「ほぼ日」はなんと、2024年6月6日で26歳。
創刊記念日企画として、ことしは「おいしいもの」で
自分たちの26年を振り返ってみることにしました。
歴史を語ってくれる人はいないかな、と思ったら
‥‥なんと意外なところに、よさそうな方が。
懐かしい方、けっこういるのでは?
自炊老人さま、どうぞよろしくおねがいしまーす!
自炊老人(じすいろうじん)
自称99歳、このうえなく料理が好きなのに
ほとんど自分と身内のためにしか
料理をしない家庭料理人。
拠点はどうやら東京だが、よく旅に出る。
旅先でも基本、自炊設備のある宿を探し、
その土地のうまい食材で
自炊をしながら暮らしている。
「ほぼ日」では鼠穴時代に
「がんばれ自炊くん!」というコンテンツを担当。
読者とのコール&レスポンスで、
さまざまな自炊レシピを紹介してきた。
その連載は、リリー・フランキーさんによる
装丁・挿画で角川書店から単行本にまとめられたあと、
大幅な加筆と編集、
リリー氏書き下ろしのイラストを加えて
2分冊の文庫本になっている。
文庫本バージョンは「実は『自炊くん』が調理を通じて
成長していくビルドゥングスロマンじゃ!」
ということなので、探して読んでみてください。
- もぐもぐもぐ‥‥、ああ、うまい。
麻布十番の「浪花家総本店」の鯛焼きの
アツアツでホクホクでなんとうまいことか。もぐもぐ‥‥。
しかしこうして「うまいあんこの菓子」を
麻布十番くんだりで食べておると、
ちょいと足をのばして魚籃坂を上って、
伊皿子の「松島屋」まで
豆大福を買いに行くべきじゃろうか?
Googleマップによると、徒歩30分か。
ちと遠いのう、どうしようかのう‥‥。
ひとまず焼きそばを食べながら考えるか。
すまんのう、焼きそば大盛をひとつ追加じゃ!
おっと、かき氷はあとで頂くよ。 - ‥‥ん? なんじゃ? 「ほぼ日」の田中?
自炊老人さまですかと?
ああ、そんな名前で呼ばれたこともあったのう。 - あれは「ほぼ日」が鼠穴という場所にあった
平成12年の初夏のことじゃった、
世界中にちらばっている「ほぼ日」の読者といっしょに
自炊についてのヒントやレシピを共有するコンテンツを
ナビゲートしてくれと依頼をもらったのは‥‥。
それが連載「がんばれ自炊くん!」で、
平成18年まで続き、
リリー・フランキー氏とともに
単行本をつくり、それがのちに2冊の文庫本になった。
ずいぶんたのしい思いをさせてもらったよ。
- しかし、それから、わし、
「ほぼ日」には一度も登場しておらんのじゃが、
こんな老いぼれに何用あってのことじゃ?
わしの役割はすっかり終わったと思っていたが‥‥。 - すると、田中がこんなことを言った。
「創刊記念日に、これまでに登場した
『おいしいもの』で歴史を振り返りたいので、
コンテンツを読み返して
解説をおねがいします」
- ‥‥なんじゃと?
- たしかに田中が入社するよりずっと前のことは
わしのほうが詳しいかもしれんし、
「がんばれ自炊くん!」の連載終了後も、
「ほぼ日」の「おいしいもの」を、
わしは、ほぼすべて、チェックしておる。
コンテンツも読んでいるし買い物もする。
うまくないものを出したら文句を言わねばと思っているが、
今のところそういうことは、一度も、なーい!
すばらしいことじゃな。 - しかし「ほぼ日」も26年か。
長いのう。
「ほぼ日」のオフィ~スがあった東麻布、
そして魚籃坂下、青山の骨董通りに青山三丁目、
そして外苑前をへて神田錦町か。
ま、いずれもわしの昔なじみのエリアじゃから、
そんな視点でも解説ができるかもしれん。
よかろう、承る。
こんなじじぃの独り言でよければ、
協力させてもらうよ。 - しかし「ほぼ日のおいしいもの」は膨大じゃぞ!
こんなにたくさんの「おいしいもの」を紹介している
メディアは、ないのではないか。
かつ、わしの記憶もあいまいじゃ、
それを網羅した資料はあるのか?
そうか、昨年の株主ミーティング用につくった
「ほぼ日のおいしいもの年表」があるか。
それではそれをベースに解説をしていこう。
- なになに? なるほど、
創刊26周年記念イベントでは
乗組員たちが入社したビルごとに分かれ、
思い出の味を訪ね、レポートすると?
そうしたら、ざっくり、
ビルごとに紹介していくのがよさそうじゃ。 - ではさっそ‥‥あ、いや、焼きそばが来たぞ。
まずはこれを食べてから‥‥ずず、ずずず。
ああ、あふあふ、うまい! 浪花屋の焼きそばは
ソース味なのにじつにサッパリと食べられるんじゃ。
具はあえての少なめで、麺が主役なところもいい。
鉄板で調理するからほどよくソースが麺にしみこんで、
べとべとせずにさらりとしている。
屋台を思い出す昭和の味と言えなくもないが、
しっかり令和にも生きておる味じゃな。 - ということで、ここ麻布十番からすぐ、
新一の橋を超えた東麻布エリアの
「鼠穴」時代から紹介じゃな!
- 「鼠穴(ねずあな)」は、
狸穴(まみあな)公園が近いのをもじりつつ、
「鼠穴(ねずみあな)」という落語の演目でもあり、
また「ほぼ日」が尊敬する書家・
井上有一さんの書いた言葉でもある。
また、広告をやめた糸井氏が
インターネットの大海に出てゆく気持ちを
「窮鼠猫を噛む」になぞらえたことから付けられた名ときく。
たしかに当時は誰も「東麻布」と呼ばず、
「鼠穴」と呼んでおったのう。
そして当時はまだ「ほぼ日」という会社は存在していない。
糸井氏の個人事務所「有限会社東京糸井重里事務所」での
旗揚げ、出航じゃった。 - ちなみに現在の最寄り駅は南北線と大江戸線の
ふたつの地下鉄が乗り入れている麻布十番じゃが、
当時は、この地下鉄路線も駅もなく、
このエリアはいわゆる「陸の孤島」じゃった。
その前は表参道駅から徒歩数分で、
しょっちゅう誰かしら遊びに来ていたそうじゃが、
あえて「人があんまり来ない場所にこもって仕事をする」
という気持ちもあったそうじゃ。
しかし鼠穴の立地は電車通勤の乗組員には不便で、
六本木や神谷町から歩くかバスを使うかだったと、
当時からいる乗組員が話しておった。
夜、終電をのがすと、郊外から車で通っていた乗組員や、
糸井氏がみずから車で送ってくれたこともあったという。
- そんな陸の孤島の「鼠穴」であったが、
近所の麻布十番商店街はうまいものの宝庫でな!
鯛焼きの「浪花家」をはじめ、
串モツ焼きの「あべちゃん」、
蕎麦は「更科堀井」など数店の老舗があったし、
魚屋がつくった食堂の「魚可津」には、
わしもよく通ったものじゃ。
焼肉屋も中華料理店も多く、
かの「叙々苑」も近く、うまい焼肉弁当を
糸井氏に御馳走になったこともある。
金のなかった若手乗組員たちには
超高級中華料理の「登龍」のラーメンの出前の価格は
おそろしいほどの高値に感じたというし、
でも名物のおばあちゃんが接客をしていた。
おにぎりと稲荷寿司の「月島家」はリーズナブルだったので
しょっちゅう軽食を買っていたという。
麻布十番を離れた東麻布の住宅街にも、
これまた魚屋が始めた食堂の「魚亀」があって、
たしか乗組員たちは時折行っていたはずじゃよ。 - 「鼠穴」のことはよく覚えている。
住宅地の一隅にある四階建ての一軒家で、
一階は玄関と倉庫と駐車スペース、
靴を脱いで上がると二階に大きなキッチンと
マネジメントのための事務スペース、そして
でかい会議室があった。
らせん階段の終点は三階で
広い板張りのリビングルームがあり、
巨大な緑色のソファが置かれ、
その側に糸井氏がふだんの作業をする広い和室。
奥に乗組員たちが作業をするパソコン部屋があった。
四階にはリビング脇の別の階段で行くことができ、
そこには糸井氏がこもって仕事をするスペース、
もう一部屋は引っ越し当初は糸井氏の友人が使っていたが、
のちに乗組員に開放された。
なんと風呂が各階にあり、自由に使えたので、
「帰らないものども」もたくさんいたようじゃ。
- この二階のキッチンが立派な設備でな!
「とにかくみんなでめしを食おう」
という考えで、そこで料理をする日もあれば、
仕出し弁当をとる日もありで、
ほぼ毎日、夕飯を全員で食っていたそうじゃ。
「こいつらに腹は空かせない」というのが
糸井氏の信念のひとつだったという。 - そんなわけで最初からあったのが、
「ダイニング部に集合してくださーい!」
というコンテンツじゃ。
初代ダイニング部長は
糸井氏のマネジメントチームの一員で、
彼女がつくる料理をみんなで食べ、
その様子を写真とテキストでレポートしていた。
そのうち、ほかの乗組員も料理に参加したり、
社会人になってからモランボン調理師学校に通った
森川幸人さんが韓国料理を作ってくれたり、
プラハのシノさんさんがやってきてチェコ料理をつくる
「プラハの夕べ」があったりと、
けっこういろんな人が来てくれては、
盛り上がっていたそうじゃよ。
- ちなみに食材の買い出しには困らなかったという。
すぐ近所に国際的な食材が揃うスーパーマーケットの
「NISSIN WORLD DELICATESSEN」があったし
(今は向かいに移転した)、
麻布十番にも数軒のスーパーがあった(今もある)。
当時はまだ青果店や鮮魚店も現役だったが、
今、散歩をするとそういう個人商店が
どんどん減っているのは、さすがにちょっと切ない。 - そうそう当時の鼠穴ルールに
「頂き物や、冷蔵庫のもの、
カップラーメンなどの買い置き、
出ているお菓子は乗組員は自由に食べてよし!」
というものがあって、
若き乗組員たちが腹を空かすことはなかった。
全員が食欲旺盛じゃったから、冷蔵庫は常に補充され、
事務所に届く食材の中元や歳暮も
あっという間になくなったらしい。 - ある時、たいへん姿のよい自然薯が届いてのう、
さっそくとろろ汁をつくり、
飯を炊いてうまいうまいとみんなで食べ切り数日後、
糸井氏に「オレに届くはずの自然薯知らない?
おっかしいなあ‥‥」と訊かれ、
青くなったマネジメントチームが
同じものを急いで注文しなおした、
なーんて事件もあったそうじゃよ。 - そういうなかで「がんばれ自炊くん!」も生まれ、
それを通じて読者のかたがたから、
たくさんの自炊レシピを教えてもらった。
あのころ参加してくれたかたで、
いまも読んでますよーというかたは、
どのくらいいることじゃろう? - 鼠穴時代というか、創刊日からずっと続く長寿連載の
食べ物まわりのコンテンツといえば、
渡辺真理さんのお菓子についてのエッセイ
「マリーな部屋」じゃな!
第1回目は「クイニー・アマン」、
1990年代の後半には「ベルギーワッフル」ブームがあって、
それに続けとばかりに流行り始めていたフランス菓子じゃ。
真理さんも、26年、本当にたくさんの
おいしいお菓子を教えてくださっておるよ。
- そして2001年、2年いた東麻布の鼠穴から、
立派なオフィ~スビルの4階に
「ほぼ日」は引っ越すことになった。
「これからは靴を履いて仕事をする!」と、
みんなが沸き立っていたのを覚えておる。 - 引っ越し先は魚籃坂下、住所は三田四丁目じゃった。
近くに2000年に地下鉄の「白金高輪駅」ができ、
いまや都心の再開発エリアといえば白金高輪、
と言われるほどの人気地区となっているが、
当時はまだまだのんびりとした雰囲気があった。
引っ越し先のビルはお寺の持ち物で、
周辺もお寺や墓地が多く、その雰囲気から
どうにも「しっとり」「ひっそり」とした印象が
あったように思う。
そんな魚籃坂下をちょっとだけ明るくしたい、
という糸井氏の提案で
ビルを「明るいビル」と名付けた。
ほかのフロアはすべて
格闘家・高阪剛氏の紹介で知り合った
ケビン山崎氏のジムが入ったので、
一棟まるごと関係者で使うことができ、
ビルの名前を変えるという
「おもしろい試み」ができたんじゃな。
いまは建物は残っているものの、
名前は変更されておるな。
- 白金高輪エリアで「うまいもの」を探すと、
じつは名店が多い。
フランス料理の名店
「コート・ドール」も同じ三田エリアにあり、
記念日に皆で食べに行ったという。
すこし歩いて三光通り商店街に行けば
いまは広尾に移転した蕎麦屋「三合菴」があったし、
つまみのうまい飲み屋としては
沖縄料理の「アダン」や九州料理の「福わうち」があった。
魚籃坂を上れば先ほども言った餅菓子屋の「松島屋」があり、
坂の途中には「水を出しません」という
謎の多い薬膳スパイスカレー屋。
そして今や日本を代表するパン屋となった
「MAISON KAYSER」の第一号店がすぐ近所に出来た。
その隣にはちょいとバタ臭いインテリアの洋食屋があって
名前を覚えていないのじゃが、
みなは「ハワイアン」と呼んでいた。 - 昼飯や夕飯に買い出しに行くのは、
「上ピーか下ピー」が多かったと、当時の乗組員たちは言う。
スーパーマーケットのピーコック(Peacock)が、
魚籃坂上に1軒、魚籃坂下にも1軒、あったんじゃ。
系列店なので惣菜や弁当は
同じものが置かれているはずなんじゃが、
「上ピーのほうがおいしい」という都市伝説があり、
乗組員たちはわざわざ坂を上って
昼飯や夕飯を買いに行ったそうじゃ。
- 明るいビルの「おいしい思い出」というと、
コロッケパーティーかもしれんのう。
明るいビルにもキッチンがあったが、
もともとお寺の研修施設だったということで、
広さははあったが、鼠穴時代ほどの活用はしなかった。
そんな中、糸井氏が昔っから本当に大好きなコロッケを
糸井氏の誕生日にたっぷり揚げて、
みんなで食べよう! となったという。
いまコンテンツを見返してみたが、
コロッケパーティー、いいではないか、
ぜひまたやっとくれ!
- 全国の読者のかたに呼びかけて、
日本中のうまいコロッケを紹介する
「コロッケ地図。」を作ったのもこの時期じゃ。 - 糸井氏はコロッケ愛にあふれるお人で、
のちには『ぼくの好きなコロッケ。』という
タイトルの本まで出しているし、
そこではあの横尾忠則さんに
じゃがいもをモチーフにした装丁をしていただいたり、
飯島奈美さんに
「僕のコロッケ」のレシピもつくってもらったりした。
- ちなみに鼠穴時代から
皆がたまに行っていた都心のコロッケ屋といえば
西麻布の「三河屋」(フライ定食屋)じゃったが、
残念なことにここも閉店してしまった‥‥。 - 「ほぼ日公式ラーメン・サルのおせっかい」を
日清食品さんといっしょにつくったのも
明るいビルでの思い出じゃな。
今でこそ、コラボ系のカップラーメンは
珍しくないかも知れないが、
当時はなかなかのセンセーションじゃった。
糸井氏がなんども試食とアドバイスを繰り返して
つくっていった「こがし醤油&にんにく味」スープに、
「スッパイス」というすっぱい顆粒の小袋がついていて、
最初から入れてもよし、
途中で味変をしてもよし、というものだったんじゃよ。
(味変、なんていう言葉、当時、あったかのう?!)
ほんとにうまくてな、たしか当時は
箱買いして毎日食べていた乗組員もおったよ。
‥‥わしもじゃー!
- 「永田農法」の永田照喜治先生との
つながりも「明るいビル」時代の
大事な歴史の1ページじゃ。
当時、「ほぼ日」では「SKIP」という
ユニクロが運営していた永田農法による
野菜事業のお手伝いをしていたんじゃが、
永田農法で作られたトマトやらたまねぎやら、
野菜がとんでもなくうまくてのう。
永田先生とのご縁で、
酒米を玄米に近い状態から醸造した珍しい日本酒
「有りがたし」(糸井氏命名)の酒粕を売ったりもした。
永田農法とのつながりはさらにいろいろあり、
NHKと組んで野菜作りの番組をつくり
DVDを販売したこともあったし、
乗組員のゆーないとが農業研修で
永田先生の浜松の自宅に1ヶ月暮らしたりもしたんじゃ。
ちなみに、ずいぶんのちに販売がはじまる
「おらがトマト」も永田農法で作られた
北海道・余市のトマトのジュースじゃよ。
- ほかにもうまいもののコンテンツはたくさんあった。
前述した「コート・ドール」のレジェンド料理人、
斉須政雄さんの「調理場という戦場」の連載、
外食産業コンサルタントサカキシンイチロウさんの
「おいしい店とのつきあい方。」、
いまも続く「イタリアンマンマの直伝レシピ」の連載が
はじまったりもした。
ほんとにたくさんの方に、おいしいものまわりの
いろんな智慧や面白い話、楽しい話を
教えてもらってきたんじゃ。 - そうそう「土曜日のドレッシング」を
覚えている方はおいでかな?
買いましたよという方はそうそうおられないかもしれん。
これは「ほぼ日」初期からの連載陣である
カグチヒナコさん(=樋口可南子さん)が見つけた、
長野県のイタリアンレストランのおいしいドレッシングを
通販・直送してしまおうというこころみじゃった。
なーんとアッキィ画伯ことアートディレクターの秋山具義氏の
「手描きラベル」つきで限定50人に販売したんじゃ。
(わしはレストランのある
木島平まで行って食べた! うまかった~!)
- 「ミーちゃんちのお隣のケーキ、売ります」
というコンテンツがはじまったのも、この頃じゃ。
群馬のSchwestern Hausというケーキ屋さんが
1年に1回、冬の時期だけ、
おいしいザッハトルテを販売しとるんじゃが、
その販売を「ほぼ日」がお手伝したのがきっかけで、今に至る。
届いたケーキを喜び、
家族でナイフを入れて食べる嬉しさを
「ほぼ日」乗組員が偽家族になって演じる
「ザッハトルテ家族」なんて読みものを、
一時期はやっとったりしたのう。
- 続いての引っ越し先は、青山の骨董通り、
246(青山通り)近くにある「第2九曜ビル」じゃった。
「み、みなみあおやま?!」と、
乗組員たちは浮足だった。
たしかに三田も港区ではあったが、
当時の「南青山」の威光はすさまじかったし、
最寄り駅は表参道じゃ、そりゃコーフンする。
この界隈は超絶ファッショナボーな都会の印象でな、
「隣がスタバなんだって!」というのも興奮材料じゃった。
(当時の白金高輪エリアにスタバはまだなかったんじゃ。) - このあたりは、骨董通りにも、その裏にも、
また246沿いにも、渡って北側の神宮前にも、
表参道方向やら渋谷方面にいたる広いエリアにまで
飲食店がたくさん点在しており、
乗組員たちのランチ事情もぐんとよくなったという。
当時を知るものによれば、よく行った店として、
魚の定食屋「やんも」、
ラーメンの「だるま」、
中華の「ふーみん」「希須林」、
おにぎりの「おひつ膳 田んぼ」、
などの名前が挙がった。 - この時期のおいしいものまわりの伝説的なイベントに、
いまはなき渋谷の電力館でおこなわれた
「カレー部例会@電力館」がある。
なんとタモリさんをお迎えして、
以前からおつきあいのあった
東京カリ~番長のめんめんのサポートのもと、
カレーを作っていただき、
それをお客さんといっしょに食べたんじゃ。
リリー・フランキー氏にみうらじゅん氏、
山下洋輔氏も参加という、
相当豪華でちょっとサブカルなイベントじゃった。
(タモリさんのカレーのレシピは
いまでもこのページで見られるぞ!)
- カレーと「ほぼ日」のつながりは長く深い。
というのも、そもそもは糸井氏のカレー好きに端を発する。
「ほぼ日」をはじめる前、
河口湖に釣りに行っていた時代に大好きになった
「糸力」(いとりき)という居酒屋のカレー
(かなりサラサラのカレーでな、
わしゃ「カシミール」が好き!)を
「通販生活」という雑誌で紹介したり、
個人的に家で自分好みのカレースパイスづくりを
研究しておったそうなんじゃよ。 - あるとき、糸井氏の誕生日に、
水野仁輔氏と「東京カリ~番長」のめんめんが
「ほぼ日」に来てカレーをつくってくださった。
- そのとき水野氏はあえて
スパイスを調合したカレーではなく、
「市販のルウを使ってパッケージのレシピ通りにつくる」
という方法で、6種類くらいのカレーを用意した。
それが‥‥うまかったそうなんじゃ、とびきり!
その時糸井氏は、
「市販のルウってこんなにおいしいんだ!」
と感激し、それが氏のカレーづくりの転換点となった。
「自分にとってのいちばん好きなカレーは、
市販のカレールウを使ってつくるカレーだ」
と思った糸井氏は、
「市販のルウを使ったおいしいカレーの作り方」を
模索しはじめ、
それが、「ほぼ日」でのちに販売するスパイスミックス、
家のカレーに足して使う「カレーの恩返し」に
つながっていくんじゃよ。
- わしは「カレーの恩返し」を名作だと思う。
「名前は知ってるけれど」という方のために説明すると、
これは12種類のスパイスをミックスした調味料でな、
いわゆる「カレー粉」ではなく、
珍しい「カレーに追いがけで使う」のものなんじゃ。
つまり好みのルウでつくったカレーに、
これを最後に適量入れてひと煮立ちさせるか、
皿によそってから振りかけると、
いつものカレーが華やかな味わいのスパイスカレーになる、
というものじゃ。
- ちなみに「カレーの恩返し」の
パッケージデザインは、
先ほども登場したアッキィ画伯こと秋山具義氏。
「ほぼ日」のおサル(名はモンボという)のデザインなどなど
大昔からお世話になっとる素晴らしいデザイナーじゃが、
このお人もずいぶんなグルメでのう、
TVや雑誌やネットメディアでの活躍を
ご存知のかたも多かろう。
最近の「ほぼ日の學校」では
「焼き鳥」をテーマにした授業に登場しておるよ。
- さらにカレーの話で恐縮じゃが、
「ほぼ日」のカレー関連コンテンツは多くての、
伊賀の土楽の福森道歩さんがつくってくれた
「ほんとにだいじなカレー皿」は、
ごはんの最後の一粒まですくいやすい、
「ほぼ日」のロングセラーアイテムの一つじゃし、
平野レミさんの和だしを効かせたカレー
「大江戸カレー」のコンテンツなんかも
あったりしたのう。
- ‥‥はっ!
カレーのことばかり語っておったら、
すっかり時間が経ってしまったのう。
続きは次回にしよう。
第2九曜ビルの時期に戻って、
いろんなトピックを紹介させていただくぞ。
ちょっとかき氷、食べて来る。
(浪花屋では一年中食べられるんじゃ!)
(つづきます)
自炊老人イラスト:リリー・フランキー
2024-06-03-MON