雑誌『Number』『マルコポーロ』から
「文春砲」で知られる『週刊文春』へと移り、
数多のスクープをものにしてきた編集者。
さまざまな雑誌に関わってこられましたが、
つねに根っこにあったのは
「編集ほどおもしろい仕事はない!」の思い。
それは、2022年で創刊100周年を迎える
月刊『文藝春秋』の編集長に就任した現在も
変わっていないそうです。
編集とは何か。新谷学さんに、うかがいます。
担当は「ほぼ日」の奥野です。

>新谷 学さんのプロフィール

新谷 学(しんたに まなぶ)

1964年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。1989年に文藝春秋に入社。『Number』『マルコポーロ』編集部、『週刊文春』記者・デスク、月刊『文藝春秋』編集部、ノンフィクション局第一部長、『週刊文春』編集長などを経て、2018年より『週刊文春』編集局長。2020年からは執行役員として『Number』編集局長を兼務。2021年7月より『文藝春秋』編集長に就任。著書に『「週刊文春」編集長の仕事術』(ダイヤモンド社)など。最近著に『獲る・守る・稼ぐ 週刊文春「危機突破」リーダー論』(光文社)がある。

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第3回 畑ちがいの週刊誌記者になる。

──
新谷さんは、編集者に向いている人って、
どういう人だと思いますか。
新谷
上から指示された設計図とか
マニュアルどおりにつくるのが上手い人、
では決してないと思います。
自分のつくりたいものをつくるんだ、
という人のほうが、
だんぜん向いていると思いますね。
──
新谷さんが、まず、そうですもんね。
新谷
いくら編集の仕事でも、
言われた仕事を
言われたとおりにこなすのは退屈ですよ。
自分のやりたいことを
やりたいようにやるって人にこそ、
おもしろく感じる仕事だろうと思います。
上司に気に入られようとしてつくっても、
つまんないでしょ。
結果的に読者もおもしろがってくれない。
つくり手の「おもしろがりの熱」って、
まちがいなく、
まわりの人や読者に伝わると思ってます。
──
じゃ、次の『マルコポーロ』に移っても、
その方針を貫いて。
新谷
ええ、そうですね。
当時『週刊文春』でスクープを連発し、
ブイブイ言わせてた花田紀凱さんも、
編集長として
『マルコポーロ』へ、乗り込んで来た。
で、一緒にやることになりました。
──
雑誌のリニューアルが目的の人事ですよね。
新谷
わたしは雑誌の顔である表紙担当となって、
さーて、どうしてやろうか‥‥と。
表紙は女性タレントでいこうということは
花田さんの方針で決まっていたんです。
それで当時、人気絶頂だった
内田有紀さんの起用が決定したんですけど。
──
ええ。
新谷
石崎さんに相談したら、
写真は高橋恭司さんがいいんじゃないかと。
──
アートディレクターの石崎さん、が。
新谷
で、恭司さんのところで打ち合わせしたら
「スタイリストは北村道子さんだな」と。
──
これまた大御所。
新谷
ヘアメイクはモッズヘアの柘植伊佐夫さん。
──
超一流のクリエイターが集まって。
新谷
言い換えれば、ワガママな3人組ですよ。
全員で集まって撮影の相談をしていても、
恭司さんが
「やっぱり内田有紀だったら学ランだろ」
とかって、いきなり言うわけです。
──
学ラン‥‥。
新谷
意味わかんないでしょ? 脈絡がない。
でも、北村道子さんも「学ランいいね」って。
意味不明の会話が頭上で飛び交うわけ。
最後は好きにやってくれという気持ちになり、
「あんたたちがやりたいように、
オレは編集者としてあらゆる努力をするから」
ということになりまして。
──
悟りの境地に至ったと(笑)。
新谷
当日、北村さんが持ってきた学ランを見たら、
袖もボタンもちぎり取って、
洗濯機で何十回も洗いをかけたものでした。
そのわけのわからない代物を、
内田有紀さんに裸の上から着てもらいました。
で、柘植さんが髪型をツンツンにして、
恭司さんが
でかいカメラでバシャッと撮った表紙がこれ。

──
学ランだとはわからないです、一見。
新谷
異常なインパクトでした。
──
カッコいいです。すごく。
新谷
宗教美術のイコンみたいなものが
撮れちゃったな、なんて恭司さんは言ってた。
実際、わたしもそう思いましたし。
──
ご自身がそうしているのと同じように、
スタッフの方にも、
好きなようにやってもらっていた、と。
新谷
編集の仕事のひとつの側面って、
そういうことだろうなあと思っています。
自分のやりたいことをやるのはもちろん、
自分が信じた才能に対しては、
現実的なブレーキは
極力かけないように努力をすることだと。
──
なるほど。
新谷
一流のクリエイターに
思い切りフルスイングしてもらうための
環境づくりをすることが、
編集者としての仕事のひとつなんです。
実際に、彼らに自由にやってもらえたら、
とんでもないものができるから。
──
この表紙の内田有紀さんも残りますよね。
見た人の記憶に、ずっと。
新谷
ただ、粛清の歴史も語ると(笑)、
「表紙が原因で、思ったほど売れてない」
と社内的には判断されてしまい。
わたしは表紙の担当から外されたんです。
で、その後、30歳のときに移ったのが、
『週刊文春』だったんです。
──
のちに編集長となって、
「文春砲」を連発することになる週刊誌。
新谷
文藝春秋では、新入社員の時代に
『週刊文春』に行くことが多いんですよ。
だから、けっこう遅かったんです。
──
新人が週刊誌記者になるんですか。
新谷
そう。
──
意外でした。経験豊富なツワモノたちを、
引っ張ってきてるのかと思いきや。
でも『週刊文春』の場合は、
これまでの編集部でやってきた仕事とは
ぜんぜんちがうでしょうし、
付き合う人も、ガラっと変わりますよね。
新谷
まったくちがいましたね。
必要になる頭も筋肉も、人との繋がりも。
──
どうやって開拓していったんですか。
新谷
わたしはずっと編集者をやってたから、
記者として自分で取材して、
記事を書いたことはほとんどなかった。
で、異動になったのは、
オウム真理教の事件が起きた1995年。
──
ああ、あの年‥‥。
新谷
記者には「ネタ元」が必要なんですけど、
そんなものありませんし、
最初は取材の仕方さえわからないんです。
だから、当時、南青山にあった
オウム真理教の道場に通って、
そこに張り込んでいた
他の媒体の記者に名刺を配り歩きました。
「右も左もわからないので、
いろいろ教えてもらえませんでしょうか」
って言いながら。
──
同業他社の人の助けを借りたんですか。
新谷
もちろん「忙しいから」って
相手にしてくれない人もいましたけど、
喫茶店で話をしてくれたり、
ポケベルの連絡先を教えてくれたり、
親切な人もいたんです。
そうやって、人脈を広げていきました。
「警視庁の記者クラブの連中と
メシに行くんだけど、おまえも来るか?」
と誘ってくれる人がいたりね。
もう、よろこび勇んで飛んで行ったけど。
──
へええ‥‥。
新谷
最初の1年間は、そういうような活動を、
地道にやっていました。
そしたら、徐々に風景が変わってきた。
週刊誌記者の仕事って、
毎週毎週いろんな事件に直面するんです。
詳しいとか詳しくないとか、
興味があるとかないとか関係ないんです。
──
好きなことを好きなように、の時代とは、
うって変わって。
新谷
そうです。現場に放り込まれたら、
一夜漬けに次ぐ一夜漬けで、
とにかく取材して、記事を書きまくった。
そこで出会う有象無象の人たちのなかで、
これはという人を見つけたら、
連絡を取って、知り合いを増やしていく。
──
そうやって、ネタ元や協力者を増やして。
新谷
最初の『Number』の編集部では、
カッコいい誌面をつくれる人間がえらい、
という空気があったんです。
でも『週刊文春』では、まったくちがう。
ネタを取ってくる人間がえらい。
スクープを取る人間が評価されるんです。
──
カッコいい誌面とか、関係なく。
新谷
編集部内にさえ、重要情報を持つ記者たちの
閉鎖的なコミュニティがあった。
編集部の隅に集まってヒソヒソ話をしていて、
わたしが近くを通るとピタッと話をやめたり。
──
わあ‥‥。
新谷
情報管理が生命線だから当たり前なんだけど、
よそ者扱いされているみたいで、
当初そのことが、すごく悲しくて、悔しくて。
「オレもいつかは、
あのコミュニティの中に入れる人間になるぞ」
って、ずっと思ってました。

──
新谷さんが『Number』のときに感じていた
「編集の楽しさ」は、
『週刊文春』では、どうなったんですか。
新谷
また別の楽しさに気づきました。
異動直後に地下鉄サリン事件が起きたんです。
いろいろ取材してから夕方編集部に戻ったら、
これまで『週刊文春』では、
まだ一度も原稿を書いていなかったのに、
「おまえがトップ記事を書け」って言われて。
──
えっ。
新谷
締切はすぐそこで、みんな取材に出てるし、
誰にも教えてもらえないし、
そもそも教わるの嫌だし‥‥という中、
各地に散った取材記者からのデータ原稿が、
続々と上がって来るわけです。
──
ひゃー‥‥。
新谷
一瞬、頭が真っ白になったんだけど、
とにかく、データ原稿を読み続けたんです。
そしたら各路線、各車両で起こったことが、
徐々に時系列で見えてきたんです。
──
おお。
新谷
そう、それらデータ原稿ひとつひとつを
車両ごとに整理し、
同時進行のドキュメントみたいな感じで、
事件を再現するような記事を、
夜を徹して、必死で書きました。
そしたら後日、われわれの大先輩である
立花隆さんが、
おもしろいと言ってくれたそうなんです。
──
わあ、文春出身の「知の巨人」が。
新谷
もう、泣くほどうれしくてね。
はじめて書いた原稿を、
あの立花さんが褒めてくれたのかって。
それで「オレ、週刊誌できるかも」と、
思うことが出来たんです。
──
はあ‥‥いい話です。
新谷
ただ、そうやって
「オウムをどんどん取材していくぞ!」
と奮い立ったんだけど、
ニュースソースを持っていない人間は、
やっぱり「何も書けない」んです。
だから、上から「今週はこれ取材して」
というネタを、
最初はがむしゃらに書くしかなかった。
──
以前の『Number』のころ編集観とは、
だいぶ、ちがっていますね。
新谷
でもね、思えばそのことも、
すごく大事だったなあって思うんです。
──
あ、そうですか。
新谷
やっぱり30歳なんて、
まだまだヒヨッコの駆け出しですから。
自分がやりたいって思ったことを
やりたいようにやって、
それでおもしろがってるなんて、
ちっちゃかったなあっていう気もした。
──
ああ‥‥。
新谷
でも『週刊文春』に移って、
がむしゃらに食らいついていくうちに、
もっと広い海というか、
いろんな世界があることを知りました。
自分の内側に眠っていた別の可能性も、
感じることができたんです。
──
思いもよらなかった世界に、出会えた。
新谷
そう、だから、若いうちはできるだけ、
自分の資質や適性を、
自分で決めつけないほうがいいと思う。
これがやりたいと思ったら、
そのために必要なスキルだけを追求し、
無駄なことは一切やらず、
合理的に最短距離を行こうとする人も、
いるかもしれないけど。
──
ええ。
新谷
それって、すごくもったいないことで。
──
寄り道にも意味があるってことですね。
自分の世界は「狭い」し、
若いうちは流されることも大事だ、と。
新谷
それに、自分の考える自分の適性って、
本当の自分の適性とは、
必ずしもイコールじゃないこともある。
いろんな仕事を経験させてもらって、
はじめて気づけることもありますから。
──
やはり「ブレーキをかけないこと」が、
大切なんですね。
自分の「素質」や「適正」に対しても。
新谷
そうだと思いますね。

2021-08-11-WED

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  • 新谷学編集長の月刊『文藝春秋』9月号と
    新刊『獲る・守る・稼ぐ
    週刊文春「危機突破」リーダー論』発売!

    来年2022年に創刊100周年を迎える
    月刊『文藝春秋』の編集長に
    就任した新谷さん。
    はじめて手掛けた9月号が
    この8月10日(火)に発売となります。
    第165回芥川賞受賞作2作の
    全文掲載号
    です。
    今回のインタビューの第5回で
    「日本の真ん中で本音を言う雑誌」を
    目指すとおっしゃっている、
    新谷新編集長。
    正直に白状いたしますと、
    これまでそんなに読んだことのなかった
    月刊『文藝春秋』ですが、
    新谷さんがつくっているのか‥‥
    と思うと、
    がぜん読んでみたい雑誌になりました。
    また、新谷さんの新刊
    『獲る・守る・稼ぐ
    週刊文春「危機突破」リーダー論』

    発売中。
    エピソードがとにかく生々しくて刺激的。
    あの、みんなが知ってるスクープの裏に、
    そんなことが‥‥という驚きに加えて、
    そこから導き出される
    稼ぐ論・リーダー論・危機管理論等の
    説得力。
    たいへんおもしろいです。ぜひご一読を。

  • ※この連載は「ほぼ日の學校」で収録した授業内容に
    追加取材を加えて構成・編集しています。