技術とは、なぜ、磨かれなければならないか。HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN
画家・山口晃さんに訊く技術論Part2
山口晃の見ている風景。「見」続ける絵描きの創作論。 山口晃の見ている風景。「見」続ける絵描きの創作論。

画家・山口晃さんに訊く「創作論」です。
2013年の春先に
「技術とは、なぜ、磨かれなければならないか」
と題して連載し、
好評を得たコンテンツの続編でありつつ、
その枠に収まることなく縱橫に広がっていく
第一級の「つくるとは、何か」論。
絵や美術を志す人はもちろん、
真剣にものをつくっている人、
真剣に人生に向き合っている人には、
きっと、何かが、突き刺さると思います。
対象をじっと見て、感じ、手を動かし、また見、
そうしてうまれた自分の作品に、
ひっきりなしに裏切られながらも、つくる。
絵を描くということが、
こんなにもスリルに満ちた営みだったとは。
担当は「ほぼ日」奥野です。お楽しみください。

意味をはずす。
──
山口さんが何かを「見る」というときに
「意味をはずす」とは、
いったい、どのような行為なのでしょう。
山口
はい、だいたい観念でものを見てんです、
わたしたちというのは。

東大で建築の3年の学生さんに
デッサンを教える授業をやっていまして、
いろいろお題を出すんですが、
最後はモデルさんを描いてもらうんです。
──
はい。
山口
モデルさんの「手」を描いてもらうと、
どの学生さんも、いい手を描くんです。

きちんと観察して、
あ、この関節なら曲がるねというような、
そういう手を描いてくるんです。
──
ええ、ええ。
山口
ところが、これが「顔」になると、
ほとんどの学生が、
「へのへのもへじ」になっちゃう。
──
へー‥‥そうなんですか。
山口
実際、へのへのもへじを描くわけじゃなく、
ものの見方が観念的になると言うか、
ようするに「見なくなる」んです、途端に。
──
顔を。
山口
もう、平気で目の輪郭なんかを描きます。

いや、つまり、実際わたしたちの目には
輪郭をなす黒い線など1本もなく、
形と影があるだけなのに、
この線は、
あなたの顔のどこにありますかって線を、
平気で描いてくるんです。
──
手の絵を描くときは、そんなことないのに。
山口
そうです。たとえば、
カラーコンタクトをしている目が死ぬのは、
黒目の縁がくっきり出すぎるからです。

本物の目玉というのは、
白目に対し黒目が、じわっと滲んでいる。
それをくっきり描けば、
目玉は、途端に、ガラス玉になってしまう。
そんな絵を、描いてくるのです。
──
カラーコンタクトの目の
あの不自然さは、そういうことだったのか。
山口
顔や表情に対する人間の認識力には、
ものすごいものがあります。

その回路の速さは尋常でなくて、
「ライオン→逃げろ!」というスピード感で、
人は、人の表情を読み取っています。
──
ほとんど反射的に。
山口
そうしますと、
とにかく「意味」が最初に来るんですね。
──
つまり、モデルの顔も、意味で見ている?
山口
あ、口角が上がってるから笑ってる、
だからよろこんでる、
ああ、こんどは下がった、怒ってる。

眉間にしわが寄ってるから悲しんだ、
何か元気づけてあげないと‥‥とか。
──
瞬時に見極めて、対応を判断して。
生き抜くための技術なんでしょうね。
山口
ただ、そうすると、
観察がどんどんおろそかになりますよね。

意味で瞬時に判断できれば、
そりゃ、どんどんものを見なくなります。
──
その最たるものが「人の顔」であると。
山口
意味に縛られないほうが、
よっぽど視覚の機能を使えると思います。

そこで、わたしたち絵描きは、
描く対象を「前景化」させない、という
方法をとっているのです。
──
前景化‥‥させない。
山口
つまり、これがヒーターであると思えば、
周囲は「背景」として後ろに退きます。

しかし、絵描きが絵を描くときには、
その退がった後景を、
すすすっと前のほうへ戻してやるんです。
──
それが「意味をはずす」ということ?
山口
そう、本来、わたしたちは、
すべてを、等価に見ているはずなんです。

ヒーターだろうが壁だろうが何だろうが。
意味で優劣をつけず、すべてを等価に。
「等価」というのは、つまり「平坦」に。
──
ああ、なるほど。
山口
そう、そうやって「見」ないと、
絵というのは、描けない部分があります。

そして、そう「見る」ためには、
ヒーターから意味をはずす必要が、ある。
──
ようするに、
この目の前の物体は、ヒーターじゃなく。
山口
ええ、これくらいの視野の範囲のなかに、
こういう色相の、
こういう形態の物体として認識してやる。

そうすると、
そことこことは明らかに質感がちがうぞ、
ああ、表面が起毛しているから、
光の回り込み度合いがちがうからだなと、
物体本来の質感が、グッと認識されます。
──
はー‥‥。
山口
ヒーターと呼ばれている物体の上部から、
にゅーっと伸びた黒っぽい部分、
ああ、これは、この部屋の「柱」だなと。
──
実際にはヒーターのうしろに立つ、柱。
山口
そんなふうに意味をはずして見ていくと、
景色というものは、
どんどん等価に、平坦になっていきます。
──
そうしないと、絵は描けないんですか?
山口
正確に言えば「観察」できない、ですね。
意味をはずして、ゆっくり見なければ。

学生のころに聞いた、
いまでも忘れられないお話があるんです。
それは、視覚は正常だったんですが、
まぶたが癒着して開かなかったか何かで、
大人になってから、
はじめて、外の世界を見た人の話でして。
──
ええ、へえ、そんな人が。
山口
そのとき、その人、
この世の中がどう見えたかと申しますと、
さまざまな色彩が
「目玉に張り付いてる」と感じたらしい。
──
ペッタリと。
山口
つまり「奥行き」を感じなかったという。
──
ああ、ようするに「平坦」に見えた。
山口
でも、その後ふつうに暮らすようになると、
「ああ、これが、
 みんなが言ってた洋服ダンスってやつか」
「ああ、これが、
 みんなが言ってたオムライスってやつか」
と名付けが行われるにしたがって、
だんだん、そのもの自体が前景に出てきて、
背景が引っ込んでゆき、
視覚に奥行きが生まれたんだそうです。
──
おお、おお。
山口
ようするに、原初の視覚というものは、
みんな等価なんだ、みんな平坦なんだ、と。

それこそ、まさに「絵」なのではないかと。
絵というものは、原初の記憶なのか‥‥と。
──
あああ。
山口
意味をはずして、すべてを「等価」にして、
目の前の景色を「平坦」にしてやる。

わたしは、そこに、
絵のひとつのかたちがあると思います。
子の字引留行形柱

2010

紙にペン、水彩

pen, watercolor on paper

35 x 24 cm

撮影:宮島径

©️YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery
(つづきます)
2018-03-09-FRI