子どもの話はおもしろいに決まってる。
だからわざわざやらなくても‥‥
というわけでもないんですけど、
これまで「ほぼ日」では、
子どもとか、子育てを軸にしたコンテンツは
あんまりやってこなかったんですよね。
よそでもやってるし、親バカっぽくなっちゃうし。
でも、ぼちぼちやってみようかな!
と思っていたところ、ちょうどタイミングよく
「&こども」という子育てに役立つことを考えた
「ほぼ日手帳」のカバーができあがりました。
じゃあ、その記念にということで、
短期集中的に「子ども投稿企画」をはじめますよー。
全国のママさんパパさん、ぜひご参加ください!
担当は、永田とスガノです。どうぞよろしく。

 ラストサンデー

nagata
日曜日です。
sugano
日曜日ですー。
nagata
どうやら東京は雨模様のようだね。
sugano
そうやねん。洗濯がなぁ。
nagata
今週の日曜も、長編特集でまいります。
sugano
ひとつひとつはそんなに長くないので、
少しずつおたのしみください。
nagata
雨の日曜にも。
sugano
お出かけから帰ったあとにも。
nagata_sugano
では、ごゆっくり〜。

長編特集

私は幼いころ、幼稚園に入園した次の日に、
単独で脱走したことがあります。
最初は「おかあさ〜ん」と
泣き叫ぶ友達を押しのけ、堂々、
正門を乗り越えようとしてあえなく見つかり、
先生方に引きずり落ろされました。
要注意園児として
職員室に連行されてしまいましたが、
見張り役の園長先生が電話応対していた
一瞬の隙に再び脱獄を決行。
素早く人気のない裏庭にまわり、
大人の背丈ほどのフェンスをよじ登り
今度こそ脱出成功!
あとは全速力で家を目指して突っ走りました。
ところが、途中で井戸端会議中の
近所のおばちゃんに捕獲され
幼稚園に通報されてしまいました。
間もなく園長先生が現れ、御用。
私の大脱走は終わりました。
アラフォーになった今でも、あの時の
「こんなこども騙しのところにはいられない。
 お母さんのいる家に帰る!」
という強い強い決意や、
その時に流れていた「小鹿のバンビ」の歌や、
そびえ立つ高いフェンスをよじ登った光景は
鮮明に覚えています。
せっかく脱走成功したのに、
私を捕まえたあげくに
「お母さんと先生、
 どっちが先に迎えにくるかな?」
などとごまかしながら、
一人がガッシリとつかまえ、
もう一人が幼稚園だけに
電話をかけていたズルい大人達、
それが理不尽で理不尽で大暴れしたことも。
そんなことがあったにもかかわらず、
次の日からはケロッとして
毎日楽しく幼稚園に通った私でした。
しかしそのズルいおばさん達の家は
小学校の通学路にあり、
何年たっても前を通る度に
あの時の悔しさが甦ってしまい
顔を背けつつ足早に立ち去っていたのでした。
(はつゆめ)
私が小学生だった頃のことです。
放課後、
「お父さん(お母さん)が事故にあった」とか
「急病で運ばれた」と言って、
子どもに声をかけてくる
「悪い人」が出没していたようで、私は、
「もし、そういう人が来たら、
 学校かその近くにあるお家に頼んで、
 家に電話して確かめなさい。」と
繰り返し言われていました。
幸いなことに、私たちの周辺には
「悪い人」は現れず、
友だちも皆、無事に大きくなりました。 
大きくなって、大人になって、
社会人になりました。
私は学校職員になり、何人かの先生の
仕事のお手伝いをさせていただいていました。
ある日の午後。
その日は、主に一緒にお仕事を
させていただいていたA先生とは別の、
B先生と仕事をしていました。
それまで、仕事中に、A先生がB先生のところに
現れたことなど一度もなかったというのに、
急に「こ〜んにちはー」と現れて、
B先生の前で話し始めました。
A先生「○○さん(私)、
    今、ちょっといいかな?」
私  「はい、何でしょうか?」
A先生「落ち着いて聞いてくれる?
    お父さんが倒れられて、救急車で
    ○○医大に運ばれてるんだって。
    これから、お母さんがあなたを
    迎えに来るそうだから、帰りなさい」
私  「?!?!」
B先生「まぁ!!」
その時、落ち着いていたつもりの
私の最初の行動は‥‥バッと受話器をつかみ、
「B先生、電話使ってもいいですか?
 家に電話して確かめます!」
私の勢いに驚いて立ち尽くすB先生、
「僕、そんなウソつかないよ!」とA先生。
「いえ、嘘じゃないとはわかっていますが、
 こういう時は確かめるように
 言われてますから!」と
強引に電話をし始めた私‥‥。
そんなこんなで家に電話をすると、
ちょうど母はタクシーで家を出るところで、
実際に父は心筋梗塞を起こして救急車で
大学病院に運ばれていっているところでした。
その夜、父の状態がとりあえず安定して、
母も私も落ち着いた時、母に訊かれました。
「どうして、家に電話してきたの?」
「だって、子どものころから
 そう言われてたじゃん〜」と答えた私に
母は「変なことは覚えてるねぇ‥‥」と、
しみじみ言いました。
忘れられない出来事です。
あれからもう10年以上になりますが、
父は、心筋梗塞を乗り越えて、
とても元気にしています。
(ようこ)
私が小学校中学年の頃の話です。
日焼けの皮をむく、
かさぶたをはがす(そしてまた血が出る‥‥)、
アロンアルファを親指にぬり
ひとさしゆびとくっつけて固まったらはがす。
とにかく「ペリペリはがす」行為に
精を出していました。
一番好きなのは、おかあさんの顔パック。
(糊のような液体を顔に塗り、
 白く乾いたらはがす、というもの)
隠れてコソコソ使っていました。
決して美容のためじゃないのです。
ペリペリの快感が全てだったのです。
ある日。
学校から帰ってすぐ、いつものように顔パック。
数分後のペリペリ作業が楽しみで、
わくわくルンルンで乾くのを待っていたその時、
親友が家に来て、「遊びに行こうよ!」。
「もちろん!」とふたつ返事で、
急いで出かける準備。
身だしなみをしていたら、
鏡にうつる真っ白の顔の自分。
(しまった! パックをはがさねば!)
完全に乾ききっていない
パックをぺりぺり(たまにベトベト)、
急いではがしていたら、何とおでこの
生え際にもパックの領域がはみ出ていて。
うまくはがせず、パックのカスが
なんだかとってもフケみたい‥‥。
むしろフケにしか見えない‥‥
まるでフケだらけだ私!
ちびまる子ちゃんのガーンよろしく、
顔に凄まじく縦線が入り、
ゾゾ〜ッ‥‥と悪寒が走りました。
・親友を待たせられないし、
 私だって早く遊びに行きたい!
・親友にフケだらけだと思われたくない!
 汚いと思われたくない!
→この(フケのような)パックのカスを、
 瞬時にどうにかしたい。
この目が回りそうなイライラの状況、
思わぬ行動に出るのが子供です‥‥。
私は、パックのカスがこびりついた
髪の毛を含めたおでこの生え際一帯を、
お父さんのカミソリでひとおもいに剃りました。
ひとおもいに。
前髪で隠してるからいいやと‥‥。
その日は事なきを得ましたが、
日が経つにつれ気になるおでこのじょりじょり。
どうしてこうなった‥‥
と後悔の念でいっぱいになり、逆に開き直って、
親や親友にじょりじょりを触らせたりして、
日々を過ごしました。もちろん全員に
「ばかだねぇ」と嘲笑われながら‥‥。
ちなみに、当時はストレートヘアが
自慢だったのですが、そのじょりじょりからは、
まさかのパーマ毛が生えてきて、
普通の髪の毛の長さになる頃には、
髪の毛全体がパーマになりました‥‥。
じょりじょり改め、もじゃもじゃに侵食された、
というわけです。
どこにオチがあるのがわかりませんが、
以上が私の小学校中学年時代の
アホでメモリアルな事件の始終です。
大人になった今、顔のパックをすると、
あのゾッとした感じをリアルに思い出します。
「血迷う」の最たることをしたなと‥‥。
(踊る炭水化物)
息子が2歳になりたての頃、
「今日保育所で納豆坊やと、こらさんがね‥‥」
と話してくれました。
聞いたことの無い名前だったので、
担任の先生との連絡ノートで質問したところ、
納豆坊やは保育所で読んだ
絵本の登場人物と判明。
でも、「こらさん」については
先生も「?」でした。
何人かの先生達で、
一つ年下の「こはるちゃん」のことかな?
などと考えてくれたのですが、
息子はきっぱりと「違う」との答え。
誰かわからないまま、息子との会話のなかに
「こらさん」の登場回数はどんどん増えて、
保育所だけでなく自宅の寝室や、
公園などでのエピソードも加わっていきました。
どうやら「こらさん」は息子の頭の中にいる
お友達なんだな〜と理解しましたが、
息子は想像したり考えながら話してる風ではなく
いつも本当にあったこととして真面目に話すので
こちらもふんふんと聞いていました。
しばらくすると、「こらさん」だけでなく、
「けらさん」と「くらさん」、
「こらさんのお母さん」が
登場人物に増えました。
息子が3歳の時に引っ越しした際に、
いつも前の家の寝室にいた「こらさん」が
どうなったのか、質問してみたら、
「僕と一緒に引っ越ししたよ。
 一緒に車に乗ってたんだよ」と、
ちょっとドキッとする返事が
返ってきたこともありました。
約2年間、ほぼ毎日我が家の会話に登場した
「こらさん達」は、息子が5歳になった前後に
だんだん登場回数が減り、
ついに会話に出ることがなくなって
数ヵ月たったある日、突然息子が
「お母さん、こらさんてねえ、死んだんだよ」
と言いました。突然のことに
「え!? そうなの? なんか、寂しいね‥‥」
と答えたところ、
「なんで? あのねえ、
 こらさんって、嘘っこだったんだよ〜」
とカミングアウト。
知ってたけど、知ってたけど、
そんなに急にお兄ちゃんになるなよー!
息子の一つのドリーミングな時代が
終わったんだなあ、としみじみしました。
(けかた)
遠距離恋愛していた彼氏が
初めて実家に挨拶に来た時のことです。
掃除したり宴会の用意したり、
母、兄嫁は大忙し。
兄もわざわざ仕事を休んで洗車したりと
バタバタしていました。
そして父は、よそゆきの普段着が
皺にならないように立ったり座ったり。
甥っ子もおじいちゃんと一緒に
ウキウキしていました。
私と彼氏が家に到着し、一通り挨拶をすませ、
座敷で父と向かい合いました。
そう、ここはお父さんのメインイベント、
娘に結婚を申し込みに来た相手に
答えを出す大切な瞬間です。
まあ、言うことをきかない娘が決めたことだから
反対したところでどうしようもないという
あきらめはあったでしょうが、
それでもなにかひとこと言ってやろうと
父なりに考えていてくれたようです。
母も兄夫婦も遠慮して
座敷の外で聞き耳を立てています。
自己紹介もおわり、彼氏がバッと
座布団を横にして両手をつきました。
「お嬢さんと、けっ‥‥」
「はい、どーじょー」と、
その座布団を彼に差し出す甥っ子。
「あ、ありがとね」受け取らざるを得ない彼。
調子に乗って次々に座布団を
「どーじょ」する甥っ子。
無言で強制退場させる兄嫁。
「ぼくもー」という声が遠ざかり、
ようやく改めて再開となりましたが、
全員、考えてたことが吹っ飛んだようで、
彼は「将来的には幸せにします」、
父は「まあ、やってみなさい」と、
なんとも気の抜けた和やかな挨拶となりました。
あれから13年、今では大学で
船乗りの勉強をしている甥っ子が、
いつか彼女を連れて来たら絶対にこの話を
してやろうと主人共々楽しみにしています。
(まにちゃん)
小学校で絵本の読み聞かせの
ボランティアをしています。
子どもの本は、いいものは必ず残るので
世代を越えて親子で
読めたりするのが楽しいですね。
好きな絵本の話には乗り遅れちゃったけど
少し上の子どもたちにも大人にも
読んでほしい本があるのです。
心が湿っちゃったときにページのすきまから
心に光がさしてくるような本です。
もちろん好みは人それぞれですし、
そういうコーナーじゃないですし、
セールスマンみたいになってますが、
人生のいい処方箋です!
○『アーサー・ランサム物語全集』(全12巻)
小学生の頃、箱入り全集に
お小遣いをつぎこみました。
それはもちろん大事に
今でも読んだりするのですが、
息子たちが雑に読んでもいいように
文庫でもそろえています。
長らく1巻「ツバメ号とアマゾン号」しか
文庫になかったのを新訳で
ゆっくりと全巻刊行中なのが嬉しいです。
本を開けばそこは必ず休暇の始まりなんですよ。
夏休み冬休み春休み、
兄弟姉妹、たくさんのごちそう、
航海、自炊キャンプ、冒険‥‥
よきお父さん、賢いお母さん、
愉快な叔父さん‥‥
出てくる大人たちも素敵です。
一番好きなのは6巻「ツバメ号の伝書バト」か
10巻「女海賊の島」かなあ。
○今江祥智さんの自伝的三部作
『ぼんぼん』『兄貴』『おれたちのおふくろ』
子どもには『ぼんぼん』。
中学生以上の大人向けには
ずっと続編があります。
大阪弁、名古屋弁、京ことばがやわらかく。
少年の目から見た戦争の時代の、
それでも笑いのある日々を
あかるく力強く描いています。
つらくても笑いはたいせつ。
年寄りらしいのに若々しく頼もしい
同居人の佐脇さんの生きざまが粋です。 
○『ドリトル先生物語全集』も
○『トーベ・ヤンソン全集』も
どれも子どもに、いいお酒を
ちょっぴりなめさせてくれるような
ほっこり心があたたまる本です。
長いシリーズはいつまでもそこで遊べる
安心感があるんですよね。
今の忙しい子どもたちが、
本を読む時間をたくさん持てるといいなあ!
(アミノ夫人)
私は、母が苦手でした。
何て言うか、桁外れな感じがしていたんです。
母の武勇伝は気が遠くなるほどありますので
とても書ききれるものではありません。
その母は、震災の1年前に亡くなりました。
亡くなってから葬儀までの数日に
焼香に訪れた人が50人。
祭壇にあがった生花が、親族のほか10本以上
(しめて15本あがりました)。
渡した香典返しが150。
本当にたくさんの人が惜しんでくれました。
しかも母は亡くなる直前に
ものすごく面倒くさい相続問題を解決して
その確定申告まで出していました。
頑固で変人で説教くさくて面倒な母。
でも、いつも真剣に生きていました。
いつも大真面目に遊び、
学ぶことを忘れませんでした。
人には、「いい人」とか「悪い人」とか
いろいろな人がいますが、
間違いなく、母は「すごい人」でした。
どんなに頑張っても母にはかないませんが、
せめてその母の背中を見ながら
これからの子育てをしたいと思います。
もうひとりの母、義母についても少し。
夫のお母さんのことは、
初めて会ったときから大好きでした。
おっとりとしていて、
穏やかににこにこしているひとでした。
でも、三姉妹・四人姉弟の長女で
3歳年下の夫を職場でゲットして、
犬山から東京へ出てきてしまうような
パワフルさも持っていたんですけどね。
孫たちにもひとりひとりきちんと接してくれ
うちの子どもたちは
全員おばあちゃんっ子に育ちました。
無口な義父に、
少しずつ家事を仕込んだりもしていました。
その義母が、昨年亡くなりました。
実の母以上に大好きな義母がいないなんて。
義母が亡くなってしばらくして、
「ああ、もう母の手料理が食べられないんだ」
と、しみじみ思いました。
母と義母の味は、私と夫で思い出しながら
作っていくしかありません。
まだお母さんがいるみなさん、今のうちに、
母の味をたっぷり味わっておいてください。
(三児の母)
私にも思春期だった頃がありました。
そして当然、
女の子特有のあの時期もありました。
それは「お父さん大嫌い時期」。
気付いたころには嫌いになっていたので、
理由なんてものはありません。
とにかく嫌いでした。
顔も見たくないし、存在も感じたくないので、
父がリビングにいるときは、
私は部屋にこもりっきり。
食事も父や他の家族が終わるのを待って、
一人で食べるほどでした。
そんな状況が長く続いたある日、
いつだったかはもう忘れましたが、
ふと「なんでこんなに嫌いなんだろう」
「一生嫌いでい続けるのだろうか」
と思ったのです。
このままずっと嫌いだと意地を張るのは
あまりにも子どもじみて馬鹿らしいけど、
こちらから素直に近づくことができるほど
大人でもないお年頃です。
それでも嫌いでい続けたくなくて、
何とかして近づく方法を考えていたときに、
父の友人の話を思い出したのです。
「おまえのお父さんはな、
 どこで会っても挨拶してくれるんや。
 道で会ったら声かけてくれるし、
 お互い車ですれ違うときでも
 クラクションで合図してくれる。
 挨拶してすれ違うだけやけど、
 ほんまにうれしいことやで」と。
(この話を聞いた当時は、あの無口で
 何を考えてるかわからない父が
 人を喜ばすことができるんだ、
 くらいにしか思っていませんでした)
そうか、挨拶ならいける、と思いました。
家族なら挨拶をしてもおかしくない
(何より、自分の非を認めずに済む!)
という言い訳を自分にして、仲直りの手始めに、
父に挨拶をすることにしました。
本当に一言だけの簡単な挨拶です。
次に何を話せばいいのかわからず、
挨拶だけです。
それでも必ずするようにしました。
父への挨拶にも慣れ、
でも次の話題が見つからない状態のある日、
父の友人に会いました。その友人曰く、
今まで自分を避けていた娘が
挨拶をしてくれるようになり、
それがとてもうれしい、とのこと。
その話を聞いたとき、免罪符を得たような
気分になったのを覚えています。
これを機に、挨拶のほかにも
一言二言話すようになりました。
話題が見つからないときは天気の話をしました
(山登りの経験がある
 父の天気予報はかなり正確です)。
こうして少しずつ、
かなり時間がかかりましたが、わたしの
「お父さん大嫌い時期」が終わりました。
このことは母にはもちろん、
父にもまだ話したことがありません。
私の立場からの一方的な内容です。
今度は父がどのように思っていたかを
聞いてみようと思います。
(ちーぶた)
私(娘)が社会人になって間もない頃の話です。
お正月に実家に帰省したとき、
台所で母と夕食の後片付けをしていたら、
普段はあまりそんな話をしない母が、
私に「彼氏はいるの?」と聞いてきました。
実はその前日の夜、両親が私のいないところで、
私が会社でちゃんと仕事が出来てるのか、
早く結婚でもした方が良いいんじゃないかと
ヒソヒソ話しているのを
聞いてしまっていたので、なんとなく、
自分が信用されていないような気分になって、
「いないよ!」と
つっけんどんに返事をしました。
その後の会話の内容は忘れましたが、
売り言葉に買い言葉で、
母と喧嘩し、頭にきた私は、
「もう、帰る!」と
夜遅くに家を飛び出しました。
田舎の夜は東京とは違い、真っ暗で、
外に出たものの、
本当に電車があるのかも不安になって、
少し心細くなっていた時、
父が車で追いかけて来ました。
最初は意地を張っていた私ですが、
心細さも手伝って、
ブスッとしたまま車に乗り込み、
最寄り駅まで送ってもらいました。
改札に向かう私に、
いつもは車の中から手を振るだけの父が、
車を降りて追いかけて来ました。
そして、新幹線で帰れ、と、3万円を
私のコートのポケットに押し込んだのです。
帰りの新幹線では、せっかくのお正月の
家族団らんを台無しにした私を
責めることもせず、何も言わずに
送ってくれた父の気持ちが切なくて、
涙がとまりませんでした。
そんな父もそれからわずか数年で
他界してしまいました。
おとうさん、今更ですが、ありがとう。
(ぱたぽん)
私は本州西端の県で生まれ、
ずっとそこで過ごしました。
一人っ子で親の愛情を一身に受けて、
反抗期もないまま
甘えん坊に成長していきました。
そんな私も大学入学にあたり、
横浜へ引っ越して一人暮らしをすることに。
関西以東には親族もまったくおらず、
身寄りもいません。
引越しから入学まで母は一緒に上京してくれ、
私の一人暮らしが不便にならないように
手伝ってくれました。
実家へ戻る母を見送った新幹線のホームで、
私はこれからは独りで生きていかなければ
ならないんだと実感し、寂しくて泣きました。
それからはしょっちゅう電話をかけたり、
夏休みなどの長期休暇には
必ず実家に帰るようにしたりと、
自分も親も寂しく思わなくて
済むようにしていました。
時は過ぎ、大学2年の夏。
その頃には一人暮らしもすっかり慣れ、
また都会ということで
友達と遊ぶ機会も増えていました。
その日は、地元の友だちと初めて
「イベント」へ行くことになっていました。
同時に、用事のある母が一人で
こちらに上京してくる日でもありました。
「14時頃には終わると思うから
 新幹線の駅で適当に待ってて」とだけ連絡し、
私はワクワクしながらイベントへ。
しかしイベントは想像以上に長く、
終わったのは15時半過ぎ。
しかもその後友達と感想を話し合ったりしながら
のんびり移動していたら16時を回っていました。
そして母と連絡をとり、合流する私。
大きな荷物を両手に持った母が
こちらを振り向きます。
すると母は、私の姿を見つけた途端に
泣き崩れたのです。
とても寂しい想いをさせてしまったのだと
その時になってわかりました。
思えば私と母は双子かと
言いたくなるほど仲が良く、
昔からずっと何をするにもいつも一緒。
しかも前回は一緒に上京したものの
見知らぬ土地に一人きり。
待ち合わせの時間を過ぎても来ないし、
怖くて何処へも行けない。
(その時期は駅も改装工事中で
 休憩スペースもろくに空いていませんでした)
母はさぞ心細かったことでしょう。
それなのに私は友達との遊びを優先し、
イベントに参加することに夢中になって
待ち合わせの時間を過ぎても
それほど気に留めないでいたのです。
私は自分を恥じました。
母を独りぼっちで待たせてしまった罪悪感と、
泣いている母を見て、私も一緒に泣きました。
そして何度も何度も謝りました。
その後はすぐ仲直りもしましたし、
母もあの時のことは
もう気にしてないよと言ってくれます。
でも私は、あの時の母の寂しさと不安と
安堵の入り混じった表情を忘れられません。
ママ、あの時は本当にごめんね。
もうあんな思いは絶対させないからね。
私は今、地元に戻り、
実家から隣町の職場へ働きに出かけています。
いつも私よりずっと早くに起き、
お弁当の準備をしてくれてありがとう。
お見送りをしてくれて、仕事や用事で
いくら遅く帰って来ても
寝ずに待っててくれて本当にありがとう。
いつかもっともっと
恩返しできるように頑張るからね。
これからもよろしくね。大好きだよ。
(Anne)
毎日「ほぼ日&こども」を読んでは、
もうかなりすり切れている
こどもの頃の記憶をたどっています。
思い出される中で最古の地点から、
じわじわと現在へ戻します。
少しずつピント合っていき、色がつき、そのうち
空気の温度や匂いまでもがよみがえってきます。
きょう足を止めたのは、
小学校4年生の下校中の場面。
隣にはいつも一緒に登下校していた、
いちばん家の近い同級生のえりちゃんがいて、
ふたり横に並んで、話すこともせず、
道路の反対側をしばらく見ていました。
私はとても言葉では言い表せない
かなしい気持ちで、
えりちゃんに気づかれないように
そっと、涙を袖でふきました。
当時、朝のテレビと言えば
「ポンキッキーズ」でした。
ほぼ日でもおなじみのボーズさん、
ピエール瀧さんと蘭々に安室ちゃんの時代です。
家を出る時間が早かったため、放送をちゃんと
みることはほとんどありませんでしたが、
番組の最後に流れる、さまざまな歌と
それに合わせた映像がすきでした。
「Child's Days Memory」
米米クラブの歌です。
映像は木造校舎とこどもたち。
はしゃいだり、甘酸っぱかったり、
切ない光景が映ります。
YouTubeでいまだにこれを
観ることができるのは、
私にはほんとうに貴重です。
あの日、私たちふたりが見ていたのは、
まさにこの校舎でした。
この校舎がかいじゅうのような大きな重機で、
バキバキに解体されていく様子でした。
4年間過ごしただいすきな校舎が、
屋根から壁から床までもが、
これは建物なのかと疑うくらいにあっさりと、
かんたんに、ただの木材になっていきました。
それこそ木っ端みじんに。
冬はすきま風で寒いし、
廊下のぞうきんがけはいつもトゲが刺さったし、
トイレは暗くて臭くてボットンだったし、
体育館は小さかった。
でも、すべすべでうねってる階段の手すりとか、
秘密基地みたいに狭い放送室とか、
色あせた赤い屋根がすきだった。
120年を経た校舎は老朽していたのでしょう。
建て替えの知らせはこども心にも
「仕方がないよね」と納得し、
またうれしくもありました。
うれしくてうきうきの気持ちしか
ないと思っていました。
でもあの時、涙がでて気づきました。
やめて! こわさないで!
と、駆け寄りたい衝動を抑えていました。
かなしい、むなしい、さみしい、
怒り、落胆、あきらめ、そういった感情を抱え、
「こんな絶対的な存在にも終わりがあるんだ」と
4年生には言葉で表現するのは難しかったですが
そういう気持ちで見ていました。
こどもは言葉にできないだけで、
全身で感じているのですね。
もし私が親になることがあったら、そういうの、
ちゃんと見ててあげたいなと思います。
(ommu)
sugano
みんなの子ども時代の話っておもしろいなぁ。
nagata
そうだね。
sugano
鮮明に覚えている出来事や
子どものころに夢中になったことは
ひとつも無駄になっていないと
思うことが多いねん。
nagata
うん。
sugano
まわりの子どもたちを見ていると、
ああ、そういうエピソードをいっぱいもらって
自分の幹の部分を太くしてるんやなぁ、と
思う反面。
nagata
うん、うん。
sugano
おとなになってからのことは
なんでこんなに忘れてるんだろう?
と、自分で思うんやけど‥‥
nagata
それは、うーん、
吸収の時期が子ども時代だ、
ということなのかな?
sugano
経験というものが、自分のことだけじゃなく
「自分をふくめた小さな社会に対する経験」
になっていくからかな?
nagata
そうなのかな。
sugano
そういったことを誰かに訊きたいなぁと思う。
nagata
子どもって、いったいなんなのか、
気になってきたね。
sugano
そやねん。
そういえばさ、「ほぼ日」の
読みものチーム採用のとき、
ちいさい頃の思い出について、
みんなに訊いたね。
nagata
そうだった、そうだった。
こういうことがあったからそうなった、とか、
どんなふうに「その人」が
つくられていくのかも知りたいなぁ。
sugano
投稿のコンテンツは今月いっぱいですが。
nagata
これからは、子どものことを
いろんなところから
見つめ、掘りさげていくような
あたらしい企画も考えたりしています。
sugano
明日から平日3日間。
最後の3回は
「ほぼ日&こども」通常バージョン、
たっぷりとお届けしていく予定です。
nagata
投稿、お待ちしています。

「こども ビームス」さんと、
母子手帳ケースとしてもつかえる、
あたらしいタイプのカバーをつくりました。
なまえは、「&こども」。
つかいやすく、しかもおしゃれでかわいいカバーです。

)くわしくはこちらをどうぞ

「ほぼ日ハラマキ あたためるもののお店」で
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これまで人気柄をピックアップしたり
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おかあさんと子どもで、おそろいにもできますよ。
サイズがなくなってきているものもありますので、
欲しい柄があったらどうぞおはやめに。
この冬は、親子でしっかり、あたためよう!

)くわしくはこちらをどうぞ

2012-10-28-SUN