10日目:見える右手から見えざる肩へ


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8/17 10日目

昨日の夜の行動は、
メガネかけはじめの頃のような
ぎこちなさだった。
トイレのドアを手前に開けて、
そのままドアとかべにはさまれてしまったり、
部屋の中を歩いていて、
ベッドやかべにぶつかったりした。
でも今朝は、ジャスコの中みたいに
スイスイ歩けた。

近所の公園へ行く。ベンチに座って、
自分の家と公園の沼、そこに到るまでの道、
駅についての位置関係を考える。
右手を見たり、左手をみたり、
動かしたりしながら、
以前の記憶とてらし合わせじっくり考えるが、
よく分からない。
よく知っているこの場所で、
まいごになりそうだ。

昼食の後、「トイレは左奥だよ」と言われ、
左肩を引いて曲がったら、
右に曲がってしまった。
“左肩を引く”を頭の中でイメージしたのだが、
どうも、私の左肩のイメージは
右手が見える方(視野の左側)にあるようだ。
右手は、右手が見える側にあると感じる。
左手も、おおよそ、左手の見える側にある感じ。

右肩は? と右肩を上下させてみると、
右手が見える側にある。
左肩を同じようにイメージしてみると、
これが、右手が見える側にあると感じるのだ。
両肩が同じ側にある。
まいったな。
でも“良く見える手”から
“見えない肩”へと、少しずつ、
左右反転に順応が進んでいる気がする。

左右の手と左右の肩の図

電車にのり、となりの駅へ行く。
人が少なく、思いのほか、
すんなり行動が出来た。
でも、電車が入ってきて、ドアが開き、
のり込んで手すりにつかまる。
この間、すごくきんちょうした。
こういうきんちょうは久しぶりだ。

駅周辺の広い歩道を歩く。
広くて、車のこない道を人をよけながら
スイスイ(本人のイメージ)歩くのは楽しい。
運転のコツをつかんだのりもののようだ。

建物の窓に映った自分の姿を見る。
右手を上げる。
その瞬間、逆の手が上がったように感じた。
左手も同じで、逆の手のよう。
少し見ているうちに、
右手の方は、逆ではなく、
右手らしく見えるようになった。

この左右反転した視野に、私がどう順応し、
決着をつけるかは、どうも、右手の見える側
(メガネかけはじめに左と言っていた方)を
右とする事にあるようだ。
そして自分の体のイメージも、右側のものは、
右手の見える側にする。
机の上を見て、右手が見える方
(手が視界に入っていなくても)を右、
左側を左、とはっきり言えるようになった。
公園で、遠くに走っている人を見て、
右(右手側)から左(左手側)に
走っている、とも言える。
でも、まだ
右(右手側)にすわっているとなりの人が、
右にいるとは思えない。
左(左手側)の手すりを見ても、
左側にあるようには思えない。

右の側溝の金属のフタが
脇のコンクリートに対してでっぱって見えた。
本当はへこんでいる。
でもでっぱっているようにしか見えない。
私は右足をコンクリート、
左足をフタにのせていた。
でも、段差の高い方に
右足をのせてる感覚があるので、
右足がフタの上、
左足がコンクリートに
のっているように見える。
その理屈が分かっていても、なおそう感じる。

足と道の側溝のフタ、コンクリートの図
そういえば、Nさん宅で
大きい奥行き反転を見た。
リビングから洗面所へのドアが開いていて、
その先はまっくら。
そのまっくらが手前にとび出してきて、
まるでのれんのように見えた。

ドアとまっくらの図

<ほぼ日より>
人間の体は、車や自転車の運転に慣れると
目からの情報を瞬間的に判断して
ブレーキをかけたり、ハンドルを操作したりします。
「順応する」というのは、
これがすぐにできるようになることと思うと、
脳の「慣れ」って、すごいなと思います。
2007-08-18-SAT