母と話したのが最近おすすめだと言う焼肉店だったのだが、
ふたりで焼肉なんて生まれて初めてだ。
肉がジュージューと焼ける音が、
沈黙したときの間を埋めてくれる。
- 息子
- 率直に、家業から逃げていた息子をどう思ってた?
- 母
-
仕方がないと思ってた。10年前お義母さんが亡くなったとき、
とりあえず誰かに継がせなければいけなかったら、
結局了解もとらずにあなたを据えてしまった。
支えたりアドバイスをすればいいかなと思ってたけど、
あなたには東京での生活と仕事があって、
そんな余裕がないことは分かっていたはずなのに。
- 息子
-
いつまでも自由に生きられないのかと憤慨して落胆した。
だから、未練もないからいっそのこと土地と建物を
売り払ってしまえばいいと持ちかけたよね。
- 母
-
それを聞いて、現実を見せつけられた思いがした。
目をそらしていたことだけど、冷静な視点で見ると、
将来的には負荷がかかってしまうのは確かだもんね。
建て直すことは経済的な余裕がないからできないし。
- 息子
-
お父さんが亡くなってから、
目に見えて歯車が狂っていったよね。
お門違いなのはわかっているけれど、
ぼくはすべてを放り出して逝った父親を恨んだし、
極限まで働くことを強いていた会社を憎んだ。
でも、どこにも気持ちを吐き出せなかった。
- 母
-
そうね。
でも、生前は息子に継がせる気はないと言っていたのよ。
本当はもともと別の道に行きたかったようだけど、
否応なしに親の会社に入れさせられたから、
それを子どもに強制したくなかったんだと思う。
だから、あなたが東京で生活することを選んだときも
周囲の反対はあったけど、よくぞ意志を貫いて
押し切っていったねと感心したの。
逃げていくんだなとも思ったけどね。
- 息子
-
うん。岐阜からも家族からも逃げたかった。
縁を切る、というわけではないけれど、
当時は切り離して物事を考えたかった。
あれから20年近くたって、状況も感情も変化して
いまは納得しているけれど、
なんで勝手に了解もとらず社長にしたの?
- 母
-
それは謝りたい。本当にごめんなさい。
何の疑いもなく、あなたの気持ちを考えず
進めてしまったことを申し訳なく思っています。
これまでひとりで背負い込んでいた重圧はあったから、
あなたが会社のことを考えてくれるのは
運命として精一杯がんばってくれてるのかなと思った。
- 息子
-
運命は自ら切り開くものであって、
押しつけられた運命なんていらない。
今後、家業と向き合っていくことにしたのは
自分で決断したことだから。
意識しないと、価値観を押しつけてしまう。
そこは自覚的になったほうがいいと思う。
でも、ぼくと妹ふたりを育て上げ大学までやってくれて
感謝しています。お母さんも還暦過ぎて大学に入ったよね。
- 母
-
何に生かそうとかは特に考えていないのだけど、
勉強し直したかった。頭脳明晰な人に憧れもあって。
このまま大学院を卒業したらシュウカツかなぁ。
- 息子
- え! 今から就活?
- 母
- ううん、“終活”のほう。
- 息子
-
早くない? 80歳を過ぎてプログラミングを学んで
スマホアプリを開発した人だっているよ。
- 母
-
すごいね!
でも、自分の体が動くときにやっておきたいから。
それ以外は、子どもたちが幸せに暮らしていれば
もう何も望まない。お父さんには、老後はいろんなところへ
連れていってねとお願いしていたのだけど、
約束を果たさずいなくなっちゃって。
不調に気が付いてあげられなかったのは
今でも悔いが残ってる。
今、なにか迷っていることはあるの?
- 息子
-
将来、岐阜に帰るかどうか悩んでいるよ。
子どものこともあるし、実家もあるし、
お墓を守っていかなきゃいけないだろうし…。
- 母
-
そんなの、もうはなから期待していないし、
いっさい思わなくてもいい。
生まれた土地に囚われることもあるけれど、
長い目で見ても人は本来移動しながら生きていくもの。
それは死ぬことも含めて。
移り変わっていくのはとても自然なこと。
だから、あなたが望むなら家を壊したっていいの。
わたしが住む掘っ建て小屋さえ作ってくれればいいわ(笑)
(つづきます)