もくじ
第1回20歳の武蔵境の夜 2017-04-18-Tue
第2回アメリカと日本の二重生活 2017-04-18-Tue
第3回日本嫌いの日本留学 2017-04-18-Tue
第4回100%な生き方しかできない 2017-04-18-Tue
第5回武蔵境へ行く 2017-04-18-Tue

ここ3年ほど、毎日飽きずにバタートーストに魅了されています。日本に住んで3年、どうやらそのことに関係があるらしい。ロサンゼルスから来ました。よろしくお願いします。

わたしの好きなもの</br>武蔵境

わたしの好きなもの
武蔵境

担当・ユウキ

第3回 日本嫌いの日本留学

私にとっての二重生活は、
まず「言葉」から始まった。

外では英語、家では日本語の生活を
アメリカの友人には隠していた。

もともと激しく人見知りする私は、
学校で目立つことを恐れていた。
カメレオンのように、
アメリカンスクールでは完全にアメリカンな子供となった。
喋り方、立ち方、座り方、食べ方、
全てにおいてまわりに溶け込んでいった。

英語を話す時の自分は、
活発で声が通って、アウトドア大好き。
日本語になると、言動がひとまわり小さくなり、
性格までおとなしくなるように思えた。

当初のアメリカは「sushi」も「manga」も流行る前で、
「Yuki」という名前は「Sarah」と「Jennifer」と並ぶと
少しエスニックすぎた。

ロスアンゼルスは多人種な街だが、
当時は「移民」という言葉は声を大にして言うものではなく、
「英語以外で話すのは時代遅れ」と感じさせる迫力があった。

英語だけ話していられたら、毎日が平和に進む。
そんな私にとって「日本」は厄介な存在だった。

時々訪れる日本では、「まぁ、真っ黒ね!」と驚かれ、
街を歩く少女たちより体が大きな自分を意識し、
ラブリーなワンピースは照れくさくて着られず、
耳にあけたピアスを髪で隠そうとした。

弟たちと英語で話していると、
「日本にいるんだから日本語で話しなさい」と祖母に言われ、
私たちは黙った。
日本語で話を続けるボキャブラリーがなかった。

でも、武蔵境は面白かった。
アメリカの友人たちが想像もできない世界があった。

アニメやドラマ、アイドル雑誌や漫画、
武蔵境の「すきっぷ通り」という商店街を歩くときの
パチンコ店の開店前の行列や、正体のわからないお店。
まるでテーマパークだった。

でも、心の中でアメリカと日本がひとつになることは
なかった。

日本のことは、アメリカでは話さない。
「カメレオン」を貫いていた。

アメリカで暮らし始めて16年が経ち、
大学3年の時に私は突然「日本に留学する」
と言って周りを驚かせた。

それまで「日本嫌い」で通していたため、
周りもすっかりそう信じるようになっていた。

一番驚いたのは、親だった。

アメリカ生活を受け入れ、
日本的な要素を押し付けることのなかった両親は、
「日本語」に関してだけは厳しかった。

小学校の頃から、
丘の上の「日本語学校」への週2の送り迎えを欠かさず
(弟と交互だったので、実際には週4だった)
毎週の漢字の勉強に根気よく付き合った。
「家では日本語!」と繰り返し言い、
日本語に触れる機会になればと
漫画を読むことも許した。

アメリカの親は、
子供に習い事を押し付けることをせず
子供の意思を尊重する傾向が強い。
両親も基本的にはそのようなスタンスを取った。

しかし、押し付けだろうがなんだろうが
「日本語」に関してだけは譲らなかった。

子供は言葉を覚えるのも早いけれど、
使わなければ忘れるのも早い。

スポーツや音楽のように
上達を楽しめるわけではなく、
発表の場も賞もトロフィーもない
「言葉」をひたすら続けさせるのは、
相当の覚悟が必要に思える。

実際に、いや〜大変だった、と親は言う。

だがそんなこと、ティーネイジャーの私は
知ったことではなかった。

アメリカ人と同じ生活がしたいのに、
将来もアメリカで暮らすのに、
日本語を学ぶ意味がない、と。
現地校が終わってから向かう車の中は
毎回大喧嘩だった。

“I hate Japanese school!”
私の日本嫌いは相当なものに育っていた。

それがある日、
「日本に行ってみようかな」と言い出したのだ。
その動機について、考えてみた。

第一志望だったUCLAに落ちて、
通い始めた大学がつまらなかった、ということもある。

その大学で突然アジア系アメリカ人に囲まれ、
日本について何も知らない自分に気づいた、
ということもある。

大学に入ってすぐ、日本の祖父が69歳の若さで
亡くなったということもあった。

「日本に住めるのは今しかないかもしれない。
おばあちゃんが生きているうちに行こう」
そう思って応募した。

私は希望を持っていた。
あの頃とは違って、もう子供ではない。
祖母は怖い存在ではなく、
大人同士、語り合えるはずだ。

でも武蔵境に着いて数週間で、言われたのだ。

「日本人と結婚しなさい。アメリカ人はダメ」と。

(つづきます)

第4回 100%な生き方しかできない