3 怨念とダジャレ。
増田
ちょっと話が変わりますけど、
糸井さんがこの店にきてくださったときに
なにか響いてくれたのって、
ぼくがよく使う「アングラ感」なのかな、
と思うんです。
糸井
アングラ感。
ああ、感じます、感じます。
そっか、そういうことですよね。
いまわかりました。
増田
ぼくは昭和の空気感が好きで、
たとえばいまでもぼくは
都電の跡だとかや旧赤線地区の跡を
探して歩いてみるのが好きなんです。
「この辺にはジャズ喫茶があったんだろうな」
とかを想像しながら散歩するのも、大好きで。
この店にも、ぼくの好きなそういう
「アングラ感」がずいぶん入っていると思います。
糸井
うん、ここにあるのはその匂いですね。
そう足し算するとなるのか、と思いました。
増田
「原宿」で「カワイイ」と名前がつくと、
みんなの共通するイメージが
ある程度、あると思うんです。
だけど、この店では、そういうことは
ぜんぶやりたくありませんでした。
なぜなら、世の中にそういうものが
「いまの時代らしい表現」として溢れるのは
ぼくは違うと思うので。
糸井
それじゃ、持たないですよね。
増田
と思うんです。
それよりもぼくは、新しい表現というのは、
これまで大先輩たちが築き上げてきたものを土台に
次の世代が爆発させるほうが
おもしろいものができると思うんです。
そして、そういう視点でぼくが作ると、
絶対オリジナルのいいものができると思って
こういう表現になってるんです。
糸井
たとえばこれが「ガンダム」や「エイリアン」に
影響された若い人のお店だったら、
ぼくもルーツを予測できた気がするんですけど、
増田さんには、そういうルーツが見えなかった。
きっとみんな増田さんのこと、
もっと若い人だと思っているんじゃない?
増田
そうかもしれないです。
ただ、自分の中では
「自分が二十歳くらいの頃にやれなかったこと」で
「これはみんながビックリするはずだ」
というものを、
とにかく丁寧にやろうとしているだけなんです。
糸井
そうとう丁寧ですよね。
このお店に座ると、ひとつずつの造形すべてに
作家性が込められてるのがわかります。
増田
「怨念」がこもってます(笑)。
糸井
だけど「怨念」って、
つまりは「動機」のことですよね。
やっぱりそういう強い動機がないと、
このお店は作れないと思います。
そして、増田さんはやっぱり
「おまえのやっていることはダメだ」と
さんざん言われた時代に培った、
「これをやるんだ」がはっきりありますよね。
増田
当時、「復讐リスト」を作っていたんです。
上の世代のギャラリストとか編集者とか、
ぼくの表現について「おまえはダメだ」と言った人の
リストを作っていて、
将来そういう人たちを、じぶんのクリエイションで
やっつけてやろうと思ってたんです。
とはいえ、いまになってそういう人たちに会うと、
「もういっか」みたいな感じなんですけど。
糸井
うん、じつはそういうリストって
役に立たないんですよね。
向こうのほうが、先に倒れますから。
増田
そうなんです。
「これはもう、やっつける相手じゃないな」
みたいな感じがあって。
糸井
自慢じゃないですけど、ぼくは雑誌の特集で、
「あいつはもう終わった」
みたいに書かれたことが2回ぐらいあります。
だけどそのあと、どっちも、
特集をした雑誌のほうが先になくなったんです。
だから、そういう評価って、
どうでもいいんだと思うようになりました。
増田
そうですよね。
糸井
そういうことで頼りにできるのは、やっぱり、
自分自身の感覚しかないと思うんです。
少し前といまの自分を比べて、前の自分に
「ちょっとだけ言ってあげられることがあるな」
と思えたら、それは自分が前より少しだけ
ましになったということ。
みんな、それだけ気にしてればいいんじゃないか
と最近は思いますね。
増田
うん、そうですね。
糸井
『家系図カッター』を読むと、
増田さんは、現代美術家の飴屋法水さんとも
関わりがあるんですよね。
増田
20代の頃、飴屋さんのところで
お手伝いしていたんです。
濃密に付き合ってたのは1、2年ですけど、
強靱な人で、人生最大に影響を受けた気がしています。
なんだか「濃い先輩」みたいな感じです。
糸井
ぼくは一度しかお会いしたことがないんですが、
飴屋さんっていつも、
友達の友達くらいの場所にいた人なんです。
仙人のように見えながら、
同時に生々しい生命力を持ち合わせていて。
その段差がすごいなと思ってました。
増田
ぼくが会った頃の飴屋さんはいまよりもっと過激で、
ジャンクな世界で鉄をずっと切っていました。
鉄って、切ると火花がとぶから
工具に安全カバーがついてるんです。
だけど飴屋さんのところのスタッフが
「安全カバーなんか着けるな。鉄を感じろ」
とカバーを外して、
バーッて火花を浴びながら鉄を切ってる。
そういう強烈な人でした。
糸井
だけどそれも、彼のロジックからしたら
オッケーなんですよね。
増田
そうなんです。
ただ、飴屋さんはすごく過激だけど、
ぼくからすると、考えるときの基本に
ダジャレ的なユーモアがある人だと思っていて。
たとえばある展示では、
たくさんミキサーが並んでて、
中で内臓みたいなものがグルグル回ってる。
何かというと、牛の脳みそを
サンダー(工具)でざくざく切ったものを
ミキサーに入れて回してるんです。
それを「ミソスープ」という名前で展示していました。
そういう、過激さと同時に
ダジャレ的なユーモアがある人、
という印象がありました。 
糸井
ダジャレって、偶然性を呼び込む道具なんですよね。
脳みその「みそ」と、食べる「みそ」が
同じだというのは、
ダジャレといえばダジャレだけど、
「それをきっかけに、
ふたつの別のものをいっしょにできる」
ということ。
そこから新しい展開がはじまることもありますし。
人と人だって、
「え、血液型A型なの?」みたいな理由で
仲良くなる人もいますよね。
増田
そうですね。
糸井
そういうことがみんな
「ああ、ダジャレね」になってしまうと、
その偶然は、もう起きない。
ぼくはなんだかその
ダジャレということばについたイメージのせいで、
みんながそういうことを
諦めさせられてしまった気がするんです。
ぼくは、ダジャレはもっと肯定的に
取り入れられるべき、という気がするんです。
ダジャレを否定しはじめると
ユーモアがなくなるんですよ。
増田
たしかにダジャレがあると、
脱力感みたいなものが生まれますね。
糸井
そう。そしてダジャレって、
「ことばの響きが同じってだけで、
縁があるじゃないか」
という、ものすごい肯定感じゃないですか。
「ことばの響きが同じだけでは、別のものである」
と考えるのは、近代主義だと思うんですよ。
江戸時代の人たちがカレンダーを作ったり
絵を描いたりするときも、
発想の根本にはダジャレがありましたから。
増田
たしかに。そうですよね。
糸井
いまって、ものごとの整合性とか
正しさみたいなことが、
重視されすぎている気もするんです。
すごくおもしろいフィクションでも、
すぐに「常識的にありえない」とか言われてしまう。
なんだかそれは
「整合性を重視しすぎじゃないかな」と思うんです。
「観客がどう感じたか」以上に
整合性が優先されているときすらある。
その状況は、あまりいいことじゃない気がしてます。
増田
ああ、そうかもしれない。
糸井
だから、増田さんのこの店に座ったときの、
この、こみ上げてくる笑い。
すごい色の食べ物に、
モンスターガールに、この装飾に‥‥。
増田
「‥‥よくやるな」みたいな(笑)。
糸井
いえ、さすがだと思いました。
カフェなのに、出しているメニューを
「まずそうだと言われてもいい」
という覚悟すらある(笑)。
だから、ここに来てぼくは、
「作った人、愉快だったろうな」
って思ったんです。
そしてそこに、すごく共感したんです。
増田
はい、ぼくも作りながら、とてもたのしかったです。
(つづきます。)

2015-12-23-WED