ネパールでぼくらは。

#21合流。
ついに、ぼくら、ネパールで会う。
と、いう、大事なそのときに、
どたばたするのが我々だ。
それをしかも二つの視点から。

最高のタイミング

(浅生鴨)

田中さんからは例によって渋滞に巻き込まれ、
待ち合わせの時間には
まにあわないかもしれないという連絡が届いた。
僕がまにあったのは、乗ったタクシーが
反対車線を逆走して来たからであって、
あの渋滞ではしかたがない。

とりあえず空港の到着口で幡野さんたちを待つことにして、
僕はバッグから小型のビデオカメラを取り出し、
マイクを取りつけてから一脚に乗せた。
三脚だと大げさすぎるので、
こういうところでゲリラ撮影するのなら一脚が便利なのだ。
ぱっと見た感じは、単なる長くて太い棒だから、
旅行客がよく持っている自撮り棒と
勘違いしてくれるとありがたい。
ところが、到着口を出たすぐ前にある
コンコースへ入ろうとしたら、
警備のおじさんに止められてしまった。

「友人を迎えに来たのです」
「ダメです。あちらの待機所で待つように」

首を伸ばして中を覗いて見れば、たった今、
到着口から出て来た旅客たちも
コンコースに長くいることはできず、
すぐに外へ追い出されている。
基本的に到着口の前には誰もいられないのだ。
その代わりに、到着口の反対側には
ガラス板で仕切られた待機所があって、
家族や友人を迎えに来た人たちでごった返している。

「私は、彼が来るところを、これで撮るのが仕事です。
 だから中に入る必要があります。なぜならば仕事ですから」
僕は仕事なのだと強調してみた。
まるで、ちゃんと許可を得ているように
堂々と振舞ってみせれば、意外に折れてくれるかもしれない。
どこかでそんな期待をしていた。
もちろん撮影禁止だと言われる可能性もあるけれど、
うまくいけばラッキーだ。

「ダメです。あの待機所から撮ってください」
やっぱりダメだったか。それでも待機所から撮っていいと
いう言質を得たことで僕は内心ホッとしていた。
ゲリラから正規軍へ昇進したのだ。
それならばと、僕はバッグから
一回り大きいカメラを取り出して一脚に載せ替えた。
マイクも遠いところの音を拾えるものに交換する。
待機所の中は身動きが取れないほどの人ごみだし、
ガラス板の前には、来客を待つ人が
張りつくように並んでいるので、
あそここから撮影するのはなかなか難しそうだけれども、
このセットならば何とかなりそうだ。

僕は目の前から人がいなくなるたびに少しずつ足を進めて、
どうにかガラス板の前に立ち、
カメラの電源を入れると到着口にピントを合わせた。
たくさんの人がべったりと貼りつくものだから、
ガラス板は吐息や油でかなり汚れていて、
向こう側をきれいに撮ることができない。
僕はしかたなくペットボトルの水でタオルを濡らし、
ガラス板をしっかりと拭き始めた。

コツコツ。急に誰かが向こう側からガラス板を叩いた。
勝手に拭くなということなのだろうか。
思わず顔を上げると田中さんが僕に手を振っていた。
入っちゃダメな場所なのに
旅客だって長くいられない場所なのに、
田中さんは、どうやって入り込んだのか。
いったい何と言ったのか。
呆気にとられている僕を尻目に
田中さんはスルスルっと到着口の前まで進み、
大きな一眼レフを構え始めた。
僕だってあそこに行きたかったのに。何だろうこの差は。

ともかく、あとは幡野さんたちからの連絡を待つだけだ。
もうそろそろ到着するはずなのだ。
何とか出迎えの場所をとろうと、
後ろから激しく押してくる人たちを背中で押し返しながら、
僕はガラス前のポジションを守り続けていた。

ピン。スマホが鳴った。

「着きました。まもなく出ます」
チャットが届く。
「他の人が先頭だと、
 幡野さんをうまく撮れないかもしれないので、
 幡野さんを先頭にして出て来てください」
チャットでそう返信してから、
僕はもういちどカメラのファインダーを覗き込み、
アングルとピントを確認した。
いきなり後ろから肩を強く叩かれた。
このタイミングでいったい何なんだ。
今はこの場所を譲るわけにはいかない。
僕は叩いた人を睨みつけてやろうと後ろを振り返った。

警官だった。
警官が三人、険しい表情をして立っている。

「ノー、フォト」一人がそう言った。
「許可はもらいました」
待機所で待つようにと言ったおじさんを僕は指差す。
「ノー、フォト。カモン」
警官は無表情のままだ。
「カモン」
そう言って警官は、二人で僕の腕を掴み、
もう一人が僕の手からカメラの乗った一脚を奪う。

待って、待ってください。ちょっとだけ待ってくださいよ。
今から幡野さんたちが出てくるんです。
僕はこれを撮影するために、
わざわざ数日早くネパールに来たんです。
日本語でそうまくし立てるものの、
もちろん警官たちに伝わるはずもなく、
僕は警察官に腕を掴まれ、
そのまま待機所から外へ連れ出されてしまった。

「警察に捕まりました。田中さん撮影お願いします」
とりあえず必死でそれだけを送信する。
連れて行かれたのは、空港警察の事務所だった。
「なぜあそこで撮影していたのだ」
もしもここで本当のことを言うと、
幡野さんに迷惑がかかってしまうかもしれない。
それだけは避けたい。
もうこうなると何があるかわからない。
適当なことを言ってごまかすのだ。
ここで僕が何と言ったかはちょっと書けないけれども、
とにかく警官たちは僕の話を聞いて、
少しばかり僕に同情してくれたようだった。
「オーケー、行っていい」
「ダンニャバード」
「しかし、ノーフォトだ」
「わかりました」

ノーフォトなんて話を聞くつもりはなかった。
もう一度捕まっても構わないから、
怒られてもいいから、とにかく撮るんだ。
撮ってさえいれば、あとは何とでもなるのだ。
空港警察を出た僕は到着口へと急いだ。
もちろん間に合うはずはなかった。
幡野さんたちは、とっくに到着口を出て、
迎えの車に向かっていた。

ようやくみんなに追いついた僕は思わず笑ってしまった。
僕はわりといろいろなできごとが
降りかかってくるほうではあるけれども、
まさかギリギリのタイミングで
これを撮り損なうとは思いもよらなかった。
見かたを変えれば、最高のタイミングで僕は捕まったのだ。
いやあ、そういうこともあるんだなあ。もう笑うほかない。
僕はどこか呆然としながら、みんながお互いに挨拶するのを
一歩離れたところから眺めていた。
そうして、ゆっくりとカメラを構えたのだった。

DAY 1 Kathmandu

(田中泰延)※コラム内の写真も撮影(上の写真をのぞく)

姿を消した浅生鴨さんからスマホにメッセージが届く。

「拘束されてます」

保安上の理由で撮影が禁止されている空港内で
三脚を据えてビデオカメラを回し、
大量のバッテリーやハードディスクやドローンを抱えた男。

ぼくだって捕まえる。

そういうことをすると危ないですよ、
と昨夜言っていたのは鴨さんだった。
だからぼくは空港職員に一眼レフを見せ、
「キャン アイ テイク ピクチャー?
 ビコーズ、マイフレンズ、カムヒア、スーン、
 フロムジャパン」といい加減な英語で許可を求めた。

職員は「撮影禁止と書いてあるだろう」と言った。
そこでぼくは
「マイフレンド イズ ア ネパーリー。
 ヒー ビルド スクール アット コタン!」
と理由になってない理由を述べた。

すると職員は
「何? コタンだと? コタンに学校を作る?
 お前も一緒にあんな遠くへ行くのか?」
「イエース、オフコース。
 ビコーズ アイ ラブ ネパール!」
とわけのわからない答を返すと職員は
「わかった。ユアフレンズの写真を撮っていい。
 コタンまで気をつけて行け」と言ったのだった。

シャラド・ライ。

幡野広志。

永田泰大。

古賀史健。

小池花恵。

山田英季。

やっと会えたね。
パリ在住の作家のようにぼくはみんなを出迎えた。

ふと横を見ると、

ふつうにおるわ。この人、しぶとい。

シャラド・ライの妹さん、サテ・ライも合流。

カトマンズ中心部へ移動する道中、
ぼくは日本からきたばかりのみんなに、
3日間だけ見聞きしたネパールの歴史や文化について
観光ガイドよろしく知識を披露する。

じつに格好悪い知ったかぶりの態度である。
しかしつとめて明るく振る舞うのには理由があった。
ぼくの心の中は、恐怖に打ち震えていたのだ。

カトマンズでの短い滞在を終えると、
YouMeスクールがあり、
シャラドの故郷であるコタン郡へ向かう。
その道のりは、ガードレールのない未舗装道路を8時間走り、
標高3000メートル級の峠をいくつも越えなければならない。

ぼくは、出発1ヶ月前から
「ネパールの道路がいかに険しいか、いかに危ないか」
という情報ばかり集めていた。
バスが谷底に転落する事故があとをたたない。
ぼくは生命保険に入り、遺書を書いておいた。

誰にも悟られていなかったが、
ぼくは死の念慮にとらわれていたのだ。

みんなに会えた嬉しさが湧き上がるのに、
今日が人生最後の日だという憂いが消えない。
それなのにこのメンバーは
誰もそんなこと心配していない。なんなの。

さっそく、全員で
YouMeスクールの卒業生たちのOB会の取材に赴く。

道中、喋りながらなにも考えずどんどん写真を撮るぼくに、
プロのカメラマンである幡野さんが言う。

「ああ、数をたくさん撮るっていうのも、
 ひとつのやりかただなあ」

ええ、ええ、こんなに機材を持ってきたんですよ。


すごいでしょう?
プロの幡野さんはもっとすごいんじゃないですか?

「えっ?」

「えっ?」

それ‥‥1台?

幡野さんは、
ぼくがシャンシャンシャンシャンと連写する横で、
まったくといっていいほどシャッターを切らない。

ぼくが撮るのに疲れて重いカメラを下ろし、
自分で肩を揉んでいるようなタイミングで
サッと1枚撮り、
またこの小さなカメラをポケットにしまう。
それで終わりである。

ここまで目にしたもの何もかもに
シャッターを切ってきたぼくだが、
今からはスタンスを変える。

幡野さんの今回のミッションは、
YouMeスクールの児童たちとシャラド・ライという人物、
そしてネパールの風景をビデオカメラと
スチールカメラの両方を駆使して、
写真家の目でとらえることだ。

観光気分のアマチュアのぼくとはまったく違う。
ぼくのミッションを、
「写真家・幡野広志の写真を撮る」とはっきりと定める。

幡野さんとは、初めて会った232日前から、
生きる密度がまったく違うことを感じていた。

ぼくの15歳年下の35歳の彼だが、
ある日を境にして、
きっと「生ききろうとするスピード」がまったく違うのだ。
だから、ぼくは幡野さんのことを、
いちども年下の青年だと感じたことがない。
どこか兄貴のように感じている。

写真とはどこか、
他者と自分の時間を引き換える行為だと思う。
人間に与えられた限られた時間そのものを可視化すること。
そしてある瞬間にここにあるものをどこかにうつすこと。

それならば、ぼくは、
写真家とぼくの時間を引き換えようと思った。
写真を志すものとして、その背中を見て、
その横顔に触れることで、勉強しよう。そう素直に思った。

だから、ここからのぼくの話は、長くない。
幡野さんの姿をみつめる自分がいるだけだ。
幡野さんの背中のむこうに、
シャラドやこどもたちの姿を見て、
考えることに徹しようと思う。

見ると、鴨さんも
「写真家・幡野広志を動画で記録する」
ミッションに徹している。

シャラドと卒業生の再会は希望に満ちたものだった。

このあと、シャラドが卒業した、
ネパール全土から成績優秀者を選抜して
教育する学校へ子供たちを案内して、1日が終わった。

あす未明、コタンに出発する。
深夜、カトマンズのホテルの中庭で、古賀さんとふたりきり、
日本から持ってきたとっておきのウイスキーを酌み交わす。
もともと古賀さんと二人になったら飲ろう、
と用意しておいたのだ。

日本にやってきたシャラド、
そのことを教えてくれた糸井重里さん、
シャラドのよき理解者である小池さん、山田さん、
この旅に誘ってくれた永田さん、
気仙沼以来また道連れになったぼくたち、
そして幡野さん。その縁について語り合う。

酔いが進むと、人生というものの不思議さへの思いと、
感謝の念が押し寄せてくる。

いや、ぼくは勝手に
あした谷底へ落ちると思い込んでいたので、
別れの盃のつもりだったのだが、古賀さんはたぶん、
ぼくがそんなに震えているとは気が付いていない。

酔ったまま眠り、起きれば出発だ。
いくら怖くても、行かない、という選択肢はぼくにはない。

明日につづきます。

2019-07-03-WED

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