- 糸井
- 書が簡単とおっしゃるのは、
どういうことでしょうか。
- 石川
- いや、本当にね、書ほど易しいものはないです。
なぜかと言えば、みんな書いているわけですから。
ピアノなら全然弾いたことない人もいるでしょう?
だけど、字を書いたことのない人って、
今では、ほとんどいないですよね。
どこかで自分が書いた経験があるわけですから、
それはもう、わかりやすいわけです。
それにもかかわらず、なぜみんな、
「わからない、難しい」と言うのかと。
じつはここに、書がわからなくなる、
3つの傲慢な見方があるからなんです。
- 糸井
- おお、3つの傲慢な見方。
- 石川
- まず一つ目から。
「書を、上手いか、下手かと考えること」。
これが書を見えなくする、一番の理由です。
上手いのか、下手かなんてものはね、
小学校の学習進度の問題であって、
書そのものの問題ではありません。
みんなが書道の教育で嫌になるのも、
上手い、下手を気にして、
「下手だから、もうやめた」となってしまうから。
あのね、書は上手いか、下手かなんていう、
そんな粗っぽい網の目に
掛かるようなものではありませんから。
- 糸井
- お仕着せの価値の中で
判断しようとしているってことですね。
- 石川
- そうそう。
- 糸井
- バラを見て反射的に「きれい!」と言う人が、
バラに似ていない路端のタンポポを、
「バラよりきれいじゃない」と見てしまう。
そんなことを、書でやっているわけですよね。
- 石川
- ああ、そうそう。
だから、美術館や博物館で鑑賞しても、
「わあ、きれい!」と言って、
すうーっと通り過ぎてしまう。
書は人間の表現ですから、もっと複雑なものです。
上手いとか、下手だとか、
そんな簡単なものではありません。
夏目漱石は上手、森鴎外は下手なんて言って
済ませる人はいないでしょう?
- 糸井
- ぼく、子どもの時に父親に言われたんですよ。
「これは上手いの? 下手なの?」と尋ねたら、
「上手いとか下手とかじゃなくて、これはいいな」
と父親が言ったのが、ずっと心に残っています。
- 石川
- 良い、悪い、というのはあります。
しかし、上手い下手の網の目には掛からないですね。
それが、一の理由です。
- 糸井
- なるほど、おもしろいです。
その二は、なんでしょう。
- 石川
- もうひとつの、書が見えなくなる見方。
それでは、秘伝を教えます。
- 糸井
- えっ、ここで秘伝が聞けちゃうんですか。
- 石川
- 「何と書いてあるか」。
- 糸井
- どういうことでしょう。
- 石川
- 何と書いてあるかだけを気にしてしまうのです。
例えば、色紙に書かれている歌が読めると、
「ああ、読めた!」って喜ぶんです。
でも、書では何と書いてあるかは問題じゃない。
ぼくが「山」と書いて、糸井さんも「山」と書く、
ほぼ日の編集のみなさんも「山」と書いたとします。
活字に直せば、どれも「山」。
「みんな『山』と書いている」というのは
つまらないことです。
書いてある文字が問題ではなくて、
その「山」をどのように書いているかが、書ですよ。
太い「山」も小さな「山」も歪んだ「山」も
そこには多様な「山」がある。
「何と書いてあるか」ではなくて、
「どのように書いてあるか」を
一点一画なぞりながら見ていってください。
先ほど、糸井さんがおっしゃった、速度などが、
どのように演じられているかが感じられます。
- 糸井
- 踊りや演劇のように見えてくる。
速度がわかると、しびれるんですよね。
- 石川
- 筆の速度は、力の具合ですね。
書というのは、触覚の芸術です。
たぶん、文学も触覚の芸術だし、
糸井さんが書くコピーもやっぱり、
触覚がベースになっていると思います。
- 糸井
- 触覚の芸術、いいですねえ。
- 石川
- 筆について、ちょっとおもしろい話があります。
ある科学者が書を習いに来まして、
「筆って、本当に紀元前の千何百年前からあるんですか」
と、驚いているわけですよ。
形がずっと変わらないことが不思議みたいでね。
だけど、いまだに筆は
最古にして最先端の筆記具ですよ。
筆は鉛筆にもなるし、針にも、
マジックにも、刷毛にもなる。
いろんな役目に代えて使えますけども、
逆は可能じゃないですから。
- 糸井
- 筆の穂先を使えば、すごく細かく書けるし、
根本まで使えばマジックみたいに書ける。
- 石川
- それが、筆蝕(ひっしょく)というものです。
筆に入る力の具合を大きく分ければ、
深さと、速度と、それから角度。
- 糸井
- ああ、筆がどう入ったかということですね。
- 石川
- そうそう、どういう角度で接してるかです。
深さ、速度、角度の三つの関数が展開して、
ひとつのドラマが生まれてくるわけです。
そのドラマを見ることが、書を見るということ。
指でなぞってみれば、いろんなことが見えてくる。
筆を持って、同じようになぞってみれば、
これを臨書と言いますが、
誰もが、さらに細部にわたってリアルに
書を見られるようになりますよ。
- 糸井
- 書くように見る、ということですね。
- 石川
- 絵の場合は、それが不可能ですよね。
どの順番で描いたか、わかりませんから。
だけど、書では筆づかいは再現できるんですよ。
臨書をすれば、筆がどういう角度で入って、
どういう速度で、どのぐらいの力で、
どう回っていったかということまでわかります。
筆の具合から、
空海が何を考えていたかが浮かび上がってきたり。
「あれ、こんなとこで引っ掛かってら」みたいな。
- 糸井
- 結果を追いかけることで、
動機に推理がいっていますね。
- 石川
- そうそう、そうそう。
- 糸井
- 順番どおりに追いかけられるって、
絵にはできませんね。
漢字の書き順さえわかっていれば、
みんな追いかけられる。
- 石川
- そうです。
だから、書ほど易しいものはない。
書は、断簡零墨(だんかんれいぼく)といって、
一字だけでも、あるいは、
完全な一字でなくても大事にされます。
筆画から、その書きぶりが蘇りますから、
読めなくても、見えるわけです。
- 糸井
- 読めないことには、自信があります(笑)。
ぼくは、読もうとしなかったから、
石川さんの言葉が沁みたんだと思います。
そして、三つ目の理由がありますね。
- 石川
- 三つ目は、糸井さんもおっしゃいましたけど、
美術のように見ないこと。
長いだとか、短いだとかね、
あるいは太いだとか、細いだとか、
もちろんそうなんだけど、
時間的な要素があるわけです。
例えば、細い文字とひとくくりにしたって、
ゆっくり、長い時間をかけて書いているのか、
それとも、さっと文字を書いているのか。
それは、全然違うわけです。
- 糸井
- ああ、そうか。
形で見ないということですね。
- 石川
- 形で見ないで、過程で見るということ。
形っていうのは、結果ですから。
文字をなぞってみて、そのプロセスを追っかけてみたら、
ものすごくよくわかりますよ。
書は、プロセスを見てください。
- 糸井
- どうしても形で見てしまいますよね。
ちなみに、展示されている作品の
途中から見てもいいわけですよね。
- 石川
- そうです、そうそう。
もう、一字だけでもいいぐらい。
- 糸井
- 切れ端でも、大丈夫ですか。
- 石川
- 切れ端でもいいです。
そんなわかりやすいもの、
他にはないでしょう?
- 糸井
- なんか、ものすごくわかりやすくなった気がします。
で、ぼくは、そこまで教えていただいたのに、
「書けない!」って思っているんですよ。
でも、同時に、書いてみたいという気持ちにもなります。
- (つづきます)