ネパールでぼくらは。

#14浅生鴨という人が街を歩き、
風景や体験を描写すると、
どうしてこんなに小説みたいになるんですか。
もちろん、彼は淡々と事実を綴っているだけ。
まだ、合流前日の話が続くのです。

消えたミスタータナカ

(浅生鴨)

僕が他のメンバーより一足先にネパールへ入ったのは、
空港に着いた幡野さんたちが、到着口から出て来る様子を
動画で撮影しようと考えていたからで、
特に事前にあれをやっておきたいとか、
これを見たいというものもないので、
ひと通りぶらぶらと歩きまわって、
なんとなく街の佇まいを把握したところで、
ひと息入れたくなった。
もしも、ここに一週間ほど滞在するのであれば、
僕ももう少しだけ深く街を知ろうとするのだけれども、
わずか二日半の滞在では、
せいぜい自分の巣穴の周辺を理解するので精一杯だろうし、
それ以上のことは、たとえわかった気になったとしても、
本当は何もわからないままだと思っているので、
あまり無理はしないことにしていた。
そもそも僕は観光名所に興味がないし、
めんどうくさがりだし、
できれば一箇所でじっとしていたい人間なのだ。

僕と同じく一足先にカトマンズへ入った田中さんは、
何台ものカメラを提げて、
あちこちの歴史遺跡や名跡をがんがん回っているどころか、
遊覧飛行機でエベレストを見に行くのだというから、
これは僕にはとても無理な話で、
僕と同じ生き物なのに、どうしてこうも違うのか不思議だ。
あの好奇心の旺盛さというか、
積極性と行動力には本当に驚かされるし、
僕もあんなふうにできたら楽しいだろうなと思う。
たぶんできないけれど。

ともかく二日目の昼、街の中を歩いているうちに、
偶然幡野さんたちが泊まる宿の看板を見かけた。
明後日は早朝に出発するので、
僕も明日の夜はこちらへ宿を移すことになっている。
そういえば田中さんが、さっきチャットに
「これから一度ホテルへ戻ります」と書いていたな。
だったらせっかく近くまで来ているのだし、
合流していっしょにお昼でも食べよう。
さっき安食堂も見かけたし。

僕はホテルのレセプションで声をかけた。
一枚板で作られたカウンターはずいぶん年季が入っていた。
木目が美しい。
「ここに泊まっているミスタータナカをお願いします」
「お部屋番号は?」
「わかりません」
「では調べましょう」
フロントスタッフがしばらく宿帳を繰るのだが、
なかなかミスタータナカが見つからないらしい。
「いつからお泊まりですか?」
「僕と同じ日程なので昨日からのはずです」
「ああ、ありました。ミスタータニダですね?」
「ちがいます、ミスタータナカです」
「ミスタータナカは、いませんね」
僕はちょっと不安になってきた。
「明日の予約を確認してもいいですか?」
確認してもらうと、
幡野さんのマネージメントをやっている小池さんの名前で、
人数分の予約がちゃんと入ってた。
どうやら僕も人数には含まれているようなので、
ひとまずホッとする。
それなのに、どうして昨日から泊まっているはずの
ミスタータナカだけが見つからないのか。
まさか偽名? いや、あの人ならやりかねないぞ。
おもしろさを優先して、偽名で泊まってもおかしくはない。
「日本のパスポートで泊まっているはずです」
「ふむ」
フロントスタッフが再び宿帳を繰る。
ここの宿帳はパソコンではなく、大判のノートなのだ。
彼は指を出して、細い罫線の間に
ペンで書かれた細かな字を追っていく。
「ミスターイトウですか?」
「ちがいます」
「日本のかたですよね?」
「日本のかたです」
「ミスタージョワリは?」
「それは日本のかたじゃないですね」
こんな不毛なやりとりをしばらく続けたのだが、
フロントスタッフはどうしても
ミスタータナカを見つけることができなかった。
何かがおかしいのだ。

「では、ミスタータナカにメールを出します」
僕は申しわけなさそうな顔をするスタッフに笑顔を向けた。
「彼と連絡がとれるまでここにいてもいいですか?」
「もちろんです、サー」
僕はロビーのソファにゆったりと腰を下ろし、
田中さんにチャットを送信した。
「今ホテルにいるのですが、お昼ごいっしょしませんか?
 ところで、田中さん何号室なんですか?」
あとは返事を待つだけだ。僕は首を伸ばして周囲を見た。
小振りだけれどもきれいなロビーだった。
僕の向かい側のソファーでは、
これからトレッキングに向かおうとする宿泊客が
荷物の整理をしていた。
壁にかけられた写真を見る限り、どうやらこのホテルを
ヒマラヤ登山の拠点にする人も多いらしい。

ピン。手元で通知音がなった。

僕はあわててスマホを見る。
「僕はそのホテルには泊まっていませんよ。
 空港近くのホテルに宿泊しています。
 今晩、ご飯食べましょう」
あああ、なんということだ。
てっきり田中さんはここに泊まっているとばかり
思い込んでいたのに、僕の勘違いだったのか。
いったい、どこでどう間違えたのやら。

僕は平静を装ってスマホをポケットに入れ、
ちらりとレセプションへ目をやった。
カウンターの向こう側にいるフロントスタッフ全員が
僕の様子をじっと伺っている。
そんな気がしてならなかった。
「ミスタータナカとは連絡が取れましたか?」
そう言って、さきほど宿帳を繰ってくれた
スタッフが近づいてきた。
「これはサービスです、サー」
優しく微笑みながら彼が渡してくれたのは、
ミルクティーの入ったカップだった。
「いえ、まだです。ミスタータナカは返事をくれません」
僕はそう言ってからミルクティーをそっと口にした。
砂糖とスパイスのたっぷりと入った、
甘くて辛いミルクティーだった。

笑わない男

(浅生鴨)

ミスタータナカを捕まえ損ねた僕は、
逃げるようにホテルをあとにして、
ひたすらタメル地区の大きな通りを南へ向かって歩いていた。
携帯のSIMカードを買うためだ。

空港で購入したSIMをスマホに入れた僕だけれども、
これには一つだけ問題があって、
現地のSIMを入れると電話番号がその国のものになるので、
日本からの急な連絡を受けることができなくなってしまう。
そこで近ごろの僕は、海外へ出かけるときには
スマホを二つ持っていくことにしている。
もう一つのスマホには現地のSIMを入れずに、
日本の携帯キャリアのSIMを入れたままにしておいて、
いざというときの連絡手段にするのだ。

けれども、最近は電話でのやりとりはずいぶん減っていて、
今回も旅のメンバーはグループチャットで
情報の共有をしている。
チャットは便利なのだけれども、複数の携帯電話で
同じアカウントを利用できないという点がめんどうくさい。
現地用に新しいスマホを用意してSIMを入れたのに、
いつも日本で使っている旧式のスマホでしかチャットの
やり取りはできないのだ。
とりあえず旧式のスマホを新しいスマホに接続して、
なんとかチャットのやりとりはしているものの、
なにせめんどうくさい。イライラする。

他にもいくつか理由はあるのだけれども、
とにかく僕はもう一台のスマホにも
現地SIMを入れることにしたのだった。
タメル地区の南側には、携帯ショップやカメラ店、
家電店などが軒を連ねている。
ここならSIMくらいすぐに買えるだろう。
そう思ってウロウロするのだけれども、
探しているときには案外見つからないもので、
どこにもSIMカードが売られていないのだ。
携帯ショップで聞いても
「電話機はある。でもSIMはない」
とつれない返事をされてしまう。
もしかしたら空港でしか買えないのだろうか。
いや、そんなはずはない。
これだけ観光客が訪れているのだから、
きっとどこかで買えるに違いない。

一時間近く歩き回ったあげく、
僕は軒先に安っぽいスマホケースを並べている店に入った。
二坪もない小さな店の中で、
お爺さんがぼんやりとタバコを吹かしていた。
「携帯のSIMはありますか?」
「うちはケースだけ。
 でも、その角を曲がったところで売っているよ。
 紫色の看板が出ているよ」
「本当ですか! ダンニャバード」
僕は教えられた通り角を曲がった。
あ。ネパールテレコムの正規店があった。おかしい。
この道は何度も通ったのに、
どうして今まで気づかなかったのか。
おかしいじゃないか。とにかく僕は、
ようやくSIMを売っている店を見つけたのだった。

ドアマンに挨拶をしてピカピカの店内へ入ると、
三つあるカウンターはぜんぶ埋まっていて、
その手前には長い行列ができていた。
僕は行列が大嫌いなのだけれども、
それでもここでしか買えないのなら、待つよりほかない。
真っ白な壁にもたれるようにして二十分ほど待ったのち、
ようやく順番が回ってきた。
僕は空港と同じ要領でスマホを差し出す。
「このスマホ用のSIMカードが欲しいのです」
担当してくれたのはインド系の超イケメンで、
BBCのラジオ放送のような
キングスイングリッシュを話した。
「それではこちらの書類に記入してください。
 それと、パスポートを」
さすがは正規ショップ。
空港でのいいかげんな対応とは違って、
どうやらここではきちんと
書類に記入しなければならないようだった。
書きづらいボールペンを手に、僕は書類を順番に埋めていく。
ホテルの詳しい住所はわからないけれど、
そもそもネパールには住所という概念がないらしいので、
適当に書き込めばそれでいいだろう。

「書きました」
書類を渡す。
「では写真をここに貼ってください」
BBCが指差した。
「え? 写真?」
「登録には顔写真が必要ですよ」
「パスポートの写真をコピーするのではダメなのですか」
それくらいの融通はきくだろう。だってネパールなんだし、
空港では要らなかったんだし。
けれどもBBCの対応は冷たかった。
ちらりと隣の女性店員と目を見合わせてから、
僕に困ったような顔をして見せる。
「ダメです。証明写真が必要です。
 このあたりならどこでもすぐに撮れますから」
僕は大きく溜息をついてから、
足を引き摺るようにしてネパールテレコムを出た。
ドアマンが何やら残念そうに首を振る。
僕はそのまま向かい側にあるカメラ店に入った。

「証明写真を撮って欲しいのです」
「うちはカメラを売っている。写真は撮らない」
「どこで撮れますか?」
「さあ、わからない」
ううむ、困った。どこでも撮れると言われたのに。
どこで撮れるのかをBBCに聞こうと、
もう一度ネパールテレコムへ戻ったものの、
もう次の客の対応をしている。
しかたなく僕は通りを歩き始めた。
これはと思う店に入っては、
証明写真をとっているかと尋ねるのだが、
どこも写真を撮ってはいない。
「コニチハ」
大きな声をかけてきたのは、
スマホケース店のお爺さんだった。
「SIMは売っていました」
「よかった」
お爺さんはタバコを吹かしたまま言う。
「でも証明写真が必要なのです」
「ここで撮れるよ」
「え?」
「そこに立って」
お爺さんは大量のスマホケースが
ぶら下がっている壁の前に僕を立たせると、
デジカメをこちらに向けてシャッターを切った。
そのまま店先にあるプリンターで印刷し、
小さなハサミを器用に使って写真を四角く切り抜いていく。
「はい」
渡されたのは、派手なスマホケースを背景にして、
半分目を閉じた僕の写っている胡散臭い写真だった。
額にはサングラスが乗っかったままだし、
はたしてこれをあの真面目なBBCが証明写真として
受け取ってくれるのだろうか。かなり怪しい。
「800ルピー」
お爺さんは手をひらひらさせた。
かなり高い気もするが、もう遅い。
僕はお爺さんに代金を渡し、
再びネパールテレコムへ向かった。

まもなく閉店の時間になるようで、
大きなガラス窓はブラインドが下ろされ、
三つあるカウンターの一つは片付けの準備に入っていた。
今度は並ぶこともなく、僕はBBCのカウンターに座った。
「証明写真です」
笑顔で僕から写真を受け取ったBBCは、
手元を見ていきなり無表情になった。
必死で笑いを堪えているようで、肩が震えていた。
顔が真っ赤になるが、それでも決して笑わない。
笑わない男。さすがは正規ショップだ。

「オーケー。ナイスフォトですね」
BBCはそう言って、さっき僕の書いた書類を見ながら、
淡々とパソコンへの入力を
始めた。
あとはあっという間だった。ものの十分も
しないうちに、僕は旧式のスマホでもチャットができる
ようになっていた。ああ、よかった。
「ダンニャバード」僕は丁寧にお礼を言って店を出た。
うしろは振り返らなかった。もしも振り返っていたら、
きっとそれまで堪えに堪えていたBBCが大笑いしている
様子を目撃したんじゃないだろうかと思っている。

明日につづきます。

2019-06-24-MON

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