- 糸井
- 石川さんは、書の教室もされていますよね。
教え方というのは、あるわけですか。
- 石川
- はい。
- 糸井
- 最初はまず、何から指導するんでしょう。
- 石川
- 最初に楷書の基本として、
「雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうじょ)」。
これが漢字の古典中の古典で、
これがわかれば、だいたい、
漢字というのが、どういう形で
書かれるべきものであるかがわかります。
- 糸井
- はあー。
- 石川
- 一方では、ひとつひとつの文字が
どうできているかの基本を、
しっかりと知っておくことです。
それから、ぼくの教室では、
いきなり書いてもらうんです。
- 糸井
- いきなり書くんですか。
- 石川
- 何でもいいから、
自分がいま書きたい言葉を、
好きな大きさで、
好きなように書いてもらいます。
- 糸井
- 書きたい言葉でいいんですか。
- 石川
- 書きたい言葉を書いてください。
だって、書きたい言葉を書くために、
書をやるわけでしょう?
筆を持って書いたら、
どんな形になるかを試してみて、
その一方で、書というのが
どういうものであるかの基本を勉強する。
- 糸井
- なるほど、両方ですね。
この「雁塔聖教序」は石ですよね?
- 石川
- 石です、美しいでしょう。
石に彫ってあるんですよ。
- 糸井
- これがすごいなと思うのは、
さっきから、筆の勢いがわかると
言っていたんですけれど、
石になっても、まだ勢いが残っている。
- 石川
- すごい、やっぱり糸井さん。
これが、書の歴史上、
初めて石の上に筆で書いた状態を再現できた、
初めての字なんですよ。
- 糸井
- はあー、よくできましたね。
これ、書く人と彫る人は、
別の人のはずですよね。
なのに、心がちゃんと
伝授されているということですよね。
- 石川
- 萬文韶という人が彫ったものですが、
優れた人は、彫り方を工夫して
毛筆の書きぶりを再現しました。
書きぶりをなぞっているうちに、
ちゃんと心が通じるものです。
いま、甲骨文、青銅器の金文の上に
トレーシングペーパーを載せて、
ペンでなぞると、古代人が降りてきますよ。
- 糸井
- なるほど、同じ踊りを共有するからですよね。
先ほど、書の間違った見方として
形で見ないとおっしゃっていましたけれど、
篆刻をする時には、
形として認識されているように見えますよね。
石を彫る中に考えを込めないと、
単なる形の再現になっちゃうから。
石碑に紙を当てて写し取る拓本だと、
篆刻よりも機械的に取れますけど、
拓本の中にも速度とか勢いとか、
ちゃんと浮かび上がってくるものですよね。
- 石川
- はい、浮かんできますね。
書というのはつまり、拓本の裏バージョンです。
拓本の黒い所と白い所を
逆転させたものが「書」ですから。
戦後に、墨人会という会の会合で
「石碑、拓本も書か」という
議論をしていた時代もありましたが、
それはね、完全に逆転しているわけです。
石碑、拓本が書であって、
それで後から手で紙に書いたものも書として、
認知されるようになったということなんです。
- 糸井
- ああ、大逆転ですね。
- 石川
- 王羲之が書聖と言われるのは、
そういう意味です。
石に彫られたものが本当の書であった。
そこに手で書いたものの美を認めさせた、
それが王羲之です。
- 糸井
- 思えば、甲骨文字の時代からそうですものね。
- 石川
- そうです。
ほぼ日の事務所は、本拠地じゃないですか。
青山墓地へ行ってごらんなさい、
手で書いたような文字なんかなくて、
全部、彫ってあるじゃないですか。
あれが本来の文字であって、
紙に書く書は、その代用をやっていたわけです。
- 糸井
- 石に彫ったものの中に、
ちゃんと書いた人の肉声に近いような、
何かが込められて残っているんですね。
映画を見て迫真の演技と言ったりしますけど、
あれはつまり、彫られた書ですよね。
そこで味わうものっていうのは、
起こった出来事についての共有ですよね。
- 石川
- そうですね。
書を見れば、二千年前の人でも、
ちゃんと生きてきます。
王羲之だって、生きてきますから。
そんなに楽しいものはないです。
- (つづきます)