ネパールでぼくらは。

#16そしてカメラは再び、カトマンズへ。
合流前夜、浅生鴨の身に、
こんなことが起こった。
はっきりいって、
これはちょっとした事件だ。

感情が高ぶるとき

(浅生鴨)

田中さんといっしょに夕食をとることになった。
なにやら気になる高級店があるらしく、
その店の前で待ち合わせをしましょうということで、
僕は例によってバスに乗ってタメル地区へ向かっていた。
辺りはすでに暗くなり始めている。

渋滞がひどくて、バスがなかなか進まない。
このままだとかなり遅れそうだ。
田中さんにチャットで連絡をすると、
田中さんからもひどい渋滞にはまっている
という返事が戻ってきたので僕はちょっぴり安心した。
どうやら市街地はどこもかしこも渋滞しているらしい。

やっぱり環境が整備されないまま
車社会に突入してしまうとこうなってしまうのだなあ、
なんてことを僕はぼんやりと考える。
ものごとにはたいてい段階があって、
必要な段階を経ずに次へ進んでしまうと、
そこで何かが行き詰まることになってしまう。
僕はちょうど行き詰まってしまったものを
目の当たりにしているような気分でいた。
この行き詰まりをどうすればいいのか、僕にはわからない。
一度先へ進めば、もう戻ることはできない。
必要な何かを欠いたまま、
土台がしっかりしないまま先へ進んでしまったことを、
どこかで自覚しながら、新しいありかたを考えるしかない。

それは何もネパールに限った話ではなくて、
僕たちの毎日だって同じことだ。
僕たちはいつだって先へ先へと進みたくなる。
何かに高揚するとき、感情が高ぶるとき、
僕たちはつい我を忘れてしまう。そして、手酷い失敗をする。

ゆっくりと進むバスは満員で、
座席の間の通路にまで人がびっしりと詰め込まれていた。
次々に人が乗ってくるので、通路に立っていると、
どんどん後ろのほうへと押しやられていく。
僕はほとんど最後尾あたりに立って、
これ以上は押されないようにと踏ん張っていた。
そろそろ降りる場所が近づいているので、
できれば前へ移動したいのだけれども、
まったく身動きが取れない。
もちろん強引に人を押しやれば進めるだろうし、
どちらかといえば小柄で痩せている
ネパールの人たちを押しのけるのは、
かつてラグビーをやっていた僕にとって、
たいして難しいことではなかった。
けれども、僕としてはできるだけ強引なことはせず、
丁寧に進みたかった。

それは、一歩前へ進もうかなと僕が考えるのと
ほとんど同じタイミングだった。
僕の前にいた若い男がいきなりこちらを振り返って
僕を両手で小突いたのだ。体がぐらりと揺れた。
一瞬自分が何をされたのかわからなかった。
男はもう一度僕を小突いた。
どうして男がそんなことをするのか、わけがわからない。
うっかり僕が彼を押してしまったのだろうか、
それとも足を踏んでしまったのだろうか。
どうやらそうではなさそうだ。
僕を小突いた男はニヤニヤと笑っている。

僕は腕を伸ばして彼を押し返した。
倒れそうになった男は、前の客にぶつかって止まった。
男が体を起こしてもう一度近づいてくるところを、
さらに押した。
そうやって二、三度小突きあっているうちに、
急に男がペコペコと詫び始めた。

ほらみろ。どうだ参ったか。
だいたい僕のほうが明らかに体格はいいし上背もあるのだ。
そんなにすぐ詫びるのなら、どうして小突いたのか。
僕は強引に男を押しのけるようにして前に進みバスを降りた。
事情はわからないながらも、小競り合いに勝ったことで、
僕はどこか気分が高揚しているように感じていた。
同時に、僕の中に
ああした凶暴さがあることに少し驚いてもいた。
いつもの僕ならあれくらいのことで、
押し返したりなどしないのに、
どうしてあのときは冷静でいられなかったのか。

男のニヤニヤ笑いと詫びる顔。自分のやった行為と、
男の見せた顔。その両方が何だかとても気に入らなかった。
つい感情を高ぶらせた自分がどうにも恥ずかしかった。
長い時間ずっと立っていたせいか、
歩くと少し足元がふらついた。
もうすっかり暗くなっているというのに、
街は車と人で溢れていた。

ともかく急ごう。
僕はタメル地区に着いたことを田中さんに伝えるため、
ズボンのポケットからスマホを取り出そうとした。
あれ? 二台あるはずのスマホが一台しかない。
まさか。僕は遠ざかっていく青いバスに目をやった。
渋滞に巻き込まれているとはいえ、
それでもバスは、もうかなり遠くまで進んでいた。

ああ、そういうことか。

さっきのあの男。たぶん、そういうことだったんだ。
小競り合いに勝ったと得意になっている僕のすぐ後ろには、
こっそりポケットから
スマホを抜き取る仲間がいたに違いない。
ああ、やられた。盗られた。
しかも盗られたのは新しいほうのスマホじゃないか。
やっぱり気分が高ぶると失敗するんだなあ。

ふうう。

僕はその場に立ち止まって、大きく深呼吸をした。
もう一台のスマホを取り出して、田中さんに連絡する。
それにしてもチャットができるほうの
スマホじゃなかったのは不幸中の幸いだった。
もしこちらを盗られていたら、アカウントを
一から作り直すことになっていたかもしれない。
僕はスマホをパーカーのポケットに入れると、
ファスナーをしっかりと締め、
そうして、待ち合わせをしている店に向かって
夜の繁華街を歩き始めた。

明日につづきます。

2019-06-26-WED

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