夫婦そろって那覇市の生まれです。
といっても陽子さんは、中心部の首里のほう。
(迅志さんは奥様のことを“陽子さん”と呼びます。)
僕は市のはずれの真嘉比(まかび)という町です。
高校は首里城のそばにある首里高校。
陽子さんとは同級生で、
15歳のときからお付き合いを始めました。
二人とも東京に進学し、
卒業後は僕が沖縄の銀行に就職。
陽子さんも沖縄に戻って、
当時は彼女の叔父さんが社長をしていた
神村酒造を手伝っていました。
結婚は25歳のときです。
それから神村との親戚づきあいが始まりました。
そして僕が29歳から神村酒造へ。
銀行の仕事はわりと自分に合っていたと思いますが、
なにより神村のお酒のことを好きでしたし、
夫婦2人で頑張るほうが、
圧倒的に幸せだと思ったんです。
それから20年、泡盛をつくり、
泡盛のおいしさを伝える仕事をやってきました。
もともとは那覇市の首里城の近くにあった神村酒造ですが、1999年に「気持ちよく泡盛づくりができる環境を探して」、うるま市の石原高原の麓(ふもと)にあたるこの場所へ移ってきたのだそうです。
“泡盛のおいしさを伝える仕事”って、
どういうことかというと――。
泡盛って「最初に説明がいるお酒」なんです。
飲んだことのない人が圧倒的に多いですから、
「沖縄のキツいお酒なんでしょ」
というイメージだけはあって。
まずは「どう飲めばおいしいか」
ちょっとお話させてもらうだけで、
その後の反応がぜんぜん違うんですよ。
ですからこういったご時世になる前は、
1年の3分の1は県外に出て
酒屋さんや飲食店さん、
そのお客さんたちのところを回っていました。
もともと人と話すのが好き、
ということもありますが、
なんというかこう、
泡盛を誤解されたまま飲まれなくない、
という気持ちがあるのかもしれません。
神村酒造では、蔵見学にきた方には、泡盛の試飲も行っています。いくつか飲んでみると、それぞれの個性に違いがあって驚きますよ。
3人の子供に手がかからなくなってからは、
陽子さんと一緒にお客さんのところへ
行く機会が増えました。
「いつまでも仲がいいね」って
よく言われます。ありがたいです。
でも陽子さんのおかげです。
神村家の真面目な性格を継いでいるのか、
彼女は実直で職人気質なんです。
誰に対してもきちんと向き合って
話をするからだと思うんですが、
お客さんにすごく好かれるんですよ。
たまに百貨店の催しに
二人で立つことがありますが、楽しいですよ。
それぞれがフォローし合って、
いろんなお客さんと泡盛の話ができますから。
変な話ですが、
泡盛を飲んだことのない人のところに、
自分と陽子さんで訪ねて回りたいくらいだ、
と思ったりします。
そうすれば泡盛の面白いところ、
おいしさを全部お伝えできるのに。
「それでだめなら仕方ない」。
そう思えるんじゃないかと。
だから、
『泡盛なんて今まで
ちゃんと飲んだことがない』
という人に向けて、
「これを飲んでも『やっぱりダメ』
といわれるなら仕方ない」。
そんな泡盛がつくれたらいいなと、
ずっと思っていたんですよ。