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LIFEのBOOK ほぼ日手帳

LIFEのBOOK ほぼ日手帳

日本で生まれ育った生地 Japanese Fabric

日本の各地には、
その土地ならではの特産物があります。
地域の風土にあわせて
生まれ育った野菜、果物、植物……。
それらと同じように、
土地によってはぐくまれる
ファブリックがあります。
「ほぼ日手帳2018」では
そんな、日本各地の歴史や風土を
織り込んだ生地を使って
手帳カバーをつくりました。
岩手、高野口、尾州。
ファブリックがうまれた
3つの土地に行ってきました。

1手紡ぎ、手織りの風合い。
岩手ホームスパン

岩手県花巻市。
北上山地のふもとに、
日本ホームスパンはあります。
ホームスパンとは、
手紡ぎ、手織りの風合いを残した
ウールの生地のこと。
わずか20名程度のちいさな規模ながら、
この会社が生み出す生地は
いくつもの世界的なブランドから
求められています。
羊毛を染めるところから
完成品の生地にするまで、
すべての工程をできる設備が揃っています。
ホームスパンのなりたちについて、
社長の菊池完之さんが話してくれました。

▲日本ホームスパン社長の菊池完之さん。

――
きょうはよろしくお願いします。
「ホームスパン」について調べたら、
明治時代に岩手に入ってきたという記述を見たのですが。
菊池
正確にいうとね、明治時代に岩手に入ってきたのは、羊。
――
羊。
菊池
明治政府は近代化をおしすすめたでしょう。
近代化っていうのは、着物から洋服に変えるということ。
いままで絹と綿と麻で作られていた着物から、
ウールでつくられる洋服に変えなきゃならない。
まずは軍隊の制服。それから警察とか郵便局の制服。
そういうものをウールでつくるために、
明治初期、日本に羊が導入されたんです。
――
なぜ、導入されたのが岩手だったんでしょう?
菊池
最初に羊の飼育がはじまったのは、
千葉県界隈だったようです。
でも羊は湿度に弱くて、失敗したそうなんです。
だから、乾燥地帯で飼育することになった。
日本の乾燥地帯はどこかっていうと、
梅雨のない北海道、岩手県の北上山地、
それから長野と、福島の阿武隈山地。
同じ岩手でも、北上山地の向こう、
日本海側のほうは、
雪が降って湿度が高くなるんです。
そこでこの4カ所が羊の飼育地帯になった。
――
「羊を育てる」といっても、
一筋縄ではいかないんですね。
菊池
そう。4カ所の中でもとくに北上山地は
これまで大きな産業がなかったんで、
農家が1軒につき2、3頭ずつ、羊を飼育してたの。
第一次世界大戦で輸入がストップして、
食料も入ってこなくなったから、
食料としても羊が重要視された。
政府としては、
各農家にもっと羊を積極的に飼育させたいわけです。
そこで、ホームスパンをつくる技術を
イギリスから導入したんです。
羊毛を加工することで現金収入が得られれば、
羊を飼うメリットがあるでしょう。
それが大正期。
――
そこでホームスパンが。
菊池
ホーム(家)でつむぐ(スパン)から、
ホームスパン。
いまは機械織りでも
手紡ぎや手織りの風合いが残っているものを
ホームスパンと呼びますけども、
当時は羊の毛を刈って糸をつむぐところから
ぜんぶ家でやっていたわけですよ。
最初は県北の岩手町というところに、
スコットランドから来た宣教師さんがいたんですよ。
その人に教わった。
宣教師さんが開いた講習会でいちばんうまく作ったのが、
梅原乙子さんという方。
この方が岩手のホームスパンの元祖みたいな存在で、
今度は乙子さんが先生になって、
各家庭にホームスパンの技術が広がっていったんです。
宣教師は転勤族ですから、
いつまでも日本にいませんから(笑)。

さらに岩手県の役人が
スコットランドから道具一式持って帰ってきて、
それを地元の大工さんが分解してコピーして、
機械も作った。
そのときに作られた機械、いまもうちにありますよ。
――
すごい。100年選手ですね。

▲完之さんの息子さんである、専務の菊池久範さんが工場を案内してくれました。
手織りの機械は、昭和の頃のものを修理しながら使っているそう。
「木製なのでもちろん劣化するんですが、複雑なものではないから
木工所さんにもっていけば同じように作れるんです」

菊池
各農家がホームスパンの生地をつくり、
それを百貨店が買いに来て
コートやジャケットをつくって売る。
それが昭和初期まで続いたんです。
しかし昭和15年頃になると、
戦争に向けていろいろと厳しくなってくる。
羊毛も貴重な軍事物資ですから、
「勝手に羊毛を使うな」ということで
ホームスパン作りは廃れていくんです。
――
ああ……。
菊池
戦争が終わって、
うちの親父も地方戦線から引き上げてきた。
そしたらもう、失業者ですよ。仕事なんてない。
だけど、軍事物資として
この町の倉庫という倉庫に羊の毛が保管されたままになってた。
じゃあちょっと前まで各家庭でやっていたホームスパンを
会社でみんなでやって仕事にしようと、
それでさっきの梅原乙子さんの息子さんとかと
いっしょにグループを作り、羊毛を払い下げて、
会社経営でホームスパンをつくるようになった。
それがうちの会社の前身です。

▲生地を織る前に縦糸をかける「整経」。
針金1本1本の穴に1本ずつ糸を通す、気が遠くなるような作業。

――
戦争がきっかけで、
それまで各家庭でやっていた生地づくりを
会社組織でやるようになったわけですね。
菊池
販売先も時代によって変わってきました。
最初はテーラーさんに売っていたけど、
次は問屋さん。
それからアパレルメーカーさんが台頭してきて、
80年代になるとデザイナーズブランドが出てくる。
うちには営業もなにもいないですから、
毎回私が上京して、生地を売るわけです。
するとそんなにたくさんのブランドは歩けない。
結局、毎回同じブランドに行くことになる。
すると毎回「ちがう柄をもってきてほしい」と言われる。
――
そうなりますよね(笑)。
菊池
それでいろいろ工夫しているうちに、
何千もの柄ができたんです。
ブランドの側も世界を飛び回って、
「こんな糸で生地ができないか」とか
相談されたりしてね。
その頃はまだ手織りだけだったんですけど。

▲工場の中には、さまざまなサンプルが山のように。
デザイナーはおらず、社長と専務、社長の娘さん(専務のお姉さん)の3人で
だいたい1日に3点、年間700点もの新しい生地をつくっているのだそう。

――
え、80年代まで手織りのみで
やってらしたんですか?
菊池
いや、もっと後まで。
手織りはどうしても、
織る人によって変わるんですわ。
海外ブランドと取引をはじめたときに、
「品質を完全に一定にしてほしい」
「手織りのようなものを機械でつくってほしい」
という要求があって、
機械織りを導入したんです。
それが2001年から2年くらい。
――
じゃあ、かなり最近まで完全に手織りのみ。

▲約2000種以上の糸がストックされている。
糸のもととなる羊毛、手紡ぎの糸だけでなく、泥で染めた和紙、
テープ状の和紙など、変わった糸も。
「海外のブランドには和紙の泥染や藍染といった、日本にしかなさそうなものを
提案したりします。染めるのもうちでやっています。テープは幅があるでしょう?
テープを縦に折り込めるのは世界中でうちくらいなんだけど、
買ってくれる相手がいないんだよね(笑)」

菊池
いまでも、
小さいものがちょっとだけ必要なときは、
手の方が早いから、手織り。
たとえばブランドに提案するサンプルなんかは
ぜんぶ手織りでやってます。
それを量産するときは機械、
という形で使い分けてますね。
――
量がある場合は、
機械織りだとずいぶん早さが違いますか?
菊池
まあ、量にもよるけどね。
音を聞いてもらえばわかるんだけど、
カチャーン、カチャーンと織る音がするでしょう。
これがだいたいうちは1分間に60回転。
通常は120~180回転。
――
通常の1/3のスピード!
菊池
ホームスパンはもともと、
手紡ぎ、手織りだったでしょう。
いまでこそ手紡ぎの糸はずいぶん少なくなったけど、
その風合いを残そうと思うと、
糸の太さが均一でなかったり、くせがあったりする。
だからゆっくりでないと織れないんです。
効率を追求していたら、
こんな生地はできないです(笑)。

▲工場にいる方は全員、手紡ぎの技術をもっているのだとか。

――
いまも手紡ぎをされることはあるんですか?
菊池
もちろん、できますよ。
ホームスパンという名前を掲げている以上、
手紡ぎはなくしてはダメなものだと思っているので、
手紡ぎができる体制はずっと残すつもりです。

▲Japanese Fabric「彩格子」の糸は1本の糸をさまざまな色に染め分けたもの。太さが均一ではないため、糸が太い部分は色が薄く、細い部分は濃く染め上がることで複雑な色合いが生まれる。

▲糸を染める釜。「彩格子」の糸もここで染められた。

▲格子柄なので、横糸ももちろん同じ糸。

▲糸の太さが均一ではないため、ゆっくりと織る。こうすることで空気をはらんでやわらかな生地になる。

▲糸の飛び出しなどをつきっきりで確認して、その都度調整していく。

▲織りあがった生地。太さも色合いもまちまちの糸が、きれいな格子に。

Japanese Fabric