- 糸井
- 増田さんは、いちど20代で
ビジネスができちゃいましたよね。
- 増田
- じつはぼく、いまのように注目されるまでに、
20年かかっているんです。
1995年に「6%DOKIDOKI」というお店を開いて、
ファッションブランドの中では
ちょっと有名になりました。
それで「自分はビジネスの才能があるかも」
と思って、全国に5店舗出したんです。
けっこう卸もやりました。
だけど、その過程で地方のいろんな社長さんに
たくさん会う機会があって、
「メジャーリーガーって、ものすごいな」
と衝撃を受けたんです。
- 糸井
- つまり、ビジネスの世界の
メジャーリーガーたち。
- 増田
- そうなんです。
20代でお店をやっているときは、
自分にはちょっとそういう才能が
あるかもしれないと思っていました。
だけど、実際にビジネスの世界で活躍する
すごい人たちにたくさん会うと、
自分のビジネスの能力は
商店街の文房具屋レベルだったんです。
「完全にこの人たちとは戦えないな」
と痛感しました。
- 糸井
- ああ。
- 増田
- じゃあ、自分がそんなふうに、
メジャーリーガーになれそうなものはなにか。
「クリエイターとしてだったら、もしかしたら
メジャーリーガーになれるかもしれない」
そう思って、原宿以外のお店をすべてやめたんです。
- 糸井
- そのあたりのことって、
本ではさらっとしか書いてないですけど、
あの度胸、すごいですよね。
- 増田
- まあ、当時は30歳だったので、
「いまならやり直せるかも」と思ったんです。
これが、40、50代になって
もしもひと財産を築いてたりしたら、
もうやめられなくなる。
「動くならいまだ」と思いました。
- 糸井
- つまり、そこは「勇気」というよりも、
「決めやすい条件」が整ってたんだ。
- 増田
- そうですね。
そしてとにかく、あのときのぼくは、
現状に満足できなかったんです。
自分の表現で、自分のことばを
世の中に届けていくということに対して、
当時の自分が置かれていた状況では、
まったく満足できませんでした。
- 糸井
- そうなんだ。
- 増田
- あと、やっぱり、
「復讐」したかったんです。
- 糸井
- 「復讐」。
- 増田
- 力も経験もなにもない二十歳くらいの頃、
ぼくは、ほんとうに上の世代から
ケチョンケチョンに言われていました。
当時は80年代で、アメリカやヨーロッパの文化が
いいものとされるムードがあって、
色もモノトーンとか、カラス族じゃないですけど、
そういった文化がかっこいいものだとされていました。
そのとき、自分の色づかいや表現は
「これは子供っぽいものだ」とかピシャッと言われて
なにも身動きができないような状態でした。
大人になって、そのことがずっと
悔しいまんまはいやだったので、
絶対いつか復讐しようと思っていたんです。
- 糸井
- このスタイルのまま、認めさせたかったんだ。
- 増田
- そうですね。
「かならずそういう時代がくるはずだ」
と信じてやっていました。
そして‥‥ずいぶん時間はかかりましたけど、
きゃりー(ぱみゅぱみゅ)の登場をきっかけに、
ずいぶん景色が変わりました。
- 糸井
- きゃりーぱみゅぱみゅとの仕事は
ふつうに仕事相手のひとりとして
はじまったんですか。
- 増田
- 2010年にぼくは、お店をするだけじゃなく、
アートディレクターとして独立したんです。
それで雑誌のディレクションもやっていて、
編集者に
「だれか原宿っぽい、いい子いない?」と聞かれて、
「じゃあ、きゃりーがおもしろいよ」と
紹介したのがはじまりです。
- 糸井
- それは、デビューしたばかりのとき?
- 増田
- まだ高校生だったから、デビュー前ですね。
もともときゃりーは
「6%DOKIDOKI」のお客さんだったんです。
週1回ペースで通ってるような、ハードな子で。
お店のスタッフから
「頭に大きなリボンをつけたかわいい子が、
毎週通ってくるよ」と聞いていたんですけど。
- 糸井
- リボンは最初からなんだ。
- 増田
- でか頭リボンは当時からでしたね。
それで、彼女のブログなども見たりして、
「なんだか原宿っぽい自由な子が出てきたな」
と思ったんです。
じつは原宿の子って、内にこもるタイプが多いんです。
だけど、原宿の自由さを持って
外に出ていく子が出てきたな、おもしろいなと思って、
雑誌の表紙に出てもらったんです。
- 糸井
- なるほどね。
- 増田
- そしたら、その子が
あれよあれよというまに人気になり、
CDデビューすることになりました。
それで、彼女と彼女の事務所から
「CDデビューするなら
アートディレクションはやっぱり、
きゃりーが大好きな
増田セバスチャンさんにお願いしたい」
と言ってもらって、タッグがはじまったんです。
- 糸井
- そっか、2011年のあとは
その物語なんだ。
- 増田
- 震災後はそういう感じです。
きゃりーのデビュー曲「PONPONPON」のPVが
2011年の7月に公開で、そこからいまに至ります。
- 糸井
- 震災の影響も、きっとありましたよね。
- 増田
- ぼくは東日本大震災のことを
どう自分の心におさめてあるかというと、
「明日がなくなったら、どうしますか?」ということを
みんなが強烈に意識させられた事件だったと
思っているんです。
たしか、震災の前は
「明日がある」という曲がリバイバルで流行ってたり、
時代の空気として、頑張ることがなんだか
ちょっとバカみたいな感じもありました。
だけどとつぜん震災が起きて、
みんな、明日が来ないかもしれないことに
気づいちゃった。
- 糸井
- それぞれにみんな、問われたんですよね。
- 増田
- だと思うんです。
ただ、そのとき原宿の子たちは、
もともと明日があるもないも関係なく
自分たちが好きなことをやってきていた。
そこで震災後、世界中から
「日本、これからどうなる?」と注目されていた時期に、
「自分たちのやりかたで歩いてる子たちがいるよ」と、
原宿の子たちのスタイルが
注目されたんじゃないかと思うんです。
ちょうどYouTubeが盛り上がりはじめたころで、
きゃりーぱみゅぱみゅという
「アイコン」と「音楽」と「映像」が、
一気にはまって拡散して。
- 糸井
- 3月11日の当日はどこにいましたか?
- 増田
- そのときは原宿にいましたね。
最初の地震があって、お店を見に来たら、
2回目の地震がきて、地面も道路もグラグラ揺れてて。
その夜、大量の帰宅難民のニュースを見て、
「これは大事件だ。
自分も立ち上がらなければ!」と思いました。
それで、まずは被災地に行こうと思ったんです。
だけど、2日目には「よし行こう」と思ったけれど、
スタッフやみんなに止められたんです。
「災害対応の知識がないから、
かえって迷惑になるんじゃないか」って。
そこから、この場所でなにができるか考えはじめました。
- 糸井
- 原宿でなにができるか。
- 増田
- そうなんです。
そして原宿は、そのころものすごく閑散としていました。
観光客の外国人がみんないなくなって、
コンビニの棚にもなにもない状態。
そのとき、SNSを通じて、
世界中からメッセージがきたんです。
海外のみんなは
「津波が起きて、わたしたちの大好きな
東京のポップカルチャーごと流されたんじゃないか」
と思ってたんです。
世界地図で見ると、東北と東京って近いですから。
- 糸井
- 日本、小さいもんね。
- 増田
- そのとき、世界からそう思われてるんだったら、
「東京は幸いながら被害が少なくて、みんな元気で、
こういった文化は明日もまた続いていくよ」
ということを
発信していこうと思いました。
それで、ブログレベルでしたけど、
毎日英語と日本語で、原宿の様子を上げていったんです。
そしたらだんだんいろんな人たちが、
応援してくれるようになって。
- 糸井
- ええ。
- 増田
- これが「マイティ原宿プロジェクト」という活動です。
「力強い原宿」という意味の
「MIGHTY HARAJUKU!」という缶バッジを作って
原宿のいろんな店や、街行く人みんなに配りました。
原宿って、スナップ写真が上がるじゃないですか。
そのとき写真にそのバッジがあれば、
「日本は大丈夫なんだ」ということが伝わる。
そんな方法で、原宿のことを拡散していきました。
じつは原宿って、東京で最初に
観光客の外国人が戻ってきた街なんですが、
「マイティ原宿プロジェクト」も一役買っていたと、
あとで聞きました。
- 糸井
- 同じとき、青山通りの向こう側では
花屋さんが黄色いガーベラを配ってたんです。
「こんなときですから、
明るい花を持っていってください」って。
あちらでガーベラを配っているときに、
こっちではバッジを配ってたんですね。
- 増田
- してましたね。
- 糸井
- そういえば、ぼくも当時は「ほぼ日」で
「東京は元気です」と毎日書いていました。
東京にいながら「大変だ」と言っている人もいたけど、
「ある意味そうかもしれないけど、
ぼくらは助ける側じゃないの?」
という思いがあって書いてたんです。
だけどそれは、だいぶ怒られましたね。
- 増田
- ぼくのところにも「不謹慎だろう」というメールが
ずいぶんたくさん来ました。
ただ「マイティ原宿」という活動は
最初にオーストラリアの子がSNSに
「We vow to ”MIGHITY HARAJUKU!”」
「STAY GENKI」と書いたプラカードを
持った写真を上げてくれたことをきっかけに、
世界中に広がっていくんです。
ロサンゼルスとか、世界中のみんなが真似をして
「力強い原宿」がどんどん拡散されていきました。
あのとき、SNSのすごさを思い知りました。
- 糸井
- ぼくも「使わざるを得なくて使ってた」状況だし
SNSに対する過剰な期待はいまもないんですけど、
あのときの、SNSで薄いエネルギーが
ドドドッと動く感覚は、すごかったですね。
- 増田
- はい、すごかったです。
(つづきます。)
2015-12-22-TUE