もくじ
第1回20歳の武蔵境の夜 2017-04-18-Tue
第2回アメリカと日本の二重生活 2017-04-18-Tue
第3回日本嫌いの日本留学 2017-04-18-Tue
第4回100%な生き方しかできない 2017-04-18-Tue
第5回武蔵境へ行く 2017-04-18-Tue

ここ3年ほど、毎日飽きずにバタートーストに魅了されています。日本に住んで3年、どうやらそのことに関係があるらしい。ロサンゼルスから来ました。よろしくお願いします。

わたしの好きなもの</br>武蔵境

わたしの好きなもの
武蔵境

担当・ユウキ

第2回 アメリカと日本の二重生活

20歳の夏、
私は「交換留学生」として
カリフォルニア大学から
ひとり日本に来ていた。

4歳からロスアンゼルスで育った私は、
外見と名前は日本人でありながらも、
考え方や価値観は「アメリカ人」になっていた。

祖母もそれを感じていたのだろうか。

子供の頃、私と弟ふたりが
母親に連れられて武蔵境を訪れるのは
夏休みか冬休み限定で、
祖父母にも数えるほどしか会ったことがなかった。

LAからも時々手紙を(親に促されて)書いていたし、
祖父が元気な頃は、ふたりで年に一度、
アメリカに遊びに来てくれていた。

子供の目に、
背が高くてメガネをかけた祖母は知的で
少し神経質そうに映り、
背は祖母より低いけれどシャープな顔立ちで
口数の少ない祖父は、目の優しい人だった。

ふたりは日本で小学校の教員をしていた。
当時、先生という仕事は「聖職」
と呼ばれていたことを母から聞いた。

裕福な家の育ちでなかった祖母は、
幼い頃の病気で片目が不自由となり、
でもそのような素振りを見せずに、
専門学校へ通って教員免許を手に入れた。

同郷の祖父と結婚し、
母が小学校低学年の時に上京した。

高円寺のワンルームのアパートで
親子三人暮らして数年、
ようやく武蔵境に家を建てることが
できたとのこと。

祖母は「一生懸命」を絵に描いたような人で、
生徒や親御さんの信頼は厚く、
時々「田舎の学生」を家に集めて
料理を振る舞ったそう。

祖母の一生懸命は、そのまま、
孫の私たちにも向けられた。

日本の学校を知らない
私や弟は、武蔵境の家に行くと、
「お箸の持ちかた」
「鉛筆の持ちかた」
「雑巾の絞りかた」
「テーブルに肘を置かない」
「本の並べ方」
「掃除機のかけ方(畳の目に沿って)」
「靴の並べ方」
「洗濯物の干し方」
「階段は静かに」
と教わった。

どんな動きをしても、
何かしら注意されていた記憶がある。

数年に一度訪れる武蔵境は「緊張」の場所であり、
「ルールの多い」ところであり、
「毎朝4時に牛乳屋さんが瓶の牛乳を届けてくれる」町だった。


(牛乳ボックス。使用済みの牛乳瓶はキレイに洗って表に出すよう、
祖母に教えられた。ただし、
水道の水を長く出しすぎると注意された)

すべてが正確で、
誰もが真面目で、
朝が早い町だった。

アメリカでは、鉛筆の持ち方を教えられることはない。
学校に「掃除の時間」はなく、
雑巾を絞る練習もしない。
鉛筆は「書けるように」持ち、
雑巾やタオルは「水が垂れないところまで」絞る。

母はよく、
「日本とアメリカの教育を足して2で割ったらちょうどいい」
と話していたが、
私たちは「日本の教育」が何かを知ることもなく
どんどんアメリカナイズされて行った。

南カリフォルニアの太陽の下で
真っ黒に日焼けし、
サッカーの練習後はりんごをひとり一個、
丸かじりした。

りんごの皮を綺麗に剥く
祖父母から見たら
私たちはだらしなく映ったのだろう。
武蔵境の家では、いつも叱られていた。

母は母で、そんな親の厳しさに反発していた。
自分が鍵っ子だったため、
子育てでもっとも大切にしたことは、
鉛筆の持ち方よりも
「子供たちが帰ってきた時に家で迎えること」
だったと言う。

英語が話せなくても、たくさん笑い、
たくさんコミュニケーションを取る家、
つまり武蔵境と正反対の環境がLAで作られていった。

「日本」を押し付けず、目の前のアメリカ生活を重視する。
それが両親の方針だった。

こうして、私の中で「日本」と「アメリカ」のふたつの
世界が存在するようになった。

(つづきます)

第3回 日本嫌いの日本留学