第9回 対立は、回避できる。

──
構造構成主義が
対立を乗り越えるために「使える」ことは
わかりました。

でも、世の中には「難問」と呼ばれているような、
解消することが難しい対立もありますよね?
西條
どんな分野でも「難問」と呼ばれる問題というのは
だいたい、同じようなタイプが多いです。
──
それは、どのような?
西條
ひとつには、
「異なる正しさ同士のぶつかり合い」
です。
──
なるほど、それは「難問そう」です。

学問的な問題とはちがうかもしれませんが
たとえば宗教的な対立とか。
西條
それはもう、典型的な信念対立ですね。

異なる正しさの体系同士がぶつかるので
わかりあえる可能性が、ほぼゼロです。
──
信仰心の篤い人たちにとっては
宗教的信念って
妥協の余地のない問題‥‥ですものね。
西條
歴史をひもといてみれば、
それでも、ぶつかり合ってしまった場合には
腕力の強いほうが勝利を収めてきました。

それでは、本質的な解決にはならないです。
──
はい。
西條
宗教とは「信じること」を要請しますから
ちがう正しさを信じる者どうしは
相容れないんですけど、
その点、哲学は「疑うこと」を要請します。
──
なるほど。
西條
だからこそ「解決の余地」があるんです。

つまり
「この問題については、
 このように考えるしかないですよね、
 どうでしょう?
 吟味して、たしかめてみてください」
と、
少なくとも話し合いを持ちかけられる。
──
質問なんですけど、
宗教対立を根本的には解消できないにしても、
ぼくたち人間は、多くの場合、
何とかしよう、
何とかしたいなと思うじゃないですか。

そう言うような場合って、
どういう「方法」があると思いますか?
西條
どっちが優れているかという発想でなく、
ちょっと引いて
「そうじゃない考えかたもアリだよね」
という態度を認められるかどうか。

それは「教養」の問題だと思うんです。
──
教養。
西條
はい。
──
ようするに「培うことができる」と?
西條
そうです。
──
絶対的なものではなく。
西條
そうですね。

ニーチェは
「真理というものは、その人にとって
 ものすごく役立つものの別名である」
という言い方をしました。

つまり、そういう言い方で、ニーチェは
真理を「相対化」したんです。
──
「真理」すら相対化できるんだとしたら
信念の対立も
絶対的じゃないのかなって思えます。
西條
死のうと思っていた自分を救ってくれた、
いきいきとはたらけるようになったし、
友だちもできた‥‥
もしそんなものがあったら、
それは
その人にとって、すごい「真理」ですよね。

めちゃくちゃ役に立ってるわけだから。
──
ええ。
西條
人によって、それは「宗教」かもしれないし、
あるいは「哲学」かもしれない。
──
「一冊の小説」かもしれない。
西條
そうです。

そして、それらは
その人にとって「絶対的な真理」だとしても
他の人にとって
必ずしもそうであるとは、限らないんです。
──
なるほど。つまり、
「自分にとっての真理を絶対視しない」
というのは、
「身に付けることのできる態度」であり
「培うことのできる教養である」と。
西條
価値観が多様化していく時代に、
「自分とは別の価値観を認められる教養」は
大切になってくると思います。
──
ただ、これはどうしても認める気にならない、
もっと言うと、
こういうことをする人は好きになれない、
みたいなことって、
しょっちゅうあると思うんですけど、
「みんながみんな、
 わかり合わなければダメ」なんでしょうか?
西條
いえ、そんなことはないでしょう。

構造構成主義については、
よく
「みんなでわかり合って仲良くするための理論」
だと誤解されるのですが、
かならずしも、そうではありません。

「状況と目的」を考えたら
「棲みわけ」したほうがいい場合もあります。
──
無理に仲良く‥‥なんて、できませんものね。
西條
「どうしても、あいつとはソリが合わない」
ときには
「静かに離れればよい」のではないかなと。
──
これまでの歴史を考えても
力ずくで「ひとつになろう」としてみても
なんか、いいことなさそう。
西條
固有の「状況と目的」を考えず
無闇やたらに、
すべてを「統一」しようとするのはダメでしょう。
──
それこそ全体主義的ですものね。
西條
ただ、構造構成主義も
はじめは「心理学の<統一>理論」の論文として、
構想したものだったんです。

※参考‥‥西條剛央・京極真・池田清彦編
現代思想のレボリューション』に
以下の論文として掲載。
「『心理学の統一理論』の構築に向けた
 哲学的論考 - 構造構成主義の構想契機」
──
あ、そうなんですか。
西條
でも、ちょうど
構造構成主義とは何か』を書いているとき、
ミスチルの曲に「ハッ!」としまして。
──
えーと、ミスチルというのは
あの、人気バンドの「Mr.Children」の?
西條
具体的には、彼らの『掌』という曲の

「ひとつにならなくていいよ
 認め合うことができればさ
 もちろん投げやりじゃなくて
 認め合うことができるから」

「君は君で僕は僕 そんな当たり前のこと
 何でこんなにも簡単に
 僕ら見失ってしまえるんだろう?」

‥‥という部分なんですが。
──
ええ、聞いたことあります。
西條
そのフレーズを耳にしたとき、
「ああ、そうだよな、
 たがいに認め合えればいいのであって、
 何かを
 無理に統一する必要なんてないよな」
と素直に思えたんです。

そこで、ちょうど執筆していた
『構造構成主義とは何か』のあとがきに、
引用させていただきました。
──
哲学書のあとがきに、ミスチルが登場。
西條
哲学プロパーの学者からしたら
「専門書に、Jポップを引用するなんて!」
と「もってのほか」なんでしょうけど、
ぼくにすれば、
深いところで影響を受けた「考え」が
専門的な論文でなければならない理由は、
とくになかったので。
──
ひとつ、うかがいたいのですが
ミスチルの歌詞の「認め合う」ことって、
西條さんの言う「棲みわける」こととは
反対のこと‥‥ですよね?
西條
これは、僕の勝手な解釈なんですけど、
ここで言う
「認め合えればそれでいい」
というのは「存在」の話なんじゃないかと。
──
存在?
西條
誰かの考え方や思想、信条、宗教、行動に
賛成できないなんてことは、
日々、しょっちゅう、あるわけですよね。
──
ええ、誰にだって。
西條
でも、その人の存在、つまり
「誰もが、一生懸命生きているということ」
自体を認め合うことだったら
どんな対立のうえでも、可能だと思う。
──
そこは「侵してはならない部分」として。
西條
ええ、どんなに「対立」していたとしても
ギリギリ最低限、その部分では
たがいに認め合うことが、できると思うんです。
<つづきます>
2014-10-02-THU