もくじ
第1回20歳の武蔵境の夜 2017-04-18-Tue
第2回アメリカと日本の二重生活 2017-04-18-Tue
第3回日本嫌いの日本留学 2017-04-18-Tue
第4回100%な生き方しかできない 2017-04-18-Tue
第5回武蔵境へ行く 2017-04-18-Tue

ここ3年ほど、毎日飽きずにバタートーストに魅了されています。日本に住んで3年、どうやらそのことに関係があるらしい。ロサンゼルスから来ました。よろしくお願いします。

わたしの好きなもの</br>武蔵境

わたしの好きなもの
武蔵境

担当・ユウキ

第4回 100%な生き方しかできない

祖母にそのつもりはなくても、アメリカを、
そして私を否定されたという気持ちは消えなかった。
祖母とわかりあえるかもしれない、という希望も消えた。

「そんなに簡単に言う…?」

祖母とはそれから分かり合えて、
「誰と結婚しようとユウキが幸せならおばあちゃんは嬉しい」
と言われることは…
結局なかった。

東京での6週間の講習が終わると、
私はいよいよ本格的な留学生活を始めるため、
京都へ移った。

京都の大学に通うことは、
カリフォルニア大学に指定されていた。

私はそこから毎週のように、
祖母にハガキを送った。
大したことが書かれていないことは
「毎週送った」ことから想像がつくと思う。

東京で寂しくしている祖母に
ひとつでも「楽しみ」を作りたかった。

あの1年ほど「武蔵境」という漢字を書いたことは、
後にも先にもない。
「蔵」を書き上げるたびに、妙に心が躍った。
難しい漢字が書けると、今でも達成感に溢れる。

「お手紙届いたよ。ありがとうね」と
祖母は毎回の電話で言った。
それ以外に話すことはあまりなかったが、
どうにか祖母と「つながりたい」という思いは強かった。

アメリカの友人たちはみな近くに祖父母や親戚がいて、
週末、誕生日、夏休みなど、しょっちゅう行き来していた。

私たちは家族五人だけで、
サンクスギビング(感謝祭)もクリスマスも家族五人。
お正月も家族五人。
家族は仲が良かったが、
「盛大な集まり」はできなかった。

一年の留学が終わり、
京都のアパートを引き上げるとき、
アメリカから母と弟たちが遊びに来て、
祖母を連れて
祖父母の田舎、高松まで車で回った。

そのときに運転を引き受けてくださったのが、
祖母の小学校の教え子の一人だった。
その「教え子」は50歳を過ぎていたように思う。

車内で起こる母と祖母の言い合いを
「まあまあ、先生。
ケイコちゃん(母)ももう3人の子供の親なんだから」
と言って止めてくれた。

家族以外の言葉には、大変素直な祖母だった。

その頃のことが聞きたくて、
先日、ロスアンゼルスの母に電話をかけた。

「とにかく学校では一生懸命だったと思うよ。
何事にも100%な人だった」と母。

教師の娘として窮屈な思いをして育った母は、
祖母とは性格がまるで正反対で、楽観的で明るくて、
よく喋ってよく笑う人だ。

祖母に会いに、年に何度も日本へ帰り、
生真面目な祖母を笑わせようとして、
時々成功した。

祖母が亡くなったのはそれから7年後。

あの夜交わした「結婚」の会話は、
二度と触れられることはなかった。

(つづきます)

第5回 武蔵境へ行く