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山野井さんの書かれた『垂直の記憶』を読んで、
なんてすごいかたなのだろう、と思ったんです。
本に書かれていた
どの登山のこともおもしろかったのですが、
やはり2002年のヒマラヤで、
天候悪化により遭難をしかけながらも
奇跡的に生還されたお話が、すごくて。
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山野井 |
ギャチュンカン北壁のときの
登山ですね。
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たとえば、雪崩がひんぱんに起こるなか
岩壁を下りている途中で、
山野井さんの眼球が、
寒さにやられて何も見えなくなってしまった。
けれども、下りないことには死んでしまうから、
山野井さんは
「いちばん使わない指はどれだろう」と考え、
凍傷を覚悟で、
左手の小指、右手の小指、左手の薬指‥‥と
重要度の低そうな指から順番に犠牲にして
壁のかたちを探り、
なんとか脱出した‥‥という。
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山野井 |
それで凍傷になって、
指を切ることになった、という話ですね。
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はい。しかも、様々なインタビューで山野井さんは、
指を失ったその登山について
「最高の登山だった」と話されています。
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山野井 |
いろんなインタビューで話してきたことですが、
あの登山でぼくは、
自分の持てるすべての力を使って
山と向き合うことができたんですね。
だから、あのときのことは今でも
「いい登山ができたな」と思ってるんです。
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もしかしたら死んでしまうかも、という
可能性もあったと思うのですが。
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山野井 |
たしかに判断を誤ってたら死んでたかもしれない。
だけど、そういう状況の中でも、
自分の体や頭を駆使して帰ってこれたわけだから。
「つらい」という感覚は、なかったですね。
「つらい、苦しい」とか、
「気持ちが折れないようにしなきゃ」とか
そういうことはまったく思わなかった。
ぼくは山で起こるアクシデントって、
山登りをはじめたときからずっと、
「山の一部」だと思っているから。
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アクシデントも、山の一部。
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山野井 |
うん、「必ずついてくるもの」ですね。
そういったアクシデントが
山のおもしろみとまでは思わないけど。
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手足の指を失ったその後も、
山野井さんは同じように
山登りを続けていらっしゃいます。
どうしてそこでくじけたりせず、
登り続けることができているのでしょうか。 |
山野井 |
ああ、 それはよく聞かれる質問なんだけど、
ぼくとしては指を切った後で
登り続けていることに
「どうして」も「なぜ」もないんです。
たしかに、技術は落ちました。
だけど下手なら下手なりに、
そのときの最高レベルのものに合わせて
動いて、考えて、持てる力をぜんぶ使って、
息を切らしながら登っていれば
それはもう、幸せなことだと思うんです。
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全力で登っていれば。
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山野井 |
全力を尽くすのって、おもしろいじゃないですか。
あと、たしかに登山って、
今までの登山の歴史を見ながら
そこに挑むような側面もあるんですが、
ぼくにとっての登山というのは
対人(たいひと)ではないんですね。
誰かが成し遂げてきた歴史に挑むよりも、
ぼくは、自分なりの山登りを追求するほうに
興味があるんです。
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その「自分なりの山登りを追求したい」
という山野井さんの考え方は、
昔からずっとそうですか?
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山野井 |
基本的にはずっとそうなんだと思います。
たぶんもともとぼくは、
「他の人と比較する」ようなことに
あまり興味がないんですね。
20代の頃には、すごい登山をしている人を見て
「自分もあんな登山をしてみたいなあ」と
思ったこともあった気がするけど、その程度。
そして今はもう、100パーセント
「他の人のことを考えても仕方ないな」
と思っています。
もう、
「自分の好きなことだけを追求しないと、
残りの人生少ないよ」みたいな(笑)、
そんな思いがあるんです。
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指を切られた前と後とで、
山野井さんの実際のクライミングに
変化はあったのでしょうか。
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山野井 |
実際にやっていることはずいぶん違いますね。
今のぼくは、小手先の技術を使って、
ごまかしごまかし登っているんです。
昔はもっと本能でクライミングをしていたけど、
今は一手一手、複雑に指を使いながら
「この2本指を、この向きで使ったら掴めるな」
とか、考えながら登ってる。
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そうなんですか。
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山野井 |
ええ、これは「頭で登ってる」わけだから、
少し嫌なんですけどね。
前みたいに本能で岩をパッパッと掴んで、
ワシワシ登っていくほうが楽しいんですよ。
‥‥あと、
腕や足に疲労が溜まっていくのを感じながら
ヒュッと腕を伸ばしていく気持ちよさは
クライミングの醍醐味なんだけど、
その感覚も、以前ほどは味わえなくなりました。
たぶん、手の小指の握りこみが足りないせいだと
思うんだけれども‥‥。
まあ、こういった部分は、
やっぱりちょっと寂しいところです。
ただ、この手になったことで
「試行錯誤しながら登る」ことのおもしろみは、
前より感じられるようになりましたね。
クライミングって最初はできなかったことでも、
試行錯誤をするうちに体が覚えて、
できるようになることがあるんです。
そういったたのしさは、
昔よりもわかるようになりました。
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試行錯誤するたのしさ、ですか?
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山野井 |
そうですね。
この手になったおかげで、
トライし続ければ、この指でだって
いろんな岩を登れることがわかってきた。
指を切った当初は
ものすごく痛かったし、血も出るし、
まったく登ることができなくなっていたけど、
今のぼくは、
普通の人だと登れないような岩まで
登れるようになってきているし。
だから、ずいぶん難易度の高いような壁にも
挑戦するようになりました。
今のぼくは「この手も育つ」ことを知ってるから。
昔だったら、50回トライして、
ようやく登れそうな壁を登っていたけど、
今は100回、200回トライして
登れるような壁に挑戦するようになってる。
できなかったら、そのときは
さらに挑戦する回数を増やせばいいだけだから。
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‥‥山野井さんの精神力というのは、
いまもずっと、
鍛えられ続けているのでしょうか。
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山野井 |
どうだろう‥‥でも、これは、
「精神力」とかではないかもしれない。
ぼくは登山の技術とかを
我慢して維持してるわけじゃないからね。
なにか耐えてるとか、
「頑張らなきゃ」とか努力してるわけでは
ないですよね、まったく。
やっぱりぼくは、
ただただ登るという行為がおもしろいから
登り続けているんだと思うんです。 |
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(続きます) |