誰も泣かない、誰も焦らない、誰も声を荒げない、
そんな「予告編」を思い浮かべられますか。
本編の中からカットを抜いて作るのが「予告編」。
怒涛の勢いで流れるカットに、
いわゆる「地味」なものはあまり見かけません。
それもそのはずです。
本編の1/40にも満たないような、とてつもなく短い時間の
中で、何とか魅力を最大限に引き出す必要があります。
「予告編」に、いっときの余裕もありません。
短い時間に良いカットが次々と出てくるので、
本編にはもっと素晴らしいカットがあるのでは、と
観客は期待せざるを得なくなってしまいます。
とはいえ、本編の数だけ存在するのが「予告編」。
よく探せば、何の爆発も殺人も起きない、
平和な場面だけを集めた「予告編」も出てきます。
それらを見て「面白くない」と決めつける友人もいました。
もったいない。勿体無い。モッタイナイ。
つまらない場面を集める映画予告なんてありません。
何らかの意図で束ねられたカットの集合体が「予告編」。
「予告編」は、作り手の熱意あふれる「お手紙」ですから。
先ほど「地味」という言葉を使ってしまいましたが、
語弊が生じてしまうかもしれません。
「つまらない」と「地味」は全くの別物です。
よく見られるような日常の「地味」な場面であっても、
背景が美しかったり、その後の展開につながるような
会話が繰り広げられていたりします。
その良い例としてあげられるのが『君の名は。』予告編。
まるで「俺が主役だ」と言わんばかりに大爆音で流れだす
『前前前世』を尻目に、日常的な場面しか映りません。
(もちろん、主人公たちが入れ替わる「非日常」を除いて)
しかし、これらは「つまらない」場面ではありません。
主人公たちが歩いたり、話したりしている時
後ろにある自然、いわゆる日本的な風景。
それも『君の名は。』という作品の立派な魅力です。
ちなみに『君の名は』の「予告編」は二本ありますが、
先ほどご紹介した方では、入れ替わった二人に
何が起こるか、その欠片さえ明らかにされていません。
実は、二人が違う時間軸にいる事実、
流星群が主人公の片方が住む場所を襲ったり、歴史を変えようと奮闘したりする「山場」であろう場面は入っていません。
これは、ある種の大胆な賭けとも言えるでしょう。
「二人の心と体が入れ替わったヨ」「風景が綺麗だヨ」
これらの要素だけで、予告が十分成り立つだろう?
主人公の涙の理由を知りたくなるだろう?
そんな「挑戦」の心意気が表れているのです。
この心意気が伝わってきて、見ていてビリビリしびれます。
正直、本編の何倍もゾクゾクしました。
むしろ、特別でないように見える「予告編」こそ、
姿勢を正して見るべきかもしれません。
何十、何百時間という莫大な時間をかけて制作した映像、
その中から採用されたカットをつないだ約二時間の本編。
その本編の、いいカットだけが凝縮される「予告編」。
「お手紙」としての映画予告は、
ラブレターでもあり、果たし状でもあり、
直球ど真ん中ストライクの「メッセージ」なのです。
(つづきます)