岸 | 私が「職業」といえるものは、 たぶん女優なんでしょうけど、 けっしてたいした女優じゃなくて。 |
糸井 | ご本人にそう言われても、 ぼくは、どう受けていいのかわかりません(笑)。 |
岸 | でも(笑)、自分ではそう思ってます。 私がデビューした時代は 戦後の貧しい日本でした。 食べものも乏しいような毎日です。 |
糸井 | 娯楽は映画くらいしかなかったんですね。 |
岸 | そんな中で、ヒットした映画に出たことで、 下積みの苦労もなく パッとスターになってしまったんだと思います。 それを素直に喜べばいいものを、 私はかわいくない女の子でしたから、 とても嫌だったんです。 どこに行っても見られる、 べたべたとさわられる。 私はもっとちがう世界を見てみたい。 そんなとき、そのような人に出会って、 パッとフランスに行ってしまったんです。 |
糸井 | イヴ・シァンピ監督に出会われて。 |
岸 | そう。 それからは、言葉の壁をはじめとする いろんな苦労がありました。 |
糸井 | その、いわば水面下の「アヒルの水かき部分」で 苦労したことについては 岸さんは、あんまり表現なさらないですね。 |
岸 | そうねぇ‥‥私はじつは 言葉に尽くせないほどに いろんな艱難辛苦に遭ってるんですよ(笑)。 |
糸井 | そうやって 笑っておしまいにするんですね(笑)。 |
岸 | そう。 もう、語り尽くせないので、しょうがない。 だから、一歩外に出たら、 ピカピカ笑っていようかという気分になります。 |
糸井 | 岸さんのその「気分」が、おもしろいなぁ。 |
岸 | 私、向こうの生活のほうが長いんですよ。 日本にいて、あと4年くらい経たないと、 日本とフランスにいた割合が同じにならないの。 |
糸井 | あぁ、そんなに。 |
岸 | そう。42年も住んでしまいました。 |
糸井 | 日本を出てフランスに‥‥42年間。 |
岸 | そう。 |
糸井 | ものすごいです。 |
岸 | ええ。ほとんど一生です。 |
糸井 | 帰って来ないかもしれないと 思うような時間ですね。 |
岸 | はい、帰れないと思って行きました。 |
糸井 | あぁ、そうなんですか。 |
岸 | だって、それまでの自分は 旅行もしてなかったから。 1964年まで、日本では 自分で切符を買えなかったんです。 旅行は自由化していなかったんです。 |
糸井 | ぼくは、岸さんについて 知ってることと知らないことが まばらにあるんですけれども、 いちばん極端な話で言うと、 岸さんがいま日本にいらっしゃることを 知りませんでした。 フランスと日本を行ったり来たり なさっているのかと思っていたんです。 |
岸 | 私は10年ほど前から こっちに本拠を置いています。 |
糸井 | はい。そうだったんですね。 |
岸 | そういえば、びっくりしたことがありましてね。 私は10年前、はじめての小説を書きまして、 講演やサイン会をしたり、 わりあい遠い地方の都市に行ったりしていました。 そうしたら、60歳くらいの女性が 手紙をくださいました。 とてもいい感じの方だったので、読んでいたら、 私の本をほぼ全部読んでくださってるんだけど、 エッセイの本を3年とか5年に1回しか 出さないものですから、そのお手紙にね、 「私は、岸惠子さんの本をすべて読んでいるし、 好きな人ですが、いまだ御存命の方とはゆめ知らず」 って書いてあったの(笑)。 |
糸井 | 本を全部読んでいるのに(笑)? |
岸 | そう。それで、『風が見ていた』という はじめての小説を出したときに 「まだ生きてらっしゃるんだとびっくりした」 って。 |
糸井 | はぁ‥‥すごい。 |
岸 | 私はそのとき70歳でした。 その方のお手紙、とてもいい文章で、字も立派でね、 嫌味がぜんぜんないんです。 ほんとうに、ただ、私は死んでると思ってた。 |
糸井 | 素直にそう思ってたんですね。 |
岸 | ええ。まったく嫌な感じじゃなかったし、 「あ、死んだと思われていたんだ」ということも ショックではありませんでした。 人間、生まれて、生きて、死んでいく、 当たり前のことです。 必ずや、どこかで終わるんだから、 それはちょっとくらい、早くたって遅くたって、 死んだと思われてたって、しかたがないと思う。 しかし、そのときの70歳という年齢が 私にとっては意味が大きかったのです。 男女問わず、70から、 もう人生が終わった人のように 扱われることがあります。 なんだかまるで、廃墟のように言われてしまう。 それは、私がそういったテレビや雑誌しか 見てないからかもしれない。 だけど、 「そうじゃない人生の終盤だって、あるよ」 と思っていたのです。 |
糸井 | うん、ありますよね。 |
岸 | そういうこともあって、 今度出した新しい小説『わりなき恋』は 70代の話なんです。 |
糸井 | しかし、岸さんご自身も、小説の中の世界も、 年齢についてはほとんど忘れてらっしゃるように 見受けられるんですが。 |
岸 | 自分が75歳になって、 後期高齢者と言われたときは、 ちょっとした衝撃がありましたよ。 |
糸井 | その都度は、どうしても、 意識するシーンはあるでしょう。 しかし少なくとも、小説の中で、 あるいは、ここでお会いしたとき、 「私は何歳だから」 ということを考えてらっしゃらないように 感じたんです。 |
岸 | そうね‥‥パリに42年も住んじゃったとかね。 |
糸井 | そうそうそう。 |
岸 | そういったことは、忘れていました。 (つづきます) |
2013-11-07-THU