「ほぼ日」はなんと、2024年6月6日で26歳。
創刊記念日企画として、ことしは「おいしいもの」で
自分たちの26年を振り返ってみることにしました。
歴史を語ってくれる人はいないかな、と思ったら
‥‥なんと意外なところに、よさそうな方が。
懐かしい方、けっこういるのでは?
自炊老人さま、どうぞよろしくおねがいしまーす!

>自炊老人さんのプロフィール

自炊老人(じすいろうじん)

自称99歳、このうえなく料理が好きなのに
ほとんど自分と身内のためにしか
料理をしない家庭料理人。
拠点はどうやら東京だが、よく旅に出る。
旅先でも基本、自炊設備のある宿を探し、
その土地のうまい食材で
自炊をしながら暮らしている。

「ほぼ日」では鼠穴時代に
「がんばれ自炊くん!」というコンテンツを担当。
読者とのコール&レスポンスで、
さまざまな自炊レシピを紹介してきた。
その連載は、リリー・フランキーさんによる
装丁・挿画で角川書店から単行本にまとめられたあと、
大幅な加筆と編集、
リリー氏書き下ろしのイラストを加えて
2分冊の文庫本になっている。
文庫本バージョンは「実は『自炊くん』が調理を通じて
成長していくビルドゥングスロマンじゃ!」
ということなので、探して読んでみてください。

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1. 鼠穴~明るいビル~ 第2九曜ビル時代のおいしいもの

 
もぐもぐもぐ‥‥、ああ、うまい。
麻布十番の「浪花家総本店」の鯛焼きの
アツアツでホクホクでなんとうまいことか。もぐもぐ‥‥。
しかしこうして「うまいあんこの菓子」を
麻布十番くんだりで食べておると、
ちょいと足をのばして魚籃坂を上って、
伊皿子の「松島屋」まで
豆大福を買いに行くべきじゃろうか? 
Googleマップによると、徒歩30分か。
ちと遠いのう、どうしようかのう‥‥。
ひとまず焼きそばを食べながら考えるか。
すまんのう、焼きそば大盛をひとつ追加じゃ! 
おっと、かき氷はあとで頂くよ。
‥‥ん? なんじゃ? 「ほぼ日」の田中? 
自炊老人さまですかと? 
ああ、そんな名前で呼ばれたこともあったのう。
あれは「ほぼ日」が鼠穴という場所にあった
平成12年の初夏のことじゃった、
世界中にちらばっている「ほぼ日」の読者といっしょに
自炊についてのヒントやレシピを共有するコンテンツを
ナビゲートしてくれと依頼をもらったのは‥‥。
それが連載「がんばれ自炊くん!」で、
平成18年まで続き、
リリー・フランキー氏とともに
単行本をつくり、それがのちに2冊の文庫本になった。
ずいぶんたのしい思いをさせてもらったよ。

▲文庫本になった「がんばれ自炊くん!」 ▲文庫本になった「がんばれ自炊くん!」

 
しかし、それから、わし、
「ほぼ日」には一度も登場しておらんのじゃが、
こんな老いぼれに何用あってのことじゃ? 
わしの役割はすっかり終わったと思っていたが‥‥。
すると、田中がこんなことを言った。

「創刊記念日に、これまでに登場した
『おいしいもの』で歴史を振り返りたいので、
コンテンツを読み返して
解説をおねがいします」

 
‥‥なんじゃと?
たしかに田中が入社するよりずっと前のことは
わしのほうが詳しいかもしれんし、
「がんばれ自炊くん!」の連載終了後も、
「ほぼ日」の「おいしいもの」を、
わしは、ほぼすべて、チェックしておる。
コンテンツも読んでいるし買い物もする。
うまくないものを出したら文句を言わねばと思っているが、
今のところそういうことは、一度も、なーい! 
すばらしいことじゃな。
しかし「ほぼ日」も26年か。
長いのう。
「ほぼ日」のオフィ~スがあった東麻布、
そして魚籃坂下、青山の骨董通りに青山三丁目、
そして外苑前をへて神田錦町か。
ま、いずれもわしの昔なじみのエリアじゃから、
そんな視点でも解説ができるかもしれん。
よかろう、承る。
こんなじじぃの独り言でよければ、
協力させてもらうよ。
しかし「ほぼ日のおいしいもの」は膨大じゃぞ! 
こんなにたくさんの「おいしいもの」を紹介している
メディアは、ないのではないか。
かつ、わしの記憶もあいまいじゃ、
それを網羅した資料はあるのか? 
そうか、昨年の株主ミーティング用につくった
「ほぼ日のおいしいもの年表」があるか。
それではそれをベースに解説をしていこう。

▲ほぼ日のおいしいもの年表 ▲ほぼ日のおいしいもの年表

 
なになに? なるほど、
創刊26周年記念イベントでは
乗組員たちが入社したビルごとに分かれ、
思い出の味を訪ね、レポートする
と? 
そうしたら、ざっくり、
ビルごとに紹介していくのがよさそうじゃ。
ではさっそ‥‥あ、いや、焼きそばが来たぞ。
まずはこれを食べてから‥‥ずず、ずずず。
ああ、あふあふ、うまい! 浪花屋の焼きそばは
ソース味なのにじつにサッパリと食べられるんじゃ。
具はあえての少なめで、麺が主役なところもいい。
鉄板で調理するからほどよくソースが麺にしみこんで、
べとべとせずにさらりとしている。
屋台を思い出す昭和の味と言えなくもないが、
しっかり令和にも生きておる味じゃな。
ということで、ここ麻布十番からすぐ、
新一の橋を超えた東麻布エリアの
「鼠穴」時代から紹介じゃな!

 
「鼠穴(ねずあな)」は、
狸穴(まみあな)公園が近いのをもじりつつ、
「鼠穴(ねずみあな)」という落語の演目でもあり、
また「ほぼ日」が尊敬する書家・
井上有一さんの書いた言葉でもある。
また、広告をやめた糸井氏が
インターネットの大海に出てゆく気持ちを
「窮鼠猫を噛む」になぞらえたことから付けられた名ときく。
たしかに当時は誰も「東麻布」と呼ばず、
「鼠穴」と呼んでおったのう。
そして当時はまだ「ほぼ日」という会社は存在していない。
糸井氏の個人事務所「有限会社東京糸井重里事務所」での
旗揚げ、出航じゃった。
ちなみに現在の最寄り駅は南北線と大江戸線の
ふたつの地下鉄が乗り入れている麻布十番じゃが、
当時は、この地下鉄路線も駅もなく、
このエリアはいわゆる「陸の孤島」じゃった。
その前は表参道駅から徒歩数分で、
しょっちゅう誰かしら遊びに来ていたそうじゃが、
あえて「人があんまり来ない場所にこもって仕事をする」
という気持ちもあったそうじゃ。
しかし鼠穴の立地は電車通勤の乗組員には不便で、
六本木や神谷町から歩くかバスを使うかだったと、
当時からいる乗組員が話しておった。
夜、終電をのがすと、郊外から車で通っていた乗組員や、
糸井氏がみずから車で送ってくれたこともあったという。
 
そんな陸の孤島の「鼠穴」であったが、
近所の麻布十番商店街はうまいものの宝庫でな! 
鯛焼きの「浪花家」をはじめ、
串モツ焼きの「あべちゃん」、
蕎麦は「更科堀井」など数店の老舗があったし、
魚屋がつくった食堂の「魚可津」には、
わしもよく通ったものじゃ。
焼肉屋も中華料理店も多く、
かの「叙々苑」も近く、うまい焼肉弁当を
糸井氏に御馳走になったこともある。
金のなかった若手乗組員たちには
超高級中華料理の「登龍」のラーメンの出前の価格は
おそろしいほどの高値に感じたというし、
でも名物のおばあちゃんが接客をしていた。
おにぎりと稲荷寿司の「月島家」はリーズナブルだったので
しょっちゅう軽食を買っていたという。
麻布十番を離れた東麻布の住宅街にも、
これまた魚屋が始めた食堂の「魚亀」があって、
たしか乗組員たちは時折行っていたはずじゃよ。
「鼠穴」のことはよく覚えている。
住宅地の一隅にある四階建ての一軒家で、
一階は玄関と倉庫と駐車スペース、
靴を脱いで上がると二階に大きなキッチンと
マネジメントのための事務スペース、そして
でかい会議室があった。
らせん階段の終点は三階で
広い板張りのリビングルームがあり、
巨大な緑色のソファが置かれ、
その側に糸井氏がふだんの作業をする広い和室。
奥に乗組員たちが作業をするパソコン部屋があった。
四階にはリビング脇の別の階段で行くことができ、
そこには糸井氏がこもって仕事をするスペース、
もう一部屋は引っ越し当初は糸井氏の友人が使っていたが、
のちに乗組員に開放された。
なんと風呂が各階にあり、自由に使えたので、
「帰らないものども」もたくさんいたようじゃ。

▲ソファのあった三階リビングルーム ▲ソファのあった三階リビングルーム

 
この二階のキッチンが立派な設備でな! 
「とにかくみんなでめしを食おう」
という考えで、そこで料理をする日もあれば、
仕出し弁当をとる日もありで、
ほぼ毎日、夕飯を全員で食っていたそうじゃ。
「こいつらに腹は空かせない」というのが
糸井氏の信念のひとつだったという。
そんなわけで最初からあったのが、
「ダイニング部に集合してくださーい!」
というコンテンツじゃ。
初代ダイニング部長は
糸井氏のマネジメントチームの一員で、
彼女がつくる料理をみんなで食べ、
その様子を写真とテキストでレポートしていた。
そのうち、ほかの乗組員も料理に参加したり、
社会人になってからモランボン調理師学校に通った
森川幸人さんが韓国料理を作ってくれたり
プラハのシノさんさんがやってきてチェコ料理をつくる
「プラハの夕べ」があったりと
けっこういろんな人が来てくれては、
盛り上がっていたそうじゃよ。

▲ある日の「ダイニング部」 ▲ある日の「ダイニング部」

 
ちなみに食材の買い出しには困らなかったという。
すぐ近所に国際的な食材が揃うスーパーマーケットの
「NISSIN WORLD DELICATESSEN」があったし
(今は向かいに移転した)、
麻布十番にも数軒のスーパーがあった(今もある)。
当時はまだ青果店や鮮魚店も現役だったが、
今、散歩をするとそういう個人商店が
どんどん減っているのは、さすがにちょっと切ない。
そうそう当時の鼠穴ルールに
「頂き物や、冷蔵庫のもの、
カップラーメンなどの買い置き、
出ているお菓子は乗組員は自由に食べてよし!」
というものがあって、
若き乗組員たちが腹を空かすことはなかった。
全員が食欲旺盛じゃったから、冷蔵庫は常に補充され、
事務所に届く食材の中元や歳暮も
あっという間になくなったらしい。
ある時、たいへん姿のよい自然薯が届いてのう、
さっそくとろろ汁をつくり、
飯を炊いてうまいうまいとみんなで食べ切り数日後、
糸井氏に「オレに届くはずの自然薯知らない? 
おっかしいなあ‥‥」と訊かれ、
青くなったマネジメントチームが
同じものを急いで注文しなおした、
なーんて事件もあったそうじゃよ。
そういうなかで「がんばれ自炊くん!」も生まれ、
それを通じて読者のかたがたから、
たくさんの自炊レシピを教えてもらった。
あのころ参加してくれたかたで、
いまも読んでますよーというかたは、
どのくらいいることじゃろう? 
鼠穴時代というか、創刊日からずっと続く長寿連載の
食べ物まわりのコンテンツといえば、
渡辺真理さんのお菓子についてのエッセイ
「マリーな部屋」じゃな! 
第1回目は「クイニー・アマン」
1990年代の後半には「ベルギーワッフル」ブームがあって、
それに続けとばかりに流行り始めていたフランス菓子じゃ。
真理さんも、26年、本当にたくさんの
おいしいお菓子を教えてくださっておるよ。

▲第1回目の「クイニー・アマン」 ▲第1回目の「クイニー・アマン」

2つめの場所 明るいビル時代 (2001~)

 
そして2001年、2年いた東麻布の鼠穴から、
立派なオフィ~スビルの4階に
「ほぼ日」は引っ越すことになった。
「これからは靴を履いて仕事をする!」と、
みんなが沸き立っていたのを覚えておる。
引っ越し先は魚籃坂下、住所は三田四丁目じゃった。
近くに2000年に地下鉄の「白金高輪駅」ができ、
いまや都心の再開発エリアといえば白金高輪、
と言われるほどの人気地区となっているが、
当時はまだまだのんびりとした雰囲気があった。
引っ越し先のビルはお寺の持ち物で、
周辺もお寺や墓地が多く、その雰囲気から
どうにも「しっとり」「ひっそり」とした印象が
あったように思う。
そんな魚籃坂下をちょっとだけ明るくしたい、
という糸井氏の提案で
ビルを「明るいビル」と名付けた。
ほかのフロアはすべて
格闘家・高阪剛氏の紹介で知り合った
ケビン山崎氏のジムが入ったので、
一棟まるごと関係者で使うことができ、
ビルの名前を変えるという
「おもしろい試み」ができたんじゃな。
いまは建物は残っているものの、
名前は変更されておるな。

▲もと「明るいビル」にみんなで ▲もと「明るいビル」にみんなで

 
白金高輪エリアで「うまいもの」を探すと、
じつは名店が多い。
フランス料理の名店
「コート・ドール」も同じ三田エリアにあり、
記念日に皆で食べに行ったという。
すこし歩いて三光通り商店街に行けば
いまは広尾に移転した蕎麦屋「三合菴」があったし、
つまみのうまい飲み屋としては
沖縄料理の「アダン」や九州料理の「福わうち」があった。
魚籃坂を上れば先ほども言った餅菓子屋の「松島屋」があり、
坂の途中には「水を出しません」という
謎の多い薬膳スパイスカレー屋。
そして今や日本を代表するパン屋となった
「MAISON KAYSER」の第一号店がすぐ近所に出来た。
その隣にはちょいとバタ臭いインテリアの洋食屋があって
名前を覚えていないのじゃが、
みなは「ハワイアン」と呼んでいた。
昼飯や夕飯に買い出しに行くのは、
「上ピーか下ピー」が多かったと、当時の乗組員たちは言う。
スーパーマーケットのピーコック(Peacock)が、
魚籃坂上に1軒、魚籃坂下にも1軒、あったんじゃ。
系列店なので惣菜や弁当は
同じものが置かれているはずなんじゃが、
「上ピーのほうがおいしい」という都市伝説があり、
乗組員たちはわざわざ坂を上って
昼飯や夕飯を買いに行ったそうじゃ。

▲明るいビルのキッチンにて ▲明るいビルのキッチンにて

 
明るいビルの「おいしい思い出」というと、
コロッケパーティーかもしれんのう。
明るいビルにもキッチンがあったが、
もともとお寺の研修施設だったということで、
広さははあったが、鼠穴時代ほどの活用はしなかった。
そんな中、糸井氏が昔っから本当に大好きなコロッケを
糸井氏の誕生日にたっぷり揚げて、
みんなで食べよう! となったという。
いまコンテンツを見返してみたが、
コロッケパーティー、いいではないか、
ぜひまたやっとくれ! 

▲コロッケパーティーのひとこま ▲コロッケパーティーのひとこま

 
全国の読者のかたに呼びかけて、
日本中のうまいコロッケを紹介する
「コロッケ地図。」を作ったのもこの時期じゃ。
糸井氏はコロッケ愛にあふれるお人で、
のちには『ぼくの好きなコロッケ。』という
タイトルの本まで出しているし、
そこではあの横尾忠則さん
じゃがいもをモチーフにした装丁をしていただいたり、
飯島奈美さん
「僕のコロッケ」のレシピもつくってもらったりした。

▲『ぼくの好きなコロッケ。』 ▲『ぼくの好きなコロッケ。』

 
ちなみに鼠穴時代から
皆がたまに行っていた都心のコロッケ屋といえば
西麻布の「三河屋」(フライ定食屋)じゃったが、
残念なことにここも閉店してしまった‥‥。
「ほぼ日公式ラーメン・サルのおせっかい」
日清食品さんといっしょにつくったのも
明るいビルでの思い出じゃな。
今でこそ、コラボ系のカップラーメンは
珍しくないかも知れないが、
当時はなかなかのセンセーションじゃった。
糸井氏がなんども試食とアドバイスを繰り返して
つくっていった「こがし醤油&にんにく味」スープに、
「スッパイス」というすっぱい顆粒の小袋がついていて、
最初から入れてもよし、
途中で味変をしてもよし、というものだったんじゃよ。
(味変、なんていう言葉、当時、あったかのう?!)
ほんとにうまくてな、たしか当時は
箱買いして毎日食べていた乗組員もおったよ。
‥‥わしもじゃー! 

▲「ほぼ日公式ラーメン・サルのおせっかい」 ▲「ほぼ日公式ラーメン・サルのおせっかい」

 
「永田農法」の永田照喜治先生との
つながりも「明るいビル」時代の
大事な歴史の1ページじゃ。
当時、「ほぼ日」では「SKIP」という
ユニクロが運営していた永田農法による
野菜事業のお手伝いをしていたんじゃが、
永田農法で作られたトマトやらたまねぎやら、
野菜がとんでもなくうまくてのう。
永田先生とのご縁で、
酒米を玄米に近い状態から醸造した珍しい日本酒
「有りがたし」(糸井氏命名)の酒粕を売ったりもした。
永田農法とのつながりはさらにいろいろあり、
NHKと組んで野菜作りの番組をつくり
DVDを販売したこともあったし、
乗組員のゆーないとが農業研修で
永田先生の浜松の自宅に1ヶ月暮らしたり
もしたんじゃ。
ちなみに、ずいぶんのちに販売がはじまる
「おらがトマト」も永田農法で作られた
北海道・余市のトマトのジュースじゃよ。

▲「おらがトマト」 ▲「おらがトマト」

 
ほかにもうまいもののコンテンツはたくさんあった。
前述した「コート・ドール」のレジェンド料理人、
斉須政雄さんの「調理場という戦場」の連載、
外食産業コンサルタントサカキシンイチロウさんの
「おいしい店とのつきあい方。」
いまも続く「イタリアンマンマの直伝レシピ」の連載が
はじまったりもした。
ほんとにたくさんの方に、おいしいものまわりの
いろんな智慧や面白い話、楽しい話を
教えてもらってきたんじゃ。
そうそう「土曜日のドレッシング」
覚えている方はおいでかな? 
買いましたよという方はそうそうおられないかもしれん。
これは「ほぼ日」初期からの連載陣である
カグチヒナコさん(=樋口可南子さん)が見つけた、
長野県のイタリアンレストランのおいしいドレッシングを
通販・直送してしまおうというこころみじゃった。
なーんとアッキィ画伯ことアートディレクターの秋山具義氏の
「手描きラベル」つきで限定50人に販売したんじゃ。
(わしはレストランのある
木島平まで行って食べた! うまかった~!)

▲「土曜日のドレッシング」のタイトル部分 ▲「土曜日のドレッシング」のタイトル部分

 
「ミーちゃんちのお隣のケーキ、売ります」
というコンテンツがはじまったのも、この頃じゃ。
群馬のSchwestern Hausというケーキ屋さんが
1年に1回、冬の時期だけ、
おいしいザッハトルテを販売しとるんじゃが、
その販売を「ほぼ日」がお手伝したのがきっかけで、今に至る。
届いたケーキを喜び、
家族でナイフを入れて食べる嬉しさを
「ほぼ日」乗組員が偽家族になって演じる
「ザッハトルテ家族」なんて読みものを、
一時期はやっとったりしたのう。

▲「ザッハトルテ家族」より ▲「ザッハトルテ家族」より

3つめの場所 第2九曜ビル時代 (2005~)

 
続いての引っ越し先は、青山の骨董通り、
246(青山通り)近くにある「第2九曜ビル」じゃった。
「み、みなみあおやま?!」と、
乗組員たちは浮足だった。
たしかに三田も港区ではあったが、
当時の「南青山」の威光はすさまじかったし、
最寄り駅は表参道じゃ、そりゃコーフンする。
この界隈は超絶ファッショナボーな都会の印象でな、
「隣がスタバなんだって!」というのも興奮材料じゃった。
(当時の白金高輪エリアにスタバはまだなかったんじゃ。)
このあたりは、骨董通りにも、その裏にも、
また246沿いにも、渡って北側の神宮前にも、
表参道方向やら渋谷方面にいたる広いエリアにまで
飲食店がたくさん点在しており、
乗組員たちのランチ事情もぐんとよくなったという。
当時を知るものによれば、よく行った店として、
魚の定食屋「やんも」、
ラーメンの「だるま」、
中華の「ふーみん」「希須林」、
おにぎりの「おひつ膳 田んぼ」
などの名前が挙がった。
この時期のおいしいものまわりの伝説的なイベントに、
いまはなき渋谷の電力館でおこなわれた
「カレー部例会@電力館」がある。
なんとタモリさんをお迎えして、
以前からおつきあいのあった
東京カリ~番長のめんめんのサポートのもと、
カレーを作っていただき、
それをお客さんといっしょに食べたんじゃ。
リリー・フランキー氏みうらじゅん氏
山下洋輔氏も参加という、
相当豪華でちょっとサブカルなイベントじゃった。
(タモリさんのカレーのレシピは
いまでもこのページで見られるぞ!)

▲「カレー部例会」のひとこま ▲「カレー部例会」のひとこま

 
カレーと「ほぼ日」のつながりは長く深い。
というのも、そもそもは糸井氏のカレー好きに端を発する。
「ほぼ日」をはじめる前、
河口湖に釣りに行っていた時代に大好きになった
「糸力」(いとりき)という居酒屋のカレー
(かなりサラサラのカレーでな、
わしゃ「カシミール」が好き!)を
「通販生活」という雑誌で紹介したり、
個人的に家で自分好みのカレースパイスづくりを
研究しておったそうなんじゃよ。
あるとき、糸井氏の誕生日に、
水野仁輔氏と「東京カリ~番長」のめんめんが
「ほぼ日」に来てカレーをつくってくださった。

▲水野仁輔さん ▲水野仁輔さん

 
そのとき水野氏はあえて
スパイスを調合したカレーではなく、
「市販のルウを使ってパッケージのレシピ通りにつくる」
という方法で、6種類くらいのカレーを用意した。
それが‥‥うまかったそうなんじゃ、とびきり! 
その時糸井氏は、
「市販のルウってこんなにおいしいんだ!」
と感激し、それが氏のカレーづくりの転換点となった。
「自分にとってのいちばん好きなカレーは、
市販のカレールウを使ってつくるカレーだ」
と思った糸井氏は、
「市販のルウを使ったおいしいカレーの作り方」を
模索しはじめ、
それが、「ほぼ日」でのちに販売するスパイスミックス、
家のカレーに足して使う「カレーの恩返し」に
つながっていくんじゃよ。

▲会社でカレーを作る糸井重里(「糸井重里の本能カレー」より) ▲会社でカレーを作る糸井重里(「糸井重里の本能カレー」より)

 
わしは「カレーの恩返し」を名作だと思う。
「名前は知ってるけれど」という方のために説明すると、
これは12種類のスパイスをミックスした調味料でな、
いわゆる「カレー粉」ではなく、
珍しい「カレーに追いがけで使う」のものなんじゃ。
つまり好みのルウでつくったカレーに、
これを最後に適量入れてひと煮立ちさせるか、
皿によそってから振りかけると、
いつものカレーが華やかな味わいのスパイスカレーになる、
というものじゃ。

▲「カレーの恩返し」 ▲「カレーの恩返し」

 
ちなみに「カレーの恩返し」の
パッケージデザインは、
先ほども登場したアッキィ画伯こと秋山具義氏
「ほぼ日」のおサル(名はモンボという)のデザインなどなど
大昔からお世話になっとる素晴らしいデザイナーじゃが、
このお人もずいぶんなグルメでのう、
TVや雑誌やネットメディアでの活躍を
ご存知のかたも多かろう。
最近の「ほぼ日の學校」では
「焼き鳥」をテーマにした授業に登場しておるよ。

▲秋山具義(アッキィ)さん ▲秋山具義(アッキィ)さん

 
さらにカレーの話で恐縮じゃが、
「ほぼ日」のカレー関連コンテンツは多くての、
伊賀の土楽の福森道歩さんがつくってくれた
「ほんとにだいじなカレー皿」は、
ごはんの最後の一粒まですくいやすい、
「ほぼ日」のロングセラーアイテムの一つじゃし、
平野レミさんの和だしを効かせたカレー
「大江戸カレー」のコンテンツなんかも
あったりしたのう。

▲平野レミさんの「大江戸カレーワークショップ」 ▲平野レミさんの「大江戸カレーワークショップ」

 
そして水野仁輔氏は「カレーの学校」を開校、
「ほぼ日」オフィスでの通学講座も毎回盛り上がったし
(現在は独立して運営中)、
「カレーの車」というスパイスカレーの
フードトラックも一時期やったんじゃ。
そのレシピは「オープンソース」として
こちらのページに載っておる。

▲フードトラック「カレーの車」 ▲フードトラック「カレーの車」

 
‥‥はっ!
カレーのことばかり語っておったら、
すっかり時間が経ってしまったのう。
続きは次回にしよう。
第2九曜ビルの時期に戻って、
いろんなトピックを紹介させていただくぞ。
ちょっとかき氷、食べて来る。
(浪花屋では一年中食べられるんじゃ!)

(つづきます)

自炊老人イラスト:リリー・フランキー

2024-06-03-MON

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