もくじ
第1回予告編には「おいしいところ」しかない。 2017-11-07-Tue
第2回予告編は「三分間の詐欺師」になれる。 2017-11-07-Tue
第3回予告編は「最高の編集力」を要する。 2017-11-07-Tue

書く人。
ウェブコラムや広告記事の他に、趣味で「付き合って5年目の彼氏と別れた後悔」を前向きに綴っています。

映画は「予告編」こそ面白い。

映画は「予告編」こそ面白い。

担当・花輪えみ

第2回 予告編は「三分間の詐欺師」になれる。

話題作と言われる映画作品の中には、
「え、全然おもしろくなかった」
「思ったのと違かった」
といった批判的な声が聞こえるものもあります。

前回『君の名は。』をご紹介しましたが、
本音を言えば、私は期待が空回りしてしまいました。

映画館に足を運んだ人を期待させたのは誰か、
おそらくSNSの書き込みや口コミ、
そして「予告編」の働きではないかと思います。

太平洋戦争前から映画予告制作に携わってきた
佐々木徹雄という偉大な人がいます。
その方は、ジョン・フォード監督作品『駅馬車』の予告編に
ついて、こう語っています。


『三分間の詐欺師』より、佐々木徹雄
(写真撮影:河野裕昭)

「この作品は予告篇の印象も強く残っています。
胸踊らされるシーンの連続で、この映画は何としても見たい、
と思わせるような予告編でした。」
−−佐々木徹雄『三分間の詐欺師 予告篇人生』(現代書館)

ちなみに、その予告編がこちら。

印象に残る場面を伝え、「本編を見たい」と思わせること。
それこそが「予告篇」の大きな役割だとわかります。

役割を果たすには、観客の興味を引かなければなりません。
その瞬間「予告編」は詐欺師と変貌するのです。

例えば、ディズニーのプリンセス映画。
日本における「お姫さま」のイメージは優しく美しいもの。
そのイメージに合わせて「予告編」も作成されます。

ディズニー映画『モアナと伝説の海』に登場するお姫さまは
古い言い伝えに従い、命がけの冒険に出かけます。

日本版予告の中で、
主人公が険しい表情を見せたのはほんの一瞬。その他は、
祖母と話したり、笑顔で海と戯れたりする場面ばかり。

その結果、予想よりガッツのある「戦うプリンセス」を
目にした観客からは「思ったよりもプリンセスが怖かった」
という感想が漏れ出たそうです。

国がもつ文化やイメージによる切り取り方の違いも、
「予告編」をより興味深いものに仕立て上げます。

また、本編が良い作品であればあるほど
良い「予告編」制作の難易度は上がると思います。

いい作品というものは、上映時間が二時間あれば、
その二時間で無駄のない起承転結があり完結しています。
切ったり貼ったり、どこかをクローズアップしたりする、
広告としての構成立ては大変なものです。

近年稀に見る駄作であっても、映画予告が素晴らしければ
観客動員数は増えます。
どんなに優れた良作であっても、映画予告がスベれば
そこそこの結果で消えてしまいます。

本編の生死が「予告編」にかかっていると言っても
過言ではないかもしれません。

本編の出来がどうであろうと、
予告の時点で「続きを見たい」と感情が動かないならば、
その映画予告は、決していい出来ではない。

これこそが「予告編」のプライド。
本編を支え、時には観客をも欺かなければならない立場の
石くれのプライドです。

そのプライドのためなら、ありとあらゆる手段を使います。
『シティ・オブ・エンジェル』の予告に使われた音楽は、
本編では一度もかからない音楽でした。
あまりに素敵なイメージソングだったため、
問い合わせが殺到したそうです。

映像を通して「見に行きたい」と思わせたら、
世間の口端に上る「話題」の中心となれば、
「予告編」の作り手として満点といえます。

そういう理由で、私は駄作の映画に出会った時、
「裏切られた!」と、嬉しくなります。
その後、家に帰ってからの「予告編の見直し」が
心の底から大好きなのです。

(つづきます)

第3回 予告編は「最高の編集力」を要する。