1手紡ぎ、手織りの風合い。
岩手ホームスパン
岩手県花巻市。
北上山地のふもとに、
日本ホームスパンはあります。
ホームスパンとは、
手紡ぎ、手織りの風合いを残した
ウールの生地のこと。
わずか20名程度のちいさな規模ながら、
この会社が生み出す生地は
いくつもの世界的なブランドから
求められています。
羊毛を染めるところから
完成品の生地にするまで、
すべての工程をできる設備が揃っています。
ホームスパンのなりたちについて、
社長の菊池完之さんが話してくれました。
▲日本ホームスパン社長の菊池完之さん。
- ――
- きょうはよろしくお願いします。
「ホームスパン」について調べたら、
明治時代に岩手に入ってきたという記述を見たのですが。
- 菊池
- 正確にいうとね、明治時代に岩手に入ってきたのは、羊。
- ――
- 羊。
- 菊池
- 明治政府は近代化をおしすすめたでしょう。
近代化っていうのは、着物から洋服に変えるということ。
いままで絹と綿と麻で作られていた着物から、
ウールでつくられる洋服に変えなきゃならない。
まずは軍隊の制服。それから警察とか郵便局の制服。
そういうものをウールでつくるために、
明治初期、日本に羊が導入されたんです。
- ――
- なぜ、導入されたのが岩手だったんでしょう?
- 菊池
- 最初に羊の飼育がはじまったのは、
千葉県界隈だったようです。
でも羊は湿度に弱くて、失敗したそうなんです。
だから、乾燥地帯で飼育することになった。
日本の乾燥地帯はどこかっていうと、
梅雨のない北海道、岩手県の北上山地、
それから長野と、福島の阿武隈山地。
同じ岩手でも、北上山地の向こう、
日本海側のほうは、
雪が降って湿度が高くなるんです。
そこでこの4カ所が羊の飼育地帯になった。
- ――
- 「羊を育てる」といっても、
一筋縄ではいかないんですね。
- 菊池
- そう。4カ所の中でもとくに北上山地は
これまで大きな産業がなかったんで、
農家が1軒につき2、3頭ずつ、羊を飼育してたの。
第一次世界大戦で輸入がストップして、
食料も入ってこなくなったから、
食料としても羊が重要視された。
政府としては、
各農家にもっと羊を積極的に飼育させたいわけです。
そこで、ホームスパンをつくる技術を
イギリスから導入したんです。
羊毛を加工することで現金収入が得られれば、
羊を飼うメリットがあるでしょう。
それが大正期。
- ――
- そこでホームスパンが。
- 菊池
- ホーム(家)でつむぐ(スパン)から、
ホームスパン。
いまは機械織りでも
手紡ぎや手織りの風合いが残っているものを
ホームスパンと呼びますけども、
当時は羊の毛を刈って糸をつむぐところから
ぜんぶ家でやっていたわけですよ。
最初は県北の岩手町というところに、
スコットランドから来た宣教師さんがいたんですよ。
その人に教わった。
宣教師さんが開いた講習会でいちばんうまく作ったのが、
梅原乙子さんという方。
この方が岩手のホームスパンの元祖みたいな存在で、
今度は乙子さんが先生になって、
各家庭にホームスパンの技術が広がっていったんです。
宣教師は転勤族ですから、
いつまでも日本にいませんから(笑)。
さらに岩手県の役人が
スコットランドから道具一式持って帰ってきて、
それを地元の大工さんが分解してコピーして、
機械も作った。
そのときに作られた機械、いまもうちにありますよ。
- ――
- すごい。100年選手ですね。
▲完之さんの息子さんである、専務の菊池久範さんが工場を案内してくれました。
手織りの機械は、昭和の頃のものを修理しながら使っているそう。
「木製なのでもちろん劣化するんですが、複雑なものではないから
木工所さんにもっていけば同じように作れるんです」
- 菊池
- 各農家がホームスパンの生地をつくり、
それを百貨店が買いに来て
コートやジャケットをつくって売る。
それが昭和初期まで続いたんです。
しかし昭和15年頃になると、
戦争に向けていろいろと厳しくなってくる。
羊毛も貴重な軍事物資ですから、
「勝手に羊毛を使うな」ということで
ホームスパン作りは廃れていくんです。
- ――
- ああ……。
- 菊池
- 戦争が終わって、
うちの親父も地方戦線から引き上げてきた。
そしたらもう、失業者ですよ。仕事なんてない。
だけど、軍事物資として
この町の倉庫という倉庫に羊の毛が保管されたままになってた。
じゃあちょっと前まで各家庭でやっていたホームスパンを
会社でみんなでやって仕事にしようと、
それでさっきの梅原乙子さんの息子さんとかと
いっしょにグループを作り、羊毛を払い下げて、
会社経営でホームスパンをつくるようになった。
それがうちの会社の前身です。
▲生地を織る前に縦糸をかける「整経」。
針金1本1本の穴に1本ずつ糸を通す、気が遠くなるような作業。
- ――
- 戦争がきっかけで、
それまで各家庭でやっていた生地づくりを
会社組織でやるようになったわけですね。
- 菊池
- 販売先も時代によって変わってきました。
最初はテーラーさんに売っていたけど、
次は問屋さん。
それからアパレルメーカーさんが台頭してきて、
80年代になるとデザイナーズブランドが出てくる。
うちには営業もなにもいないですから、
毎回私が上京して、生地を売るわけです。
するとそんなにたくさんのブランドは歩けない。
結局、毎回同じブランドに行くことになる。
すると毎回「ちがう柄をもってきてほしい」と言われる。
- ――
- そうなりますよね(笑)。
- 菊池
- それでいろいろ工夫しているうちに、
何千もの柄ができたんです。
ブランドの側も世界を飛び回って、
「こんな糸で生地ができないか」とか
相談されたりしてね。
その頃はまだ手織りだけだったんですけど。
▲工場の中には、さまざまなサンプルが山のように。
デザイナーはおらず、社長と専務、社長の娘さん(専務のお姉さん)の3人で
だいたい1日に3点、年間700点もの新しい生地をつくっているのだそう。
- ――
- え、80年代まで手織りのみで
やってらしたんですか?
- 菊池
- いや、もっと後まで。
手織りはどうしても、
織る人によって変わるんですわ。
海外ブランドと取引をはじめたときに、
「品質を完全に一定にしてほしい」
「手織りのようなものを機械でつくってほしい」
という要求があって、
機械織りを導入したんです。
それが2001年から2年くらい。
- ――
- じゃあ、かなり最近まで完全に手織りのみ。
▲約2000種以上の糸がストックされている。
糸のもととなる羊毛、手紡ぎの糸だけでなく、泥で染めた和紙、
テープ状の和紙など、変わった糸も。
「海外のブランドには和紙の泥染や藍染といった、日本にしかなさそうなものを
提案したりします。染めるのもうちでやっています。テープは幅があるでしょう?
テープを縦に折り込めるのは世界中でうちくらいなんだけど、
買ってくれる相手がいないんだよね(笑)」
- 菊池
- いまでも、
小さいものがちょっとだけ必要なときは、
手の方が早いから、手織り。
たとえばブランドに提案するサンプルなんかは
ぜんぶ手織りでやってます。
それを量産するときは機械、
という形で使い分けてますね。
- ――
- 量がある場合は、
機械織りだとずいぶん早さが違いますか?
- 菊池
- まあ、量にもよるけどね。
音を聞いてもらえばわかるんだけど、
カチャーン、カチャーンと織る音がするでしょう。
これがだいたいうちは1分間に60回転。
通常は120~180回転。
- ――
- 通常の1/3のスピード!
- 菊池
- ホームスパンはもともと、
手紡ぎ、手織りだったでしょう。
いまでこそ手紡ぎの糸はずいぶん少なくなったけど、
その風合いを残そうと思うと、
糸の太さが均一でなかったり、くせがあったりする。
だからゆっくりでないと織れないんです。
効率を追求していたら、
こんな生地はできないです(笑)。
▲工場にいる方は全員、手紡ぎの技術をもっているのだとか。
- ――
- いまも手紡ぎをされることはあるんですか?
- 菊池
- もちろん、できますよ。
ホームスパンという名前を掲げている以上、
手紡ぎはなくしてはダメなものだと思っているので、
手紡ぎができる体制はずっと残すつもりです。
▲Japanese Fabric「彩格子」の糸は1本の糸をさまざまな色に染め分けたもの。太さが均一ではないため、糸が太い部分は色が薄く、細い部分は濃く染め上がることで複雑な色合いが生まれる。
▲糸を染める釜。「彩格子」の糸もここで染められた。
▲格子柄なので、横糸ももちろん同じ糸。
▲糸の太さが均一ではないため、ゆっくりと織る。こうすることで空気をはらんでやわらかな生地になる。
▲糸の飛び出しなどをつきっきりで確認して、その都度調整していく。
▲織りあがった生地。太さも色合いもまちまちの糸が、きれいな格子に。