子どもの話はおもしろいに決まってる。
だからわざわざやらなくても‥‥
というわけでもないんですけど、
これまで「ほぼ日」では、
子どもとか、子育てを軸にしたコンテンツは
あんまりやってこなかったんですよね。
よそでもやってるし、親バカっぽくなっちゃうし。
でも、ぼちぼちやってみようかな!
と思っていたところ、ちょうどタイミングよく
「&こども」という子育てに役立つことを考えた
「ほぼ日手帳」のカバーができあがりました。
じゃあ、その記念にということで、
短期集中的に「子ども投稿企画」をはじめますよー。
全国のママさんパパさん、ぜひご参加ください!
担当は、永田とスガノです。どうぞよろしく。

3月11日の、こどものこと。

nagata
こんにちはー。
sugano
「ほぼ日&こども」です。
nagata
久しぶりの更新です。
sugano
クリスマス以来ですかね。
nagata
今日は、またまたみなさんの
投稿を募集したいなと思って
登場いたしました。
sugano
はーい、よろしくお願いしますー。
nagata
といっても、今回の募集は、
これまでとちょっと趣旨が違いますね。
sugano
うん、そうだね。
ま、「子どものエピソード」という
大きな枠では同じかもしれませんけど。
nagata
はい。
どういうことかといいますと。
sugano
どういうことかといいますと。
nagata
もうすぐ、「3月11日」がやってきます。
sugano
はい。あの日から、2年が経ちます。
nagata
東日本を襲った、大震災。
あの日、自分たちが、どうだったか。
少しずつ、記憶が遠のくようでもあり、
まだ生々しく残る部分もあり‥‥。
sugano
今回の「ほぼ日&こども」では、
「あの日、3月11日の、こどものこと」を
募集したいと思っています。
nagata
思い出すのもつらい、という方も
いらっしゃると思います。
もしも、この企画自体に、
いやな思いをする方がいらっしゃったら
すいません。
sugano
そうですね。
でも、あの日、あのとき、
子どもたちがどうしていたか、
そして、ママやパパがどうしたか、
きちんと思い出して、覚えておいたほうが
いいのではないかと私たちは思いました。
nagata
なんというか、2年経ったいまなら、
「あの日、どうだったのか」が
きちんと語れるような気もします。
sugano
ひょっとしたら、これ以上時間が過ぎると、
あの日の「こまかいところ」が
ぼんやりしてしまうかもしれないし。
nagata
そして、あの日のことを思い出すにあたり、
子どもたちと「どうだったか」ということを
きちんと話し合うのも、
いいことなんじゃないかなと思っています。
それで、募集してみたいと思います。
「3月11日の、こどものこと」。
sugano
もう、そのまま、
「どうだったか」ということで、いいんだよね?
nagata
はい。
初回の今日は、当然、投稿が来てませんから、
ぼくらふたりが、まずは。
sugano
せやな。
nagata
ほな、スガノさんから。
sugano
よっしゃ。書いてみます。
nagata
ぼくらふたりの
「3月11日の、こどものこと」は
こんな感じでした。

3月11日の、うちのこども。

2年前の3月11日、我が息子は小学6年生でした。
卒業を目前にひかえ、残り少ない日々を
カウントダウンするようにすごしていたときに
震災が起こりました。
教室にいるときに揺れたそうです。
日ごろの避難訓練どおりに
先生の指示にしたがって生徒はみんな
体育館に集まり、家族の迎えを待ちました。

その日は平日(金曜日)でしたので、
私は青山の「ほぼ日」の事務所におり、
子どもを迎えにいくことはできませんでした。
「そういえば学校は耐震工事をしたばかりだし」と
よけいな心配をしないようにつとめました。
すると、家の近所のママさんから
「◯(息子の名)君をいっしょに連れて帰ります」
という携帯メールが入り、胸をなでおろしました。

その日の夜、「ほぼ日」では
新入社員の歓迎会がある予定だったので
義母が子どもの面倒を
みてくれることになっていました。
義母にダメモトで電話をしてみると、
奇跡的につながりました。
いま電車が止まってしまっているけれども
動き次第家に家に行くので心配しないように、
とのことでした。

そこから、義母との連絡は
しばらくつかなくなりましたが、
義母はきちんと家に行ってくれ、
息子といっしょに夕飯を食べてくれました。

私はちょうどその数日前に捻挫をし
松葉杖をついて歩いていました。
都内の交通機関がほぼストップしたため、
帰宅をあきらめ、会社に泊まりました。
翌朝、地下鉄が動き出してから帰宅しました。
1軒だけ開いていた自宅駅前のお弁当屋さんで
おにぎりを買いました。
それを息子といっしょに食べました。

息子は、あまり怖がっていませんでした。
「女子が泣いてたよ」「すごく揺れた」
と報告して、ニュースを見ていましたが、
そのうち「消して」と言いました。

その後も怖い余震が何度もありました。
原発の情報が流れ、私はこれまで経験したことのない
非常事態が起こったのだと思い、
そこからの数日は震えるように過ごしました。

しかし、12歳だった子どもは、
わりに「ふつう」にしていました。

深刻な被害を受けた地域に
どんな支援をしたらいいのか?
自分たちの、空気や食べもの、電気について、
どういう考えを持ったらいいのか?
行動のひとつひとつに対して
自分の判断が求められることなんて、
戦争も、暴動も、大きな事件に巻き込まれることも、
42年間、なにひとつなく来た自分には
さっぱり経験のないことでした。
ひとりの大人として、ずいぶんおろおろしました。

しかし、12年目でそれを経験した息子のほうは、
「こういうこともあるのだ」
という見極めが早かったのではないでしょうか。
私よりもずいぶんと堂々とした日々を送りました。

頭を抱えたり、泣く時間が少なくてすんだのは、
私は子どものおかげだと思っています。

あれから2年が経って、
あのぽちゃぽちゃした小学生は声変わりし
中学2年生になりました。
いま聞いても、
「2年前のあの日のことはあまり憶えていない」
と言います。

ただ、これから東京に
大きな地震が来る可能性があること、
そのときはどうなるんだろうか、と
あたりまえのように考えている、
それが、震災以前と以後との違いだと思います。

地震のあとの数日間、助けられたのは、
母である自分でした。
それを私は少なくとも、
覚えておこうと思っています。
(スガノ)
2011年3月11日のそのとき。
下の子は4歳で、幼稚園のあと、
ママといっしょに児童館にいました。

7歳になったばかりの長男は、
学校のあと、ひとりで家にいました。
家は10階なので、かなり揺れたようです。

ぼくは会社にいました。
尋常ではない揺れを感じたあと、
妻の携帯へ電話しましたがつながりません。
会社の固定電話から家の電話へかけると
運よくつながり、息子が出ました。

不安そうな、か細い声でしたが、
最初のやり取りは、意外にふつうでした。
しかし、状況を説明するうちに不安になったのか
だんだん涙声になっていきました。

ママも、妹もいなくて、ひとりだということ。
いまも食卓の下に自分がいること。
いろんなものが床に落ちてるということ。
生々しく覚えているのは、
「壁の時計が落ちて、割れちゃった」
という涙声での説明です。

そして息子は、話しているうちに、
すごく変なタイミングで電話を切ってしまいます。
すぐにかけ直しましたが、もうつながりません。

帰ろう、とぼくは決心しました。
すぐに周囲にそれを告げて、会社を出ました。
その後、1時間もしないうちに、
都心の交通網は完全に麻痺するのですが、
そのときはまだタクシーが拾えたのです。

道は混雑していて、
家に着いたのは夕方ごろでした。
エレベーターが動いておらず、
階段で10階まで駆け上がり
玄関先で子どもの名前を呼びましたが、
返事がありません。
室内はたくさんのものが散乱していました。
居間の壁掛け時計は、
落ちてカバーが割れていました。

マンションの1階で家族と再会しました。
ママと娘が、ぼくより早く帰宅していたのです。
息子はさすがに泣き止んでいましたが、
ずっとぼんやりしていました。
その後はマンションの共有ルームで
家族4人でしばらく過ごしました。

あの日、電話を切ったあとに、
どういう行動をとったか、
何度か息子にきいてみたのですが、そのたび、
「思い出したくないからきかないで」と
ぴしゃりと断られました。
小学一年生だった彼にとって
たびたびの余震に襲われながら
机の下にじっといた、その数分間は
そうとう不安だったのだろうと思います。

息子が唐突にあのときのことを語り出したのは、
それから1年経ってからです。
とくにきっかけもなく、
そういえば、という感じで話しはじめました。

彼は、ずっとそこにいることに耐えられなくなり、
家を出たそうです。エレベーターが動いてないので
階段をとぼとぼと降りたそうです。

途中で、おばあさんに会ったそうです。
おばあさんは、1年生の子どもが
ひとりで泣きながら階段を降りているので
おそらく心配して、声をかけてくださいました。
「ひとり? おばあちゃんの家にくる?」と。
息子は、その状況がうまく判断できず、
余計に怖くなってしまったみたいなのです。
「知らない人に声をかけられたら‥‥」
みたいな学校の教えも、
混乱に拍車をかけたみたいです。

混乱しながら、
とりまくすべてを怖ろしく感じながら、
とぼとぼと降りた10階からの階段は、
彼にとってとても長かっただろうなあと思います。
そして、それを1年の間、
抱えて封印したままにしていたということが、
出来事の大きさと、そのときの彼の小ささを
しみじみと感じさせます。

そのときのことを、いまどう感じているのか、
3月11日に、話し合ってみたいと思います。
(永田)
sugano
ふーーーん、そうかあ。
nagata
書いてると、長くなりますね、どうしても。
sugano
そうそう。
あと、すらすら思い出せるところと
もう、薄れてるところとあるね。
nagata
うん。だから、書いておくのはいいと思う。
sugano
みなさんと、子どもの、あの日のこと、
どうぞ、教えてください。
nagata
掲載するときは、おそらく、
投稿の印象的な一部分を抜粋して
載せることになると思います。
sugano
最後にもう一度、
思い出したくないことを
思い出させてしまうようでしたら、
すいません。
nagata
最初にこういうことを書くと
ちょっと読んでいて困るかもしれませんが、
最初だからこそ、書いておきます。
東日本大震災では、
たくさんの子どもさんも亡くなられました。
心から、ご冥福をお祈りいたします。
sugano
ご冥福をお祈りいたします。
nagata
さて。
sugano
はい。
nagata
いただいた投稿は、3月11日までのあいだに、
できるだけ掲載していきますね。
sugano
いつものことですが、
すべては掲載できないと思います。
どうぞよろしくお願いします。
nagata
書いていると長くなるかもしれませんが、
なるだけ短くまとめていただけると助かります。
sugano
それでは、よろしくお願いします!

「こども ビームス」さんと、
母子手帳ケースとしてもつかえる、
あたらしいタイプのカバーをつくりました。
なまえは、「&こども」。
つかいやすく、しかもおしゃれでかわいいカバーです。

)くわしくはこちらをどうぞ

「ほぼ日ハラマキ あたためるもののお店」で
いま、子どもサイズのハラマキを販売しています。
これまで人気柄をピックアップしたり
人気のものを再生産して、WEBのお店に並べています。
おかあさんと子どもで、おそろいにもできますよ。
サイズがなくなってきているものもありますので、
欲しい柄があったらどうぞおはやめに。
この冬は、親子でしっかり、あたためよう!

)くわしくはこちらをどうぞ

2013-03-08-FRI