくて、
虚無感のようなものがあった。

家の庭も荒れ放題だった。
まるで、自然に帰ってしまったかのようだった。
このまま、この家が放置されてしまうと、
自然の一部になってしまうのではないかと思ってしまった。

それぐらい、強烈な印象を持ってしまった。

しかし、この思いは、時が経つにつれて、次第に薄れていく。

ぼくは南相馬市へ通い続けている。
そうすると、ゆっくりとではあるが、町に人の手が入り始めてきた。

(続きます)

第4回 再び、南相馬市で食卓を囲む。