1994年に任天堂株式会社より
スーパーファミコン用ソフトとして発売された
『MOTHER2 ギーグの逆襲』。
2024年8月に「ほぼ日曜日」で開催された
『MOTHER2のひみつ。』展では、
当時の開発資料やつくり手たちが手書きした資料、
開発の記録がはじめて公開されました。

イメージをふくらませるために書かれた
開発初期のメモとたくさんのラフスケッチ。
キーワードが記された物語の断片とストーリーの構成。
手描きのメッセージと、完成に向けた修正事項のリスト。
そこにはさまざまなアイデアと
いろいろな工夫がありました。
つくり手が込めた想いと熱量が
その記録と資料にはあふれんばかりに
込められていたのです。

私たちが手に取るゲームソフトはあくまで完成品。
その完成品にたどり着くまでの紆余曲折の道のりは、
これまで明らかになっていませんでした。
今回の展示によって、
『MOTHER 2』のつくり手たちは
長い時間をかけて試行錯誤と選択を重ねていることが
ようやくわかってきました。
そして、その歩みもすんなりとは進まず、
その道のりが平坦ではなかったことも
明らかになったのです。

この展覧会の資料に、あらたな資料を加えた
書籍『MOTHER2のひみつ。』が発売されます。
開発初期のアイデアスケッチから、
『MOTHER 2』プロジェクトの立ち上げ資料、
ストーリーやフローチャート。
キャラクターデザインの
大山功一によるラフスケッチや
ドット絵などが掲載されているギャラリー、
糸井重里が記したゲーム中のセリフ集など、
貴重な資料が満載です。
さらに、糸井重里や開発スタッフの
インタビューを交えて、
320ページの大ボリュームな書籍となっています。

書籍「『MOTHER2』のひみつ。」の発売を記念して、
「ほぼ日MOTHERプロジェクト」では、
本におさまらなかった糸井重里のインタビューや
開発スタッフの大山功一さん、戸田昭吾さん、
丸田康司さんの座談会のこぼれ話をお届けします。
ぜひ、本と合わせて、お読みください。

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第2回 岩田さんに「ハッピーですか?」と聞かれて。

──
『MOTHER2』の開発において大きな転機となったのが、
岩田聡さん(『MOTHER2』では
プログラム・ディレクターを務める)と
ハル研究所の参戦だったそうですね。
ハル研究所は
ファミリーコンピュータの初期から、
任天堂ブランドのソフトを
開発してきたゲームスタジオ。
そして当時のハル研究所の
社長・岩田聡さんはプログラマーとして
数々のソフトを手がけられていた
スーパーエース。
そのトップチームが参加したことで『MOTHER2』の開発状況は
大きく変わったそうですが、みなさんは岩田さんたちを
どのように受けとめていましたか。
丸田
いや、本当にすごかったですね。
岩田さんとハル研の技術が
一気になだれ込んできて、
それまでに僕らがつくっていたものが
一気に動きだしたんです。
戸田
そう。
その時点で開発は停滞していたんですが、
つくりためていた材料は
いくらでもありましたから、
それが一気に組み合って、
動き出したみたいな感じがありました。
だったら、締め切り間際に
いろいろなものを入れちゃえって。
活気が出てきました。
大山
それまではコツコツ作っていたんだけど、
そこからは一気に
ペースが変わっていきましたね。

△写真右から大山功一さん、戸田昭吾さん、
丸田康司さん。 △写真右から大山功一さん、戸田昭吾さん、 丸田康司さん。

──
岩田さんが
『MOTHER2』の現場に入られて
いろいろな変化があったかと思いますが、
印象に残っていることは
どんなことですか?
丸田
岩田さんが
『MOTHER2』チームに合流したときに、
最初に言ったことが
「フロッピー(ディスク)でデータを
やり取りしたらダメですよ」
ということだったんです。
当時は数台の開発用コンピュータ以外のパソコンは
ネットワークでつながってなかったから。
データの受け渡しをするときは
フロッピーディスクにいちいちセーブして、
それでフロッピーそのものを
相手に渡していたんですよ。
大山
3.5インチのフロッピーだっけ?
丸田
そうです。3.5インチです。
戸田
開発現場に山ほどあったね。
──
それで岩田さんから、
そのフロッピーでデータを
扱うことをやめるように言われた、と。
丸田
そうそう。
フロッピーでデータを
やり取りしたらダメですよ、
と言われて。それで、
「丸田さん、
ちょっといっしょに行きましょう」
と誘ってくれて、
パソコン用のLANボードを
買いに行ったんです。
当時、僕らが『MOTHER2』を
開発していた場所は
神田の任天堂支社のビルの一室にあったので、
秋葉原まで2人で歩いていって。
ボードを買ったら、
それを開発室のパソコンに組み込んで。
現場のパソコンをすべて
ローカルネットワークでつないだんです。
だから、
岩田さんが最初にやってくれたことは
『MOTHER2』開発チームの
インフラを作ることからだったんですよね。
「ほぼ日」の立ち上げの話を聞いたときに、
「あ、おんなじことをしてる」って思いました。

△丸田康司さん。 △丸田康司さん。

──
岩田さんの有名な言葉を
覚えていらっしゃいますか。
「いまあるものを活かしながら
手直ししていく方法だと2年かかります。
イチから作り直していいのであれば、
半年でやります」という。
大山
ああ! ありましたね。
戸田
イチからってやつね。
丸田
でも、それを突きつけられたのは
僕たちじゃなかったと思います。
戸田
僕たちが言われたのは
「ハッピーですか?」ですね。
──
「ハッピーですか?」。
それはのちに岩田さんが
任天堂の代表取締役社長に
就任されたあと、
社員に面談をしたときに
おっしゃった質問ですよね。
戸田
そうそう。
岩田さんは僕らにも
聞いてくれたんですよ。
『MOTHER2』の開発に関わっていた
僕ら全員にも面談して。
「戸田さん、ハッピーですか?」と。
たぶん、ゲームを作るチームの中で
「ハッピーでない人」がひとりでもいたら、
まわりの人もだんだんイヤな気持ちに
なってしまうだろうから。
まず、「ハッピーかどうか」を
聞いているのかなって思いましたね。
いわゆる
「腐ったリンゴを摘んでおく」みたいな。
岩田さんはインフラの次に、
開発スタッフのメンタルにも
気を配ってくれたんじゃないかな。

△戸田昭吾さん。 △戸田昭吾さん。

──
岩田さんとハル研究所のみなさんが
参加されたことで、
最初の企画から『MOTHER2』の
中身が変わったことは
あったんでしょうか?
丸田
岩田さんとハル研究所のスタッフが
参加してくださって、
『MOTHER2』開発は進んだんですけど、
僕たちがつくっているものを
尊重してくれていたんですよね。
大山
あるとき、岩田さんが
『MOTHER2』のメッセージウインドウに
「グラデーションで色を付けないか」と
提案してくださったことがあったんです。

△『MOTHER2』のメッセージウインドウ。
ウインドウタイプは、
プレーン、ミント、ストロベリー、
バナナ、ナッツから選べる。 △『MOTHER2』のメッセージウインドウ。 ウインドウタイプは、 プレーン、ミント、ストロベリー、 バナナ、ナッツから選べる。

丸田
当時、スーパーファミコンになって
たくさん色が出せるようになったので、
メッセージウィンドウも
とにかく派手な色グラデーションなどが
付いていたんです。時代ですよね。
それで岩田さんも
見た目で引けを取らないようにと、
ウインドウにグラデーションが
あったほうがいいと思ったんだと思います。
大山
流行りのデザインにしないかっていう
話だったんだよね。
でも「絶対にイヤだ」と思って
断ったんですよ。
一同
(笑)。
大山
『MOTHER2』の画面は
デザインを大事にしたかったんですよ。
僕にとって、師匠はやはり
初代『MOTHER』ですから。
初代『MOTHER』といえば
エメラルドグリーンの
地面(マップ画面)の印象が強烈で。
最初に見たときに
「ああ、これはカッコいい」
と思ったんですよね。
ゲームのロゴもカッコ良かったし、
「デザインっぽいゲームが出てきたな」
と思っていたんです。
それもあって
「『MOTHER2』に参加しませんか?」
という話をいただいたときに
「ああ、それは関わりたいな」
と思ったんですよね。
だから、デザインのラインは譲れなかった。

△大山功一さん。 △大山功一さん。

戸田
『MOTHER』シリーズは
パッケージもカッコ良かったですよね。
アートディレクターの
浅葉克己さんの事務所
(浅葉克己デザイン室)にいらした
高田正治さんがパッケージの
デザインを担当されていて。
大山
あのデザイン感は大事にしたかったんです。
それで岩田さんの提案をお断りしたんです。

(つづきます。)

2024-11-27-WED

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  • 『MOTHER2』のひみつ。通常版
    11月27日(水)AM11時販売開始!

     

     

    6,600円(税込)
    判型:B5
    ページ数:320ページ
    ISBNコード:9784778319533

     

     

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