- 増田
- ちょっと話が変わりますけど、
糸井さんがこの店にきてくださったときに
なにか響いてくれたのって、
ぼくがよく使う「アングラ感」なのかな、
と思うんです。
- 糸井
- アングラ感。
ああ、感じます、感じます。
そっか、そういうことですよね。
いまわかりました。
- 増田
- ぼくは昭和の空気感が好きで、
たとえばいまでもぼくは
都電の跡だとかや旧赤線地区の跡を
探して歩いてみるのが好きなんです。
「この辺にはジャズ喫茶があったんだろうな」
とかを想像しながら散歩するのも、大好きで。
この店にも、ぼくの好きなそういう
「アングラ感」がずいぶん入っていると思います。
- 糸井
- うん、ここにあるのはその匂いですね。
そう足し算するとなるのか、と思いました。
- 増田
- 「原宿」で「カワイイ」と名前がつくと、
みんなの共通するイメージが
ある程度、あると思うんです。
だけど、この店では、そういうことは
ぜんぶやりたくありませんでした。
なぜなら、世の中にそういうものが
「いまの時代らしい表現」として溢れるのは
ぼくは違うと思うので。
- 糸井
- それじゃ、持たないですよね。
- 増田
- と思うんです。
それよりもぼくは、新しい表現というのは、
これまで大先輩たちが築き上げてきたものを土台に
次の世代が爆発させるほうが
おもしろいものができると思うんです。
そして、そういう視点でぼくが作ると、
絶対オリジナルのいいものができると思って
こういう表現になってるんです。
- 糸井
- たとえばこれが「ガンダム」や「エイリアン」に
影響された若い人のお店だったら、
ぼくもルーツを予測できた気がするんですけど、
増田さんには、そういうルーツが見えなかった。
きっとみんな増田さんのこと、
もっと若い人だと思っているんじゃない?
- 増田
- そうかもしれないです。
ただ、自分の中では
「自分が二十歳くらいの頃にやれなかったこと」で
「これはみんながビックリするはずだ」
というものを、
とにかく丁寧にやろうとしているだけなんです。
- 糸井
- そうとう丁寧ですよね。
このお店に座ると、ひとつずつの造形すべてに
作家性が込められてるのがわかります。
- 増田
- 「怨念」がこもってます(笑)。
- 糸井
- だけど「怨念」って、
つまりは「動機」のことですよね。
やっぱりそういう強い動機がないと、
このお店は作れないと思います。
そして、増田さんはやっぱり
「おまえのやっていることはダメだ」と
さんざん言われた時代に培った、
「これをやるんだ」がはっきりありますよね。
- 増田
- 当時、「復讐リスト」を作っていたんです。
上の世代のギャラリストとか編集者とか、
ぼくの表現について「おまえはダメだ」と言った人の
リストを作っていて、
将来そういう人たちを、じぶんのクリエイションで
やっつけてやろうと思ってたんです。
とはいえ、いまになってそういう人たちに会うと、
「もういっか」みたいな感じなんですけど。
- 糸井
- うん、じつはそういうリストって
役に立たないんですよね。
向こうのほうが、先に倒れますから。
- 増田
- そうなんです。
「これはもう、やっつける相手じゃないな」
みたいな感じがあって。
- 糸井
- 自慢じゃないですけど、ぼくは雑誌の特集で、
「あいつはもう終わった」
みたいに書かれたことが2回ぐらいあります。
だけどそのあと、どっちも、
特集をした雑誌のほうが先になくなったんです。
だから、そういう評価って、
どうでもいいんだと思うようになりました。
- 増田
- そうですよね。
- 糸井
- そういうことで頼りにできるのは、やっぱり、
自分自身の感覚しかないと思うんです。
少し前といまの自分を比べて、前の自分に
「ちょっとだけ言ってあげられることがあるな」
と思えたら、それは自分が前より少しだけ
ましになったということ。
みんな、それだけ気にしてればいいんじゃないか
と最近は思いますね。
- 増田
- うん、そうですね。
- 糸井
- 『家系図カッター』を読むと、
増田さんは、現代美術家の飴屋法水さんとも
関わりがあるんですよね。
- 増田
- 20代の頃、飴屋さんのところで
お手伝いしていたんです。
濃密に付き合ってたのは1、2年ですけど、
強靱な人で、人生最大に影響を受けた気がしています。
なんだか「濃い先輩」みたいな感じです。
- 糸井
- ぼくは一度しかお会いしたことがないんですが、
飴屋さんっていつも、
友達の友達くらいの場所にいた人なんです。
仙人のように見えながら、
同時に生々しい生命力を持ち合わせていて。
その段差がすごいなと思ってました。
- 増田
- ぼくが会った頃の飴屋さんはいまよりもっと過激で、
ジャンクな世界で鉄をずっと切っていました。
鉄って、切ると火花がとぶから
工具に安全カバーがついてるんです。
だけど飴屋さんのところのスタッフが
「安全カバーなんか着けるな。鉄を感じろ」
とカバーを外して、
バーッて火花を浴びながら鉄を切ってる。
そういう強烈な人でした。
- 糸井
- だけどそれも、彼のロジックからしたら
オッケーなんですよね。
- 増田
- そうなんです。
ただ、飴屋さんはすごく過激だけど、
ぼくからすると、考えるときの基本に
ダジャレ的なユーモアがある人だと思っていて。
たとえばある展示では、
たくさんミキサーが並んでて、
中で内臓みたいなものがグルグル回ってる。
何かというと、牛の脳みそを
サンダー(工具)でざくざく切ったものを
ミキサーに入れて回してるんです。
それを「ミソスープ」という名前で展示していました。
そういう、過激さと同時に
ダジャレ的なユーモアがある人、
という印象がありました。
- 糸井
- ダジャレって、偶然性を呼び込む道具なんですよね。
脳みその「みそ」と、食べる「みそ」が
同じだというのは、
ダジャレといえばダジャレだけど、
「それをきっかけに、
ふたつの別のものをいっしょにできる」
ということ。
そこから新しい展開がはじまることもありますし。
人と人だって、
「え、血液型A型なの?」みたいな理由で
仲良くなる人もいますよね。
- 増田
- そうですね。
- 糸井
- そういうことがみんな
「ああ、ダジャレね」になってしまうと、
その偶然は、もう起きない。
ぼくはなんだかその
ダジャレということばについたイメージのせいで、
みんながそういうことを
諦めさせられてしまった気がするんです。
ぼくは、ダジャレはもっと肯定的に
取り入れられるべき、という気がするんです。
ダジャレを否定しはじめると
ユーモアがなくなるんですよ。
- 増田
- たしかにダジャレがあると、
脱力感みたいなものが生まれますね。
- 糸井
- そう。そしてダジャレって、
「ことばの響きが同じってだけで、
縁があるじゃないか」
という、ものすごい肯定感じゃないですか。
「ことばの響きが同じだけでは、別のものである」
と考えるのは、近代主義だと思うんですよ。
江戸時代の人たちがカレンダーを作ったり
絵を描いたりするときも、
発想の根本にはダジャレがありましたから。
- 増田
- たしかに。そうですよね。
- 糸井
- いまって、ものごとの整合性とか
正しさみたいなことが、
重視されすぎている気もするんです。
すごくおもしろいフィクションでも、
すぐに「常識的にありえない」とか言われてしまう。
なんだかそれは
「整合性を重視しすぎじゃないかな」と思うんです。
「観客がどう感じたか」以上に
整合性が優先されているときすらある。
その状況は、あまりいいことじゃない気がしてます。
- 増田
- ああ、そうかもしれない。
- 糸井
- だから、増田さんのこの店に座ったときの、
この、こみ上げてくる笑い。
すごい色の食べ物に、
モンスターガールに、この装飾に‥‥。
- 増田
- 「‥‥よくやるな」みたいな(笑)。
- 糸井
- いえ、さすがだと思いました。
カフェなのに、出しているメニューを
「まずそうだと言われてもいい」
という覚悟すらある(笑)。
だから、ここに来てぼくは、
「作った人、愉快だったろうな」
って思ったんです。
そしてそこに、すごく共感したんです。
- 増田
- はい、ぼくも作りながら、とてもたのしかったです。
(つづきます。)
2015-12-23-WED