- ──
- 山口さんが何かを「見る」というときに
「意味をはずす」とは、
いったい、どのような行為なのでしょう。
- 山口
- はい、だいたい観念でものを見てんです、
わたしたちというのは。
東大で建築の3年の学生さんに
デッサンを教える授業をやっていまして、
いろいろお題を出すんですが、
最後はモデルさんを描いてもらうんです。
- ──
- はい。
- 山口
- モデルさんの「手」を描いてもらうと、
どの学生さんも、いい手を描くんです。
きちんと観察して、
あ、この関節なら曲がるねというような、
そういう手を描いてくるんです。
- ──
- ええ、ええ。
- 山口
- ところが、これが「顔」になると、
ほとんどの学生が、
「へのへのもへじ」になっちゃう。
- ──
- へー‥‥そうなんですか。
- 山口
- 実際、へのへのもへじを描くわけじゃなく、
ものの見方が観念的になると言うか、
ようするに「見なくなる」んです、途端に。
- ──
- 顔を。
- 山口
- もう、平気で目の輪郭なんかを描きます。
いや、つまり、実際わたしたちの目には
輪郭をなす黒い線など1本もなく、
形と影があるだけなのに、
この線は、
あなたの顔のどこにありますかって線を、
平気で描いてくるんです。
- ──
- 手の絵を描くときは、そんなことないのに。
- 山口
- そうです。たとえば、
カラーコンタクトをしている目が死ぬのは、
黒目の縁がくっきり出すぎるからです。
本物の目玉というのは、
白目に対し黒目が、じわっと滲んでいる。
それをくっきり描けば、
目玉は、途端に、ガラス玉になってしまう。
そんな絵を、描いてくるのです。
- ──
- カラーコンタクトの目の
あの不自然さは、そういうことだったのか。
- 山口
- 顔や表情に対する人間の認識力には、
ものすごいものがあります。
その回路の速さは尋常でなくて、
「ライオン→逃げろ!」というスピード感で、
人は、人の表情を読み取っています。
- ──
- ほとんど反射的に。
- 山口
- そうしますと、
とにかく「意味」が最初に来るんですね。
- ──
- つまり、モデルの顔も、意味で見ている?
- 山口
- あ、口角が上がってるから笑ってる、
だからよろこんでる、
ああ、こんどは下がった、怒ってる。
眉間にしわが寄ってるから悲しんだ、
何か元気づけてあげないと‥‥とか。
- ──
- 瞬時に見極めて、対応を判断して。
生き抜くための技術なんでしょうね。
- 山口
- ただ、そうすると、
観察がどんどんおろそかになりますよね。
意味で瞬時に判断できれば、
そりゃ、どんどんものを見なくなります。
- ──
- その最たるものが「人の顔」であると。
- 山口
- 意味に縛られないほうが、
よっぽど視覚の機能を使えると思います。
そこで、わたしたち絵描きは、
描く対象を「前景化」させない、という
方法をとっているのです。
- ──
- 前景化‥‥させない。
- 山口
- つまり、これがヒーターであると思えば、
周囲は「背景」として後ろに退きます。
しかし、絵描きが絵を描くときには、
その退がった後景を、
すすすっと前のほうへ戻してやるんです。
- ──
- それが「意味をはずす」ということ?
- 山口
- そう、本来、わたしたちは、
すべてを、等価に見ているはずなんです。
ヒーターだろうが壁だろうが何だろうが。
意味で優劣をつけず、すべてを等価に。
「等価」というのは、つまり「平坦」に。
- ──
- ああ、なるほど。
- 山口
- そう、そうやって「見」ないと、
絵というのは、描けない部分があります。
そして、そう「見る」ためには、
ヒーターから意味をはずす必要が、ある。
- ──
- ようするに、
この目の前の物体は、ヒーターじゃなく。
- 山口
- ええ、これくらいの視野の範囲のなかに、
こういう色相の、
こういう形態の物体として認識してやる。
そうすると、
そことこことは明らかに質感がちがうぞ、
ああ、表面が起毛しているから、
光の回り込み度合いがちがうからだなと、
物体本来の質感が、グッと認識されます。
- ──
- はー‥‥。
- 山口
- ヒーターと呼ばれている物体の上部から、
にゅーっと伸びた黒っぽい部分、
ああ、これは、この部屋の「柱」だなと。
- ──
- 実際にはヒーターのうしろに立つ、柱。
- 山口
- そんなふうに意味をはずして見ていくと、
景色というものは、
どんどん等価に、平坦になっていきます。
- ──
- そうしないと、絵は描けないんですか?
- 山口
- 正確に言えば「観察」できない、ですね。
意味をはずして、ゆっくり見なければ。
学生のころに聞いた、
いまでも忘れられないお話があるんです。
それは、視覚は正常だったんですが、
まぶたが癒着して開かなかったか何かで、
大人になってから、
はじめて、外の世界を見た人の話でして。
- ──
- ええ、へえ、そんな人が。
- 山口
- そのとき、その人、
この世の中がどう見えたかと申しますと、
さまざまな色彩が
「目玉に張り付いてる」と感じたらしい。
- ──
- ペッタリと。
- 山口
- つまり「奥行き」を感じなかったという。
- ──
- ああ、ようするに「平坦」に見えた。
- 山口
- でも、その後ふつうに暮らすようになると、
「ああ、これが、
みんなが言ってた洋服ダンスってやつか」
「ああ、これが、
みんなが言ってたオムライスってやつか」
と名付けが行われるにしたがって、
だんだん、そのもの自体が前景に出てきて、
背景が引っ込んでゆき、
視覚に奥行きが生まれたんだそうです。
- ──
- おお、おお。
- 山口
- ようするに、原初の視覚というものは、
みんな等価なんだ、みんな平坦なんだ、と。
それこそ、まさに「絵」なのではないかと。
絵というものは、原初の記憶なのか‥‥と。
- ──
- あああ。
- 山口
- 意味をはずして、すべてを「等価」にして、
目の前の景色を「平坦」にしてやる。
わたしは、そこに、
絵のひとつのかたちがあると思います。
子の字引留行形柱
2010
紙にペン、水彩
pen, watercolor on paper
35 x 24 cm
撮影:宮島径
©️YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery